ボールが綺麗に流れていくのが好きだった。バッシュが床と擦れ合って甲高い音を上げるのが好きだった。シュートが決まれば仲間の誰かが声を掛けるあの空気が好きだった。ブザービートと共に歓声に包まれることが好きだった。お互いがお互いを高めあう―――そんなバスケが好きだった。
けれど僕の手はもうボールを掴めない。ドリブルだって出来ないしパスもシュートも出来ない。そうなってから相当の時間が経つのだけど、時々ふと無性に気持ちがこみあげてくる。それは体に染み付いた興奮がきっと抜けていないからだ。
僕がこの世を去ってから、もうすぐ五年が経ってしまう。
幽霊が成仏しない理由と考えれば、まず最初に思うのがこの世への未練だ。その点で言えば僕は条件を十分に満たしている。なにせ死んだのが中学二年生の時だ。まだまだしたいことがたくさんあった。なかでもバスケはもっとやりたかったのだ。大学に入ったら出来なくなってしまうかもしれないから、高校時代をバスケに費やそうと考えていた。なのに高校どころか中学すら卒業出来ていない。優しい先生は死んだ僕に対して前倒しと言って卒業証書をくれたが、そんな紙で気持ちが晴れたかと聞かれたら是とは言えなかった。
「……退屈です」
僕は幽霊の中で所謂地縛霊というやつらしい。現に僕はこの第四体育館から出ることが出来ないのだ。生徒の一人が開け放った扉から出ようとしたら見えない壁に阻まれてしまった。
こうなると僕には練習をしている人達を見ることしか出来ない。もちろん彼らに僕は見えていないから、彼らは何事もないように練習をしていた。僕はそんな彼らをステージの上で足をぶらぶらさせながら見ていた。お世辞にも僕は生前上手い選手ではなかったから、彼らに何かを教えることは出来ない。それでも何かアドバイスくらいはしたかった。まぁ存在を認識出来ていないのだから無理だけど。
「バスケ……したいなぁ………」
五年間僕は同じようなことを考えている。普通の幽霊なら好きな場所に行けるからいろんなものが見えるし分かるのに、僕は地縛霊だから此処から出られない。当然だが知識も思い出も何もかも五年前から何も変わらないのだ。だから思い出に浸るといっても浸っていない思い出が無い。知識も増えないから意味は全く無い。まさに生き地獄―――いや死んでるけど。
「バスケ………」
最後の生徒が片付け忘れたのか、ぽつんとボールが取り残されている。片付けてあげたいけどボールに触れないから無理だ。黒子はボールに近づくだけ近づき、触れない手でボールに触れた。もちろん透けてしまったが。
「えっ、透けた……?」
突然の声に僕は下を向いていた顔を上に上げた。そこには褐色のいかにもスポーツ少年といった人がいる。彼は片手でボールを持ってそこに立っていた。
「………良い体型ですね、羨ましい」
「しゃべった!!」
大きな声で話す彼の声は体育館によく響く。本当なら五月蝿いですと言いたいが、僕はそれより大切なことに気づいた。―――もしかして僕が見えてる?
「君、僕が見えるんですか?」
「見えるって……やっぱお前幽霊?」
「はい」
「…………」
急に黙ってしまった。何か変なことを言ったかなと不安になる。不安になった僕は彼を覗き込むかのように近づいた。―――しかし改めて見たり近づくと彼は大きい。今時の中学生の発育に僕は神秘を感じた。
「………あれ?」
彼は見事に意識を飛ばしていた。
「いきなり倒れたので焦りました」
「誰だって幽霊なんか見たら平気じゃいられねぇよ」
彼の名前は青峰大輝くん。一年生にして一軍入りをしたスーパールーキーである。僕にはバスケの才能が無かったからとても彼が羨ましい。けれど才能に関しては先天的なものなので仕方ない。
青峰くんは落ち着いて練習がしたくて第四体育館に来たようだ。上手いのに向上心があるのは素晴らしい。才能に胡座をかいている人間だったら嫌いになれたけど、努力している青峰くんを見て僕は嫉妬なんてしなかった。この場合はできなかったが正しいかもしれないが。
「そっか、テツは此処から出られないのか」
「はい、地縛霊ですから」
青峰くんの同級生には他にも天才がいるらしい。今はまだ荒削りの原石だが目指すは全中三連覇だとか。自信満々の青峰くんを見て僕は彼らなら出来るとなんとなく思った。
「今度そいつら連れてきてやるよ」
「ホントですか?」
「おう!」
青峰くんはとても優しい。幽霊の僕を怖がらずに真っ直ぐ接してくれる。その優しさに僕は地縛霊になって初めて嬉しさを感じた。
後日彼らが来てくれたのだが、なんと彼らにも僕が見えると分かり、天にも昇りそうな気持ちを味わうことになる。
「そういえばこの前テツヤを見たよ」
パチリと赤司くんが盤上の駒を動かす。僕は赤司くんの言った意味が分からなくて首を傾げながら、次の一手を口頭で言った。僕の手では駒に触れることが出来ないから代わりに動かしてもらうのだ。赤司くんの周りで将棋が出来る人は緑間くんしかいないようで、僕が出来ると言ったら大層喜んでくれた。ちなみに僕の祖父は段持ちで僕もそれなりに強い。
「赤司くん、今のはどういう意味ですか?」
「過去の卒業アルバムを見る機会があってね。そこでテツヤを見たんだ」
「そういうことでしたか。僕がもう一人いるのかと思って冷や冷やしました」
世界には自分に似た人が三人いると言われているからあり得ないはなではない。その人同士が会うと消えてしまうという都市伝説があるがどうなのだろう。会ってみたいと思うが叶わない願いなので思った後で虚しくなった。
「テツヤに兄弟とかはいないのか?」
「僕は一人っ子ですからいないですね。あっ、でも下が生まれた可能性はあるかも……」
僕の両親は落ち着きがあるが若めである。僕を生んだのか20歳なのでまだ可能性はあるだろう。僕がいなくなったことで子供が欲しいと思うのはおかしくない話だ。
「……そういえばもうすぐ全中ですね。みなさん調子はどうですか?」
「順調だよ。今まで帝光は準優勝さえしたものの優勝はなかった。だけどこのメンバーでなら更なる高みに行ける」
赤司くん達が一軍入りしたことによって帝光バスケ部は飛躍的に戦力が上昇した。スターターとしては二・三年が出るものの結局は赤司くん達に声が掛かる。たとえ先輩達で勝てる試合でも赤司くん達は必ず出て、差をつけて帝光に勝利をもたらしていた。
「テツヤには僕達の試合を見てもらいたかったんだけどな」
「此処で試合をするのはバレー部とかくらいですから」
第四体育館でバスケ部は試合をしない。なんたってバスケ部は帝光が誇るべき部なのだ。第四体育館だなんてバスケ部を馬鹿にしているにも程がある、と顧問達は考えているようだ。いつか第四体育館で試合をしてくれないかと黒子は願っているが、叶う兆しはありそうにない。
「けれど君達のプレイはビデオで見てますから、寂しくはないですよ」
「生はもっと感動するだろうけどな」
一度顧問と本気で話し合ってみようかと、そう考えた赤司くんであった。
しかし実際僕が試合を見ることはなかった。赤司くんといえどきちんとした理由無しに例外を認めてもらえる筈が無かった。まさか地縛霊に見せたいなどとは言える筈が無く。新たなメンバーである黄瀬くんが加わり賑やかさは増したものの、僕はみんなの活躍に間接的にしか触れることが出来なかった。
しかしそれだけなら、まだ良い方だったのだ。僕はその時開花故の離別という未来を知らなかった。まさかこんな温かな時間が崩れ去るとは思いもしていなかった。バスケから離れていった青峰くんを筆頭に段々みんなが離れていき、第四体育館に集まることもなくなり、僕の存在など簡単に忘れられていく。昔と同じ状態に戻っただけなのだが、一度幸せを知ってしまった僕にとっては地獄のような時間だった。
そうして五人は卒業していき、僕はただ一人体育館に置き去りにされた。
「なぁ、お前そろそろ消えんじゃね?」
「――かもしれませんね。でも今まで残れたのは君のおかげです。ありがとう、灰崎くん」
「礼なんていらねぇよ。暇つぶしだったしな」
限りなく透明に近い僕は今にも消えそうである。けれど僕の執念と灰崎くんが覚えているという事実だけで、僕は今存在を保っていた。気を抜けばきっと綺麗に消えてしまう。そんな状態で僕はずっと気掛かりだったことを聞いた。
「彼らはどうですか?」
「負けたよ、みんな誠凛ってトコにな。青峰もバスケを楽しんでたぜ」
「そうですか……良かった」
卒業式の日、一人灰崎くんは体育館を訪れ僕にみんなの進路を告げた。そしてみんながどういう状態なのかも告げた。灰崎くんと僕は仲が悪くもないが良くもないため、ずっと不干渉だったのだが、離別以後の僕が気になっていたから、だからわざわざ会いに行ったのだ。そして灰崎くんはそこで五人の状態などを報告する任を、自ら引き受けた。僕の絶望を深めるだけになるかもしれないが、それでも放っておけなかったのだ。だが誠凛という存在のおかげで五人は順調に改心していき、見事全員を下す結果となった。想像していなかった展開だが、僕には良い報告が出来ると思っていたらしい。しかし五人が変わっていくほど僕の存在は薄れていき、誠凛の優勝と共に僕の姿はほとんど空気と化していた。僕の中の心残りが消えたという意味なのだと分かってはいるが、そのことがなんとも憎たらしい。灰崎くんにとって僕は最早大切な存在になっていたそうだ。
「お前が会いたいなら呼ぶけど、どうする?」
「もういいですよ。それに彼らにはもう僕は見えない」
「?」
「彼らにとって僕はもう要らない存在です。だから会ったところで見えもしないし話せない。幽霊だからですかね、分かるんですよ」
悲しそうな、諦めている表情で僕は虚空を見つめる。僕だって五人に会いたいのだ。でも見えないという事実を実際に見せつけられるのが嫌で、そこから目を反らしている。灰崎くんはどうにかしてやりたいと思っていたが、僕と五人の問題なため、何もすることができない。その歯がゆさに思わず灰崎くんは手を握り締めていた。
「灰崎くん、本当に今までありがとう。僕は君に出会えて幸せだった。だからこそ、最期まで幸せに逝きたい」
僕の表情はとても穏やかで、もういなくなるのだと告げていた。目に溜まった涙がポロポロと頬を伝っていく。灰崎くんはぐいっと拭った後に、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「一人で勝手に完結させんな。ちゃんと役者は揃えてんだよ」
「黒子っち!」
ガタンと大きな音を立てて扉が開かれる。逆光で顔は見えないのだが、その声を聞き間違える筈はない。高校生離れした身長にキラキラと映える蜂蜜色の髪。彼以外にも一度見たら忘れられないような人達が、肩で息をしながら扉のところで立ち尽くしていた。
「なんだよ、見えてんじゃん。幽霊とやらの勘は大したことねぇな」
「………みなさん」
「遅くなった、すまない」
最後に会った時からみんな成長していて、ただでさえ立派だった体は更に格好良くなっている。会っていない期間は一年と半年程、その間にみんな男へ成長していた。そして顔つきも以前のように輝きが戻っていて、本当に変えてくれたのだと誠凛に感謝する。僕には出来なかったことを、誠凛は果たしてくれた。もう会う機会は無いだろうが、欲を言うなら会ってみたかったというのが本音である。
「最後にみなさんと会えて……本当に良かった」
「会えて良かったって言うなら消えない努力をしろ」
「そうだよ黒ちん、またお菓子談議しよー」
「そうですね、紫原くんとのお菓子話楽しかったです。緑間くんとも本の話をしたかった」
「確かにお前と緑間本好きだったもんな。バスケ部で読書家とかありえねぇわ」
「失礼なのだよ!」
「青峰くんは正直かなり心配だったんですが、もう大丈夫そうですね」
「大輝言ってやれよ、火神に負けて世界を知ったって。コイツずっと心配してたんだからさ」
「……まだ昔みてぇにはなれないけど、ちゃんと見えてるから。だから大丈夫だ」
「………良かった」
ぽうっと僕の体が光り輝いていく。その姿を見て灰崎くんは、もう逝くのかと呟いた。今まで話せていたから大丈夫かとも思ったのだが、限界を迎えたようだ。五人も表情を歪めていて、僕は少し悲しそうな顔をした。本当は笑顔で見送って欲しかったのだが、どうやらそれは無理そうである。
「本当に今までありがとう。また生まれ変わったら、君達に会いに行きたいです」
今後は体育館ではなく自由に外でバスケを見たりやりたい。僕は神様にそう頼んで、静かにこの世界から飛び去っていった。
「もう逝ったのか」
赤司が悲しそうな顔で宙を見ている。やはり見えなかったのだと、灰崎は声のトーンを落とした。
「あぁ、逝ったよ。生まれ変わってお前らに会いに行きたいだとさ」
「人伝じゃなくてテツヤの声で聞きたかったが仕方ない。テツヤを手放した僕らが悪いんだからね」
最期なら見えるかもしれないという希望は叶わなかった。結局何も見えない虚空に対して一方的に話すだけ。灰崎がいなければ何も出来なかった。だって黒子の声は五人に聞こえていないのだから。
「お前が再びこの地に帰ってくるのを、僕たちは待っているよ」
それだけ言い残すと五人は背を向けるように、体育館を後にした。
その十五年後、五人はとあるコートでとある水色を目にすることになる。