灰崎とスタメンを賭けた戦いは黄瀬の惨敗という形で終わった。見れば真似できる、全てをそつなくこなす黄瀬故の傲慢さが祟ったとでも言うべきか。他の部員が遠巻きに黄瀬を見ている。その視線全てが黄瀬を哀れみ同情し嗤うかのようで、黄瀬は途端に胸が苦しくなった。こんな感情は今まで知らない、誰か教えてくれ。誰か、誰か、誰か―――。
「大丈夫ですか?」
黄瀬の前に差し出された手は見知らぬ人のもの。顔を上げれば見たことのない人が黄瀬に手を向けていた。淡い水色の髪がふわりと揺れる。大きな水色の瞳は美しい深海のようだ。この子誰だっけ?と思う前に彼女は言葉を続けた。
「膝、もしかしたら痛めているかもしれないので部室に来て下さい。テーピングしておきましょう」
「えっ、でもテーピングはそこに――」
「いいえ、私の使うテーピングは部室にあるんです。ほら、早く立って下さい」
急かされたので手を取り立ち上がると、その子は黄瀬の手を握り部室まで行く。扉の前まで来たとき、黄瀬はようやくその子の優しさに気づいた。きっと彼女はあの場から黄瀬が逃げ出せる口実を作ってくれたのだ。お礼を言おうと思ったがその前に部室のベンチに座らされてしまい、タイミングを逃してしまった。
「何か飲みますか?スポドリとかお茶とか……」
「優しいっスね。えっと、マネージャー?」
「そうです」
やはりマネージャーのようだ。しかし黄瀬は今までの練習で彼女の姿を見たことが無い。タイミングが合わなかったからと言われたらそれまでだが、釈然としないものを黄瀬は感じた。
「黄瀬くんが僕に会ったことがないのは、僕が一軍を中心に活動しているからですよ」
「一軍を中心って……桃井っちと同じ?」
桃井は持ち前の分析能力を買われて一軍専用マネージャーを勤めている。スポドリなどを作る作業は一切しないが、代わりに洗濯や事務作業などを担当していた。彼女は青峰の幼馴染みとして、なにより美人として目立つ。そのため最初に黄瀬が覚えたマネージャーは桃井だった。
「桃井さんは分析担当ですが、私は一般事務担当です。あと時々練習に混じりますけど」
「………マネージャーって色々仕事があるんスね」
「そうですね。で、飲みもの要りますか?」
「えっと、じゃあスポドリを」
会話をしながら手際良くスポドリを用意していく。しかし一軍マネージャーというのはそう簡単になれない筈だ。桃井だって高い分析能力故に選抜されている。目の前にいる少女が特別だと、黄瀬は思えなかった。
「テツ、テーピング終わったか?」
ノックなどせずに豪快に扉を開ける。姿を現したのは黄瀬が憧れる青峰だ。今の格好悪いところを見せたくなくて、黄瀬は少しだけ俯いた。
「青峰くん、どうかしましたか?」
「ん?だからテーピング終わったか聞きに来たんだって」
「………君に僕の意図を理解しろというのは無茶難題でしたね」
馬鹿にされたことに気づかない青峰は不思議そうな顔をしている。そんな青峰に溜め息をついて、彼女は黄瀬に向き直った。
「立ち直れないなら、灰崎くんとのアレを忘れるくらい青峰くんと1on1したらどうですか?」
「おぉ、やるか?」
「………そうっスね。目標は青峰っちスから」
少しだけふっ切れたようで黄瀬の顔が明るくなる。青峰はその様子を見て、彼女の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「やっぱりテツに慰められると元気出るのかもな」
「あっ、そういえば名前聞いてなかったっス」
今さらすぎるが名前を聞いていなかった事実を思いだし、黄瀬は改めて少女に名前を問う。しかし返ってきたのは少女からではなく青峰からだった。
「コイツは黒子テツナ、一軍マネージャーだから黄瀬も世話になると思うぜ」
「よろしくお願いしますね、黄瀬くん」
「よろしくっス」
黄瀬が差し出した手を黒子は強く握り返す。青峰は黒子にじゃれつくように絡んでいて、仲が良いんだなと黄瀬は何となく思った。
「おいお前達、いつまでサボるつもりなのだよ」
「あっ、緑間くん。今行きますから」
「全く、赤司の奴が心配していたぞ」
灰崎との1on1で練習を一時中断してしまったため赤司の機嫌は悪いだろう。おまけに赤司の花である黒子までもを攫ってしまったので相乗している。黄瀬を慰めるためとはいえ、赤司を納得させられるだけの理由はなかった。
「まぁ早かっただけだと俺は思うぜ。だから落ち込むなって、な」
「………青峰っちが優しすぎて逆に怖いっス」
「確かに優しい青峰くんは珍しいですからね」
「お前達……赤司に怒られても知らないのだよ」
後日黄瀬は桃井から黒子についてたくさんのことを聞いた。どうやら黒子は元女子バスケ部だったらしい。しかし中々良い成績を出せず今年廃部が決まってしまった。一年の時から仲が良かった桃井がこれ幸いとマネージャー勧誘をした結果、大好きなバスケに関われるならと承諾してくれたらしい。ちなみに桃井と黒子が仲良くなったきっかけは、一年の時に桃井がいじめられていたのを黒子が助けたことなのだそうだ。容姿も成績も良い桃井は、周りから好意的な視線ではなく嫉妬的なものを集めてしまう。それが貯まりに貯まった結果なのだろう。周りが遠巻きに見ている中間に入った黒子に桃井は心底惚れて、以来熱狂的な黒子信者になってしまった。
「きーちゃんだって、テッちゃんの男前なところ好きでしょ?」
桃井の問い掛けに答えるならば答えは是だ。灰崎との一件以来どうしても黒子を追ってしまう。そのたびに彼女がいかに格好良いかを認識することになった。バスケ部という男所帯でやっていくためのスキルなのか、未だ謎に包まれている。
「四人とも黒子っちのこと好きっスよね。偶然っスか?」
「みんなテッちゃんに救われた一面があるからだよ。私もきーちゃんもそうでしょ」
「救われた……」
「うん。やっぱり四人共いろんな意味で目立つじゃない?だからいざこざとかたくさんでさ。でもテッちゃんがいてくれたから、みんながみんなでいられるの」
一年の頃バスケなど興味は無かった黄瀬は、その時の彼らが置かれていた状況をよく知らない。けれど色々なことが身を囲んでいき苦しめられることはよく分かった。モデルという鎖に縛られた黄瀬だからこそかもしれないが。そういう時に誰か理解者が現れてくれる、それがどれだけ救われることなのか。恐らく一般の人間には分からないだろう。異質として弾かれることは恐怖なのだ。
「ライバル多いからね、頑張って」
桃井自身がライバルであるのに応援してくれるのは、単に同性というハンデがあるからだ。着替えだって買い物だって自由に見たり行ったり出来る。男にはないアドバンテージは桃井を大いに有利にした。ただ異性ではないため恋愛感情には発展しないが。
(とりあえず今は青峰っちを警戒かな……)
黒子と一番仲の良い青峰を警戒しなければと、黄瀬は再認識する。―――しかし黄瀬はある人物を失念していた。
「もう、勝手に食べないでください!」
ふらりと訪れた食堂で耳にしたのは可愛いマネージャーの声。しかしその声はどこか上擦っていて、いつもの冷静な声ではなかった。それに彼女が誰かに対して声を荒げるのも珍しい。彼女は機嫌の悪さが行動に出るタイプなので、そうそう口調が荒くはならない筈なのだが。
「あぁ?別にいいじゃねぇか。また買ってこいよ」
「当然お金は出してくれるんでしょうね」
「はいはい、出してやるからとっとと買ってこい」
貰った120円を嬉しそうに握りしめてぱたぱたとカウンターへ走っていく。120円で買えるものなど限られているため、買うものは簡単に想像できた。
(バニラアイス……、黒子っちのお気に入り)
声を聴いた段階で分かっていたが、顔を見たことで再確認できた。黒子といるのは間違いなく灰崎だ。今日は珍しく部活のない日で黒子は放課後用事があると言っていたが、まさか灰崎と会うことだとは思っていなかった。
(ショーゴ君と黒子っちって、どういう組み合わせっすか)
部活で特別何かをしている仲ではない。むしろ灰崎は部活にあまり来ないので関わりが無い筈だ。クラスも一緒ではないため、そういった作業という線も薄い。そうなると一つの可能性が生まれてくるのだが、それだけは考えたくなかった。
(だってそうだったら黒子っちは絶対に幸せにはなれない)
奪うのが好き、飽きたらすぐに捨てる。そんな奴が黒子と付き合っているだなんて、考えたくもなかった。まだ青峰達なら許せるが、灰崎はもっとも嫌な人物だ。けれど二人の間にある空気はクラスメイトや部活仲間といったものではない、何か進んだもののように感じられる。
「安心しろ、あの二人はそういうものじゃないのだよ」
「ちょっ……、いきなり話しかけないで欲しいっス」
「なんだ、お前が誤解をしているから解いてやろうと思っただけだが」
「やり方の問題だって。……で、誤解って?」
「あの二人は恋仲ではない、所謂幼馴染というやつなのだよ」
「幼馴染って、あの二人が?」
黒子と灰崎は言ってしまえば正反対の人間だ。それなのに幼馴染だなんて誰が信じられようか。緑間が簡単に嘘をつく人間ではないと分かってはいるのだが、緑間から出た言葉を信じるのはとても難しかった。
「黒子はあんな灰崎から離れなかった唯一の人でな、だから灰崎も心を許しているのだよ」
「え、もしかして両想いっスか?」
「両想いではないな。黒子のもつ気持ちはある意味信頼や信愛で、灰崎のもつ気持ちは恋愛の意味での愛情だから、片思いのほうが近いだろう」
「へぇ……、緑間っちよく知ってるっスね」
「まぁ、あいつらと幼馴染なのは俺もだからな」
「ふーん………、え?」
緑間の爆弾発言をうっかり流してしまいそうになったが、何とか思いとどまる。緑間は世話が焼けるといった表情で二人を見ていて、それがなんだが保護者のような目だった。
「あー、何となく理解したかも」
「灰崎には悪いが黒子の発展は望めないだろうな。あいつは子供すぎて恋愛なんて考えてもいないだろう」
ちなみに灰崎の強奪癖は黒子が原因らしい。まだ黒子への想いを自覚していなかった頃、灰崎はよく黒子のものを勝手に取ったりして困らせるのが好きだった。好きな子を苛めてしまうという可愛いものなのだが黒子にとってはそうではない。灰崎に物を取られる度に黒子は目に涙を浮かべて灰崎をぽかぽか叩いたのだとか。その可愛らしさにノックアウトされた灰崎は人の物を取るのが癖になってしまって、結果今に至るというわけだ。今も黒子は何か取られる度にぷりぷり怒るので、灰崎の盗み癖が治まる気配はない。
「まぁあの二人の関係が動くなんて余程のことがなければ――」
緑間の言葉に重なるように大きな音がガシャンと響き渡る。どうやら何かが倒れた音のようで、二人は何があったのか見るべく黒子と灰崎の前に姿を現した。
「おい大丈夫……」
黒子が足を滑らせたようなのだが何とか灰崎が庇えたようだ。事実黒子を抱きかかえるような形で灰崎が支えている。どうやら支える際に勢い余って皿を落としてしまったようで、それがさっきの音の原因のようだ。ただ二人の向きが如何せん問題で、灰崎は黒子と向かい合うような形で抱きかかえていた。
「あ……」
「……えっと」
至近距離で固まってしまった黒子と灰崎は緊張のあまり動けないのか、そのまま静止してしまっている。先に我に返ったのは黒子で、急いで灰崎の腕の中から抜け出そうとした。しかし急に動いたところで力があるのは灰崎なのだから、灰崎が動かなければ抜け出すことはできない。結果さらに絡まってしまい灰崎の体勢が大きく揺らいだ。
「ちょ、危な――」
二人の体が大きく揺らいで、二人の距離が近づいていく。それを止められる者はもはや誰もいなかった。
二人の関係が進展するのは、そう遠くない未来かもしれない。