アフェッツオーソ2








 あの日以来、深雪は部室ではなく、この旧美術室で絵を描くようになった。夢花には、部室に来ずいったいどこで何をやっているんだと、しつこく尋ねられたが、深雪は全く相手にしなかった。連日めずらしく上機嫌な(とは言っても、顔にはほとんど出ていないが)深雪をみて、夢花もとうとうあれこれ詮索するのは止めた様だ。
 他の誰にも干渉されず、おそらく自分だけしか知らないであろう音色に耳を澄ませながら鉛筆を走らせる。最近の日常であるそれを、深雪は今日も繰り返す。
 スラスラと、窓から見える中庭をスケッチしていると、突然ピアノの音色が止んだ。続いて、ガタンッと、何かが倒れる音が響く。
 深雪は、鉛筆を置いて不審そうに天井を見上げた。
 今日はもう帰るのだろうか。しかし、深雪が此処に来始めてから毎日、辺りがうっすらと暗くなるまでこの音色は止まなかったはずだ。それに先程の音、もしかして弾いている奴に何かあったんじゃ、と深雪は部屋を飛び出した。
 階段を大股で一気に上りきり、乱暴に扉を開けると、ピアノの傍で小さく蹲っている男がいた。

「お、おいっ」

 慌てて駆け寄り、肩を掴む。一瞬、その肩の薄さにどきりとしてしまう。学校指定のブレザーの上からでも分かるほど華奢な体つきをした男は、苦しそうに息を吐き、薄っすらと目を開けた。窓から差す夕日を映し、赤茶色に潤むそれと目が合った瞬間、深雪は思わず息をのんだ。
 きゅ、と悩ましげに寄せられた眉間に気づき、キョロキョロと辺りを見渡し、とりあえずすぐ後ろにあったソファに運ぶ。抱き上げた際に触れた骨ばった膝裏や、軽すぎる体重に、いちいちどぎまぎしながら、ゆっくりとソファに降ろし、深雪は改めてその男をまじまじと見詰めた。
 見れば見るほど、人形じみた奴だ。小さく形の良い頭に、バランスよくすべてのパーツが配置された顔。長く、重そうな睫が影を落としている。きっちりと1番上まで閉められたシャツからは、白く頼りない首が生えている。青白い顔をして、荒い呼吸をする男は、どう見ても具合が悪そうだった。

「と、とりあえず、保健室に行って先生を呼んでくるから」

 ここから保健室までは大分離れている。自分が抱えて運ぶにしろ、向こうを呼んできたほうが負担は少ないだろうと深雪は判断し、部屋を出ようとした。

「待って」

 か細い声で呼び止められ、深雪は怪訝そうな顔をした。

「でも、お前、具合悪いんだろ?」
 
 そんな事は誰が見たって明白だ。
 やはり、先生を呼んできたほうが良いだろうと、深雪は引き返そうとした。

「待って」

 きゅ、と弱々しくブレザーの袖を掴まれ、深雪の胸は、この部屋に入って何度目かの大きな音を立てた。

「人、呼ばないで。お願い」

「でも、いいのか」

「いいの。大丈夫。しばらく休んでいれば平気だから」

 本人にそう言われてしまっては仕方がない。だが、このまま旧美術室に戻るわけにもいかず、迷った挙句、深雪は地べたに腰を下ろした。
 袖は、まだ掴まれたままだ。

「おい、袖・・・」

「ねぇ、君、なんて名前?」

 いい加減離せ、と続こうとした台詞は男に遮られる。完全に相手ペースの会話に深雪は落ち着かない。そもそも、こうして人に触れられるのも、先程のように自分から触れるのも、随分久しぶりのことでどうも落ち着かない。いや、今だけではない。あの日、初めてこの男の音色を耳にした時から、深雪はずっとそうだった。いつもどこかであの音色の影を追い、無意識のうちに北館のほうへ目を遣ることが多かった。

「ねぇ」

「・・・・深雪。谷深雪だ」

「そう。じゃぁ、ユキちゃんだね」

 そう言って、ふんわりと微笑んだ男に、深雪は自分が恋に堕ちたことを知った。






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