小説 | ナノ
「失礼しまーす」


 間延びした声とおざなりなノック。許可を取る前に扉を開けて顔を覗かせても一瞥すらされないのは機嫌の良い証拠だ。ソファでゆったり足を組んで本から目を離さない。気配で誰かわかっているんだから、無礼な態度も許される。尤も、私だけが許される特許が理由の一つとしてあるのだが。
 持ってきた水差しを傾ける。この所乾燥が酷く、キャプテンの部屋にもテーブルの真ん中にお洒落な皿と蒸散させるためのペーパーを立たせている。そろそろ水少なくなったかなと思ったその通りに皿の中身は殆ど無い。タイミングがこうも合うとなんだか得意げな気になる。満たされていく私の独占的な優越感と皿の中身を見る横顔に、ビシバシ視線がぶつけられる。水差しの中身がちょうどなくなってから顔を上げると、この部屋の主はさっきと変わらない位置で本を読んでいる。気付かれていないと思うのだろうか。一応私も海賊の端くれとして視線くらいは感じる。ましてやこんな至近距離なら。それすらわからないわけでもないだろうに、私に気を回してくれるんだという自惚れた心が皿から溢れて口元が緩む。

 私とキャプテンは付き合って三ヶ月ほどになる。その間前と比べてキャプテンが優しくなったような気がするというほどの変化しかなく、全く健全で海賊らしかぬ清いお付き合いをしている。告白は私からで、頷かれはしたもののあれは私の勘違いじゃないかって不安になる夜もある。でも時たまこうやって付き合う前からは感じなかったキャプテンなりの愛情の素振りを感じられるようになった。いや、私が鈍感なのか……そもそもこれは愛情と呼べるのか甚だ疑問だ。
 兎にも角にも、私はあの日───それこそ海賊になると決めた日よりも───人生の一大決心をした気持ちに報いてほしいのだ。例えば、キスしてほしいとか。


「あ、キャプテン、珈琲おかわりいります?」
「ああ。……ッ」


 皿の横にあるキャプテンのマグカップが空になっていたことに気付き声をかけるために顔を上げると、キャプテンも返事とともに顔を上げてくれた。しかしその視線は交わる前に瞬時に下され、眉を顰める。そっと痛みの根源に指を這わせる先に目を向けると、唇が切れて血が流れていた。流血というほどの量ではないが、指先を染めるには充分だった。タイミングがちょうど良いと驕っていたが、皿の中身はもっと前から蒸散していたのかもしれない。なんたる失態だ。


「大丈夫ですか!?」
「べつに、舐めときゃ治る」


 そう医者らしくない言葉と共に目に毒なほど煽情的なその舌が唇と指先を這う様を見せつけられると、脳の奥がカッと熱くなる。


「ッ、ちょっと待っててください!」


 私は脱兎の如く逃げ出すためにマグカップを拐ってすぐに船長室を後にした。コックにおかわりの指示を出してから自室へ走る。戸棚の二番目。お気に入りのコスメの奥にストックしていたものが役に立つなんて。それをポケットに入れてからキッチンへ向かえば淹れたての珈琲が用意されていた。さすが我が船のコックは優秀だ。目が合うとニヤリと笑われた。変な詮索をされない分、妄想を暴走されるのは頂けない。立てた中指はどのくらい通用するのだろうか。
 慌てて出たからか、閉め切らない扉の隙間から覗き込む。帰ってきた私に気付いているはずだが、本から顔を上げないあたり受け入れられているのだろう。テーブルに珈琲のマグを置いて、ポケットから持ってきた物を差し出す。


「なんだ?」
「よかったら使ってください」


 差し出したのはリップクリームだった。細い箱から取り出して未使用をアピールする。無香料でパッケージもシンプルだから男性が持っていても不自然ではない。何より私イチオシのリップクリームなんだから間違いない。


「いいのか、確かくそ高いって嘆いてたろ」
「ぐっ……そうなんです。でも本当にいいやつなので是非。なんなら、す、少しずつ返してください」


 言ってしまった。ついに言った。
 私とキャプテンは付き合ってはいるものの、手が触れることすらない。私から誘ってしまえば体目当ての痴女としか思われないだろう。その憚りがちょっとした接触さえ忌避してしまう。だから、たった一言踏み込むことを許してほしい。
 キャプテンは私の決意を聞いたのかいないのか、早速血の止まった唇にスルスルとリップを塗り広げていく。リップクリームを塗るという行為を忌避する男性は多いが、キャプテンは特に抵抗がないらしい。イケメンがするとこうも様になるのは何故だろうか。髭がなければルージュを塗らせると映えるかもしれないと惚けた顔で見ていると、強く腕を引かれた。テーブルに太腿を打ち付けた衝撃で皿の中身が溢れたことなど気付かぬままに。


「っ、ん、んむ……!」


 口付けをされていると気付いたのは、衝撃に耐えるよう瞑った瞼を持ち上げて射抜くようなグレーの瞳と視線が交わったからだった。あれほど待ち望んでいたキスも唐突だと生娘のようにどうしたらいいか戸惑ってしまう。生娘でもバージンでもないのだけど。
 リップのついた唇が滑る。下唇を食まれてリップ音が鼓膜を劈き、心拍を上げる。睫毛が触れてしまいそうな距離が堪らなくて、擦り付けるような焦ったいキスだった。薄い紅のついた私の唇と交わらない壁の向こうで隠微なことをしている。そう思うと興奮してきてはしたなく舌を差し出してしまうが、嗜めるように牙を穿たれた。お互いの吐息が混ざり合って体温を上げていく。顔の角度を変えて執拗に唇を擦り合わせる行為だけで簡単に思考が腹の奥底に落ちて熱を孕む。
 中途半端な姿勢は体が痛くなるという理由で居住まいを正せど、腰に手を回されてキャプテンの膝の上から抜け出せるはずもなく。熱を諫めるように太腿をすり合わせることもできず、後頭部に添えられた手が宥めるように頭の丸みを伝うものだから、燻る熱を抱えたまま微睡んでいく。


「きゃ、ぷ……ん、むぅ……」


 私の言葉を遮るようにキャプテンが唇で嗜める。許されるのは吐息と嬌声だけだ。流石高いだけあるリップクリームの滑りは上々で、なんとかして舌をねじ込もうと唇をずらしてもキャプテンはすぐに気付いてゆったりと下唇を撫でる。
 滑りの良い唇の上で弱く、強く踊る。たまに聞こえる湿潤なリップ音が静かな部屋にと脳内に響く。腰にある手はただの置き物のように私の性感帯を撫でるわけでもないのに、体温が上がるにつれて所在を気にしてしまう。
 たったこれだけ。たったそれだけの行為を何分繰り返しただろうか。ようやく体温が混ざり合って興奮で息が上がる頃にはお互いの唇はしとどに濡れそぼっていた。


「……お前が返せって言っただろ。なのに随分物欲しそうな顔しているじゃねぇか」


 拭うように唇を撫でる彼のカサついた指先に唾液が染み込んでいく。愉快そうに悪い顔で笑うキャプテンが心臓に悪い。意地悪で狡い男の人だと教え込まれるようなキスだった。


「ひど、いです……」
「わかりきってるだろ。そんなこと」


 腰と後頭部に手を回され、体をソファに転がされる。あまり気にすることのなかった船長室の天井を満喫する前に、私の視界にキャプテンが入り込んでくる。逆光でさえ射抜くその瞳の奥の情欲を、私は受け止め切れるだろうか。


「俺にはちっともそんな気はなかったが、三ヶ月もイイ子でいたお前が痺れを切らしたようだからな。構ってやらねェと」
「なんですか、それ。私のせいにしないでくださいよ!」
「お前のせいだろ」


 私の額に彼の帽子がズレて落ちる。柔らかいその感触とは正反対に、固い頭蓋が私の皮膚と触れ合った。影を落とす中から覗き込む瞳が絡み取って離さない。憎らしいほどの手管に溺れる自分が悔しい。その悔しさが情欲なのだと、擦り込まれる。


「お前が煽るのが悪い」


 耳介にエナメルが突き立てられる。痛覚が甘く痺れて快楽の嬌声へと変わる。生きている証拠として吐息を残して顔を上げたキャプテンを、今まで見たこともないような獲物を見下す様を、私は止める術を持ち合わせていない。






×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -