小説 | ナノ




 夕刻の橙が空色に混じり合う最中、ヒールの音が甲板に固く音を響かせる。夏島の海域をまだ出ないものだから昼間は日差しが肌を刺すほどだというのに、それが色を濃くして水平線へと燃え落ちる頃になれば風が半袖のシャツの隙間から入り込んで素肌を冷やした。身震いするほどではないが、冷えてきたと形容するには十分な冷風だった。
 一番船尾の方はその太陽の断末魔から隠れるように影になっており、風もそこなら目の前に聳える見張り台がいい塩梅に遮っていた。細く風に紛れる紫煙も、まるでポーラータングが海面に描く尾のように消えていく。帆船走行をしているのは前日の海軍との戦闘で船体に大きな傷が付いたからだ。そのまま進むには問題はないが、潜航するには自殺行為である傷を癒すべく次の島へ期待をかけている。ある程度大きな造船工場が存在すると聞いているが、潜水艦なぞこのご時世珍しいもので、資材等が揃えられているかは疑問だ。間に合わせでも構わないから、兎に角修理しなくてはいけないのだが。これ以上傷を広げるわけにはいかないためいつもよりゆったりした速度で進むからか、風が優しく頬を撫でる。


「……もうすぐ夕飯だから呼んでこいとペンギンが言っていた」
「これだけ吸わせろ」


 波の音が一等響く気がする。船体へ打ち寄せる波や、切り開き進んだ後に閉じていく漣だとか。手摺へ背面を預け、尾鰭を描く細い筒を指の間に挟んで風下へと煙を吐き出したのは俺の恋人でもあるニイナだ。
 ニイナは元「裏路地の薬屋」で親しまれていた薬品流通の王だった。コイツの一声で医薬品の流通は潤ったり、逆に干上がったりする。新薬開発もお手の物であり、貴重な調剤薬がコイツの頭の中にしかないことだってある。とある気紛れから俺の船に乗り、セフレ紛いの日々を経て漸く恋人まで上り詰めたのだ。いや、恋人というには深く、永遠の伴侶というには軽い。名前の付けられない感情を閉じ込めた指環が、まだ馴染みもしなくお互いの薬指に光っていた。


「今日で夏の海域抜けそうか?」
「その予定だとベポが言っていた」
「ならいい」
「スーツだと暑苦しいだろ」
「はは、また海にダイブするか?」
「お前となら構わねェよ」


 前ならここで軽口からの延長で二人揃って濡れ鼠になるところだった。だがそんな挑発にもならない柔い誘いを笑って返せるくらいには、俺の中にも余裕が生まれつつあった。何もかもを捨ててまでこの男は俺を選ぶのだと証明されたあの雪の中で、俺を愛すると宣うその手を取ったのだ。その時のことを思い出すと今だにじんわりと体の芯が温まる。その燃料が幸福だとしたら、これ以上ないほど苦しくなる。
 ニイナに倣って隣に立ち、背を手摺へ預ける。双方身長は高い方であるが、腰より上にある手摺は貴重で腕を預けるには丁度良い高さであった。ニイナはいつもの癖というやつで、室内では煙草を吸わない。匂いも極力持ち込みたくないようで、風下を選んで場所を移動するからわかりやすいものである。まるでその芳香は俺しか知らないようで、陶酔するような優越感に浸る毒でもあった。
 帽子の下から覗く双眼は何を見るともなく、影ばかりを見つめる。憂いを帯びた横顔に何人の人間が籠絡されたのだろう。指環を嵌める前は勝手に嫉妬して小競り合いへと発展するように仕向けたものの、今はもう確信めいた信頼が独占欲を満たす。ふと、その蕩けた蜜を閉じ込めたような秋波が俺を射抜く。スッと愛おしげに細まるその瞬間が、何よりも胸と喉を締め付けた。


「寒くないのか?」
「多少は」
「そんな薄着でばかりいると、また風邪をひくぞ」
「うるせぇな」


 罵倒にすらならない声も、肩にかけられたサマースーツの上着を払い落とさない行為も、ニイナと同じ感情から来ていることを最近知った。薄手のスーツとはいえ、ニイナの体温が移っている。不快ではない温度に今までこの男が着ていたのかとありありと証明されてしまっては、まだ足りないとばかりに心の中に空いた静寂が唸りを上げる。いつも付けている香水と紫煙が混じった香りはもう俺の中に染み付いてしまって、平静と安定のために必要なドラッグのようでありながら、欲情を駆り立てる媚薬のようなものでもあった。その白い筒と同じように寿命もジリジリと焼き削っていくその行為を医者として止めなくてはいけないものの、こうして隣に立って煙を浴びる俺個人としての優越に勝るものはない。
 焼き魚の匂いが潮の香りと混ざり合い、夕焼けへと流れる。平和だな、とぼんやり思った。そう思ってしまうのは見渡す限りポーラータング以外の影もなく、波と帰路を急ぐ鴎の鳴き声しかない静かな環境だからだろうか。前日も海軍との一線を潜り抜けてきたからこそ平和ボケしているわけではないが、穏やかに呼吸も深くなる。


「……まだ吸い終わらないのか」
「終わった方がいいのか?」


 コイツにはなんでも見透かされてしまう。俺がまだこの場を動こうとしない意思を簡単に汲み取られる。それを分かってて二本目に火をつけるのだから、本当にこの男は狡い男だ。深く吸い込んで吐き出す紫煙と横顔。あと十分はこのままでいれる猶予。静かで穏やかな心許せる時間。同じ指環を分かち合う、ニイナの体温を感じられる距離。
 人はそれを、幸福と呼ぶのだと、知った。


「……物欲しそうな顔してる」
「分かってんじゃねェか」
「ああ。お前のことなら、なんでも」


 ゆっくりと倒される上体に満足げに目を細める。重なり合う唇に抗うこともなく、擦り合わせて啄む。水っぽいリップ音が合図となり、ニイナの舌が割り込んでくる。苦味と微かなメンソール。唇から体温が伝わって、その熱が優しさを帯びるものだから。喉を焼く熱さに声が細く擦り切れた。
 軽く啄んだだけのそれが離れる。物足りなさの合間に夕飯であろう焼き魚の香りがふわりと鼻腔を通り抜けた。沈みゆく夕焼けが燻って、辺りが仄かに暗くなる。静かな波の音と、俺しか知らないニイナの幸福に満ち足りた顔。望んでいた平和的な日常の片鱗を、今は片手に持っている。何も遮るものがなく、何も荒立てるものもない。束の間の幸せを噛み締めて、とろりとした温い感情を抱くためにニイナに寄り掛かった。俺の気持ちを察したのか、口をつけることなく燃えていくタバコをそのままにニイナは俺の髪を混ぜる。もうじき着くであろう島の影をみないふりをして、今だけはこの時間を止めていたいと誰に頼むわけでもなく思った。
 ニイナも同じ気持ちであればいい。そう、心から願って。




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