小説 | ナノ
なにごとも逃げてはいけない。敵に対しても。
───ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ
chapter.1 シャチ
「ねぇねぇ、シャチくんはさー、どう思うー?」
「ぁあ!?」
ガラの悪いヤンキーみたいな声だ。実際に私達はガラどころか法律的にもよろしくない集団なのだけれど。
シャチの背後から出てきた敵を撃ち抜き、リロードする銃を持ち上げて今度は私の背後の敵を射抜いた。物騒な世の中だなぁ。この混戦で有利なのはこちらだが、一瞬の気の緩みがすぐに逆転できるぞと這い上がってくる。実際に、自船ばかりを気にしている私の右腕には擦り傷があった。
「キャプテンってカッコいいよねー」
「その質問今じゃないとダメか!?」
「こんな時でも小まめにツッコミをしてくれるシャチくんダイスキだよ」
「分かってんなら! 海に落とせ!」
「重たいのは女の子の仕事じゃないよぉ」
ウニとベポがバケツリレーのように気絶している敵を海に投げ落とす。その周辺に敵はおらず、シャチと対峙する大柄な男だけだ。援護を試みるものの、獰猛なシャチの攻撃の隙間に上手く撃ち込める自信がなかった。そうこうしてるうちに、不意打ちで入れたシャチの一撃が決まり彼も不運ながらお魚達の栄養分へと早変わりした。
「───おい、そっちは終わったか」
今日はちょっと手こずった。海中から敵影めがけて急浮上し、そこから混戦へともつれ込んだのだ。よく船長がする搦め手だ。潜水艦ならではの策であるし、彼の能力なら上手いこと混乱する敵へと襲撃をすることができる。だけど、今回は敵の順応力が高くてこちらの船に乗り込まれたのは計算外だった。すぐに船長とペンギン達が戻って残された私とシャチが数人のクルーを携えて応戦する。チームプレーも目配せもなく、各々の役割を理解するよい集団だと思うし、何も言わずとも私たちにそうさせる思考を育む船長は、なかなかいない。
うちの船長は、常に格上である。
まずその体型。私よりもだいぶ高い身長と御御足にルックス。頭脳明晰で海賊ながらに医者をしている。戦闘も言わずもがな膝をついた所を見たことがないし、倒した敵を見下す様は美しい。
そう、何をしても常に貴方は私の遥か上をいく。
「右舷制圧完了!」
私が本当に撃ち抜きたいのはこんな三流海賊の脳漿でも、心臓でもない。貴方の心の奥底だ。その背中に口付けした銃口を向けて撃ち落としてやろうとしても無駄な事だと笑って直ぐに下ろした。渡り鳥なんかより自由で何処にでも行ける彼は、きっと鳥籠はお気に召さないだろう。
「中央も完了。左舷も制圧済みです」
「戦利品を集めろ。十分以内に離脱する」
「かしこまりました」
「ニイナ、右腕に裂傷。化膿する前に消毒してこい」
頭に置かれた掌が緩く一回左右に揺れてから離れる。小さな傷すら許さず、口角を上げて笑う様は格好いい。その姿に、私がどれほど惹かれているか知っているのだろうか。
「……はい、船長」
傍目からは船長と船員の報われない恋だと思うだろう。
だが、それでいい。それでいいんだ。
chapter.2 ペンギン
「──────ほんとにそれでいいのか?」
「いいわけないでしょー!!!」
わっ、と泣き叫ぶフリをして机に突っ伏する。いや、出来れば本当に泣きたい。みっともなく泣き叫んでこの船いっぱいに溜めて、海の底に沈めてやりたい。
「だったら告るなりアクション起こせばいいのに」
「そんなことできるわけないでしょうが!!」
「はいはい、公私混同はできない、だっけか」
「ニュアンスちょっと違う……」
向かい側に座ったシャチが呆れた声を出す。私が船長に好意を寄せているのは全クルーに知れ渡っている。知らないのは当の本人だけなのだが、幸か不幸か今日まで私の評価は彼の中で育っていっているはずだ。それが好感度であれば良いのだけど、果たしてそれで本当にいいのかどうか私自身も判りかねるのだ。
その理由としてまず、私と彼が釣り合うわけがないのだ。高スペックの彼と、平凡な私。隣に立つのを想像しても、彼の隣にはナイスバディな美女が寄ってたかって彼を囲む図しか思い浮かばない。こんな何処にでもありふれた顔と体型と才能の私に、船長が振り向くわけがない。モデルの隣に案山子が立つようなもんだぞ。性癖を疑うわ。
そして、「船長」と「船員」という立場だ。溝が深く、線引きされなければいけない。そこに「彼女」という付加価値によってぼかされてしまう。そうすれば船長は私を優先するだろう。戦闘に私情が入り混じるのは決して良くない。頭で理解していても、きっと何処かしらで負い目がくる。そんな日が来ることが、怖いのだ。
「お前は難しく考えすぎなんだよ」
「だって考えてみ? 私達は船長主義だけどさ、船長はみんなの船長だから誰か一人を贔屓するわけにいかないでしょ?」
「その≪船長≫だって男なんだぞ」
「……知ってるわ、ばかぁ」
シャチの正論に返す言葉がなくて柔い罵倒しか思い浮かばなかった。ていうか何それ、その言葉エロい。まあ、それもそうか。船長だけではなくて、彼はトラファルガー・ローでもあるのだ。意思を持った人間なんだ。あの手の体温と擦れた髪の毛の音が今でも耳元で聞こえる。甘い夢の音だ。
項垂れる私の背でドアの開閉する音がする。ブーツの靴底と床板が鳴る音がする。この歩幅と音の高さは、
「ペンギン」
「正解。何の話しているんだ」
「ニイナの恋煩い」
「まだやってんのか」
「まだってなによ、まだって」
「だから告白すればいいんだよ」
「シャチと同じこと言うね。返事も同じものしか返さないよ」
ぶすっ、と返した声にペンギンが呆れた声を出す。二人して薦めるのは死刑宣告だ。面倒臭くなっているだけに違いない。私はまだ生きていたいのに、酷い話だ。
ペンギンが注目ー、と緩く声を上げる。その場にいる他クルーもペンギンを見た。何を考えているのかわからないその口元が滑舌の良い言葉を発する。
「朗報だ。今回襲撃した海賊船に近くの島の領主が捕虜として乗っていた。そこで助けられた礼としてその島の滞在中は空いている領主の館を間借り出来るそうだ」
「ああ……船長と話し込んでたと思ったら、そういうことね」
「おっ、ホテル代浮くな」
「領主はいたく感銘を受けたようで手厚くもてなしてくれるらしい。ログが溜まるのも暫くかかるし、久しぶりに美味い飯と暖かい寝床を満喫できるぞ。ただし迷惑はかけるなよ」
歓声が上がる。次の島は確か海軍の駐屯所もなく、領主が土地を治めていると聞いたから実質島自体に受け入れられるようなものだ。これならペンギンの言うように久しぶりに周囲を警戒せずに休暇を満喫できそうだ。
「のんびり出来そうだね」
「そうだな。ここのところ戦闘続きだと尚更な」
「可愛い女の子、いるといいなァ……」
「たとえいてもシャチは相手にされないと思う」
「右に同じ」
「お前ら俺に何か恨みでもあるの?」
羽を伸ばせるなら有難い。ペンギンが首を回すと物凄い音がした。周りを見渡しても疲労の色が濃い。全員が安心して休まる場所などないに等しい。その理想の休息地へとなりそうであれば心強い。私としてもゆっくり湯船に浸かりたいのだ。
「それで」
机に肘をついたペンギンが此方を覗き込む。愉快そうに弧を描く口元から嫌な予感しかない。
「いつ付き合うんだ?」
「合いません!!」
純粋な揶揄に遂に椅子から立ち上がった。なんでこの人達は同じ問答を繰り返すのだろう。
そして、その場を去る私の背で交わされた言葉が聞こえることはなかった。
「───……船長も船長だよな」
「ああ。あれは立派な狩猟本能だ」
chapter.3 ロー
もし肩書きがなかったら、もう少しばかり馬鹿であっただろう。叶いもしないのに周りに囃されて想いを口にすることをしていただろうに。もし彼を囲む美女の一人になれたなら、彼の瞳に映りはしなかっただろう。昨日触れられた髪の先がさらりと音を立てて崩れた。
船員の士気は僅かに削げていた。慈悲深い領主のおかげで今は使われていないものの掃除は行き届いている別館を借りることができた。粋な計らいで美味しいご飯や柔らかい布団にありつけている。正にこの航海一の待遇だ。ただ一つ、この島が梅雨時期なことを除けば。
遊びに行けず、行ったとしても湿気を纏うリスクがあり、人通りも少なく、何より暗い。天候が気分や体調を左右するものだというくらい、当たり前のように知っているこの医療集団は殆どがおとなしく館の中にいた。というより、やることがなくて酒を飲んで二日酔いで潰れていたり、気圧のせいで体調を崩して寝込んだりしていた。
今日も窓を打つ雨がひどく、私も窓際で暇つぶしに本棚から抜いた詩集を抱えていた。等間隔に窓際に並んだ小さなテーブルの上には湯気の立つカップとソーサー。その向こうに、船長の頸がある。船長も湿気を嫌ってあまり外出したがらない。その相手を務めているのはペンギンで、チェスでもしているのだろう。時折駒が盤上に打つかる細かい音がする。雨粒に掻き消されそうなその音を掻い摘みつつ、興味がない詩集を開く。その偶然開いたページのとある一文がパッと目についた。
─── わたしは何を知っているだろうか?
お前のことだ、と頭の奥で声がして慌てて詩集を閉じた。自問自答など呆れるほど繰り返した。高望みするものこそあれど、結論は一つへと集結する。釣り合わない、優先させるだけの情を持たずにいてほしい。だけど私は、彼の感情の何を知っている?
ちらりと視線を上げて彼の後ろ姿を盗み見る。スッとまっすぐに伸びた姿勢が美しく、肩幅が広い。薄手のカットソーだから細身の割に筋肉質だと再認識できた。黒い襟ぐりから男の人とわかる太い頸と浮き出る頚椎と首筋。時折見える刺青の先が肌を舐めている。藍掛かった黒髪から覗く金色のピアス。その光景を切り取ってしまいたかった。カッターがあれば紙を切り取るように滑らかに曲線を描いて彼だけを見て取れるように。僅かに上下する肩とそれで変形する服の皺も見たいから動画がいいかもしれない。
「───見過ぎだ、ニイナ」
「はっ、なっん、……!」
裏返った素っ頓狂な声が自分のものだと知ったのは椅子から落ちそうになった瞬間だ。駒を動かすものだと思ったら急に振り向いて機嫌よく笑うご尊顔と目線が合うと思わなかったからだ。何より見ていたことがバレてしまった羞恥が激しい。お前の熱い視線で首筋が焼けそうだ、なんて視線に敏感な船長が気付かないわけがなく。てかなんだその口説き文句みたいなものは。心臓が破裂しそう。
「お前もチェスやるか?」
「え、や、いいデス……」
「そう言うな、もう席が空くからな」
「空きません!!」
腕組みしてまで唸っているペンギンが吼えた。盤上を睨みつけてどう打開するか悩んでいる。それを愉快そうに笑った船長が椅子の背もたれに腕を置いて緩く足を組み直す。顔だけ此方に向ければ直ぐにまた視線が混じりそうだ。悔しいほどに端正な顔立ちから目を背けるべく、とうに湯気を失った珈琲を飲み干した。
「珈琲いりますか?」
「ああ、頼む」
漸くペンギンが腕を動かすものの、すぐに船長がルークでビショップを取る。「チェック」という短い言葉がまるで銃弾のように私の鼓膜に届く。それが脳に浸透して、相変わらずいい声だなと少しだけ上向いた気持ちになる。ペンギンはといえば微動だにせず、深く被った帽子により引き締まった唇しか見えない。返事はなかったところによると、また深く思考を巡らせているのだろう。あと一手で詰められるのはいつものパターンだというのに。気晴らしにペンギンにも珈琲を淹れてあげようと自身のカップを持って遊戯室を出て、隣のキッチンへ赴く。
ドリッパーへフィルターをセットし、挽いた豆の粉を入れる。ここの館は領主が管理しているだけあって、良い豆を使っている。香りも良いし味も深みがあって、こんなに良質な珈琲は初めてだった。これでは船にあるインスタントコーヒーに戻れない。
この島での滞在はどのくらいだっけ。あとでペンギンに聞いておかないと。滞在が終わればまた船に乗って私達は航海を続ける。島影を探して針路を取り、揺蕩う。道中が土の上でないというのは万が一を考えるとリスクしかない。それに最も影響を及ぼすのが船長だ。悪魔の実は海賊を魅せるというのに、代償があまりにも皮肉すぎる。彼はなぜ、そんなリスクを負ってまで海の上に立ちたいのだろう。私なら、逃げている。ならなぜ、彼は、
───わたしは何を知っているだろうか?
ケトルが威嚇するように湯気を鳴らす。心臓に悪い。無意識に変な声を出してしまい、誤魔化すようにその細い注ぎ口を使って粉を湿らせる。暫くするとふっくらとしてきて匂いも沸き立つ。フィルターギリギリまでお湯を注ぎ、ゆっくりと抽出される様を見送る。
私は彼の何を知っているのか。そう言われても思い浮かぶのは船長の人となりで。背が高くて格好良くて、頭も良くて強い。自分とは正反対の、あまりにも完璧すぎる人。その超人がなぜ私に構うのが考えてもわからない。まだ私の髪には彼が触れた熱が冷めないでいる。いつもそうだ。勘違いするような接触や歯の浮くような台詞を流し目で言うんだ。どうしてそう期待させるようなことばかり。あれが彼の本性だとしても、私なんか、お門違いじゃないか。
私が何を知っているかじゃない。彼が何を考えているのかなんて、言われなきゃわかんないよ。
逃避を続けることで漸く溜まった三杯分の艶やかな珈琲にふと気付く。自分以外のカップがない。考え事をしているとどうも忘れっぽくなってしまう。とりあえず温めていた自分の分のカップに注いでから隣の戸棚にあったはずだとその綺麗なガラスの扉へ手を掛けようとして、
「───ヒッ!!」
「……酷ェじゃねぇか」
ガラスには美しい花模様が彫られていて、それによってねじ曲げられた背景が映る。取手を見つめていても人の視界は広く、自分しかいない背後に急に人が現れればそりゃ心臓も飛び跳ねる。
衝撃で薄く開いた扉を閉めるように船長がガラスに右手を付く。そうやって距離感すら惑わせるんだから、卑怯じゃないか。
「ふつうに入ってきてくださいよ……。今船長達の分のカップ取りますから、あの、手を、」
「うるせェ」
ジリジリと左へ動くものの、腰の辺りの棚に手を置かれれば私の逃げ場はなくなる。言い訳も、逃げ場もなくしてはどうすればいいのだろう。彼がこれから何をするのかなんて、私の浅はかな知識では追いつけない。そうして、まざまざと彼が格上だと知らしめられる。
私が彼のことを知っていたら。この行動の意味も、言葉の真意も、その瞳の熱量も───全て理解できるのだろうか。
「またお前はそうやって逃げるのか」
私の中の女である期待と、子供である好奇心と、臆病である恐怖とが顎を掬って上向かせる。そろりと視線が交差して、後悔した。
もう元には戻れないと忠告するようにほんの一抹、私の中の「船長だって男なんだぞ」という声が嘲った。
「抵抗はしたければ好きなだけするといい。だが、逃しはしない」
逆光により少しだけ色の濃くなった肌のその上、薄灰色の瞳が狙うように細められる。口元が凶悪に緩んで、今まで私に向けられなかったその捕食者のような表情に竦みあがる。そして怯える私の表情を堪能した後にゆっくりと首を下ろした。近づく不穏な気配に顔をそむければ、知らしめるように私の耳元に唇を寄せた。
「今更逃すと思うなよ」
直接脳に吹き込まれる最終宣告。全ての器官がその言葉を消化するのに集約してしまい、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。私を避けるように、酷いこと全てをして船長は能力でその場から消えた。静寂が場を支配する。今の出来事が全て白昼夢だと言うような一人きりのキッチンで、肩を抱く。息を整えて、心臓の在り処を探った。目の端に映る私が読んでいた詩集が中途半端なページを開けて現実がどちらかと問いかけてくる。まるで、誰かのようだ。
───なにごとも逃げてはいけない。敵に対しても、もしも、こちらが逃げれば、ますます激しく攻めてくるものだ。それと同じように、人生のさまざまな苦しみも、私たちが恐れおののいているのをみると、いい気になって、更にいじめてくる。
コトリ、と小さな固いものが落ちる音がした。ころころとそれは転がり、床に座ったままの私の目の前に落ちてくる。
駒だ。チェスの、キング。珈琲の香りが遠のく。待ってそれは私のカップ……。
「……うあ、ぁ……」
声を吐けども状況は変わらず、私を掻き乱す感情も治らない。全て、無駄だったのだ。私が難しく考えていたのだ。捕食者は常に獲物をどう狩るかしか考えていない。獲物が敵の感情を案ずる必要はなく、その間に弄ばれていたのだ。次に会ったらきっと、その一瞥だけで死んでしまいそう。でも逃げたらまた攻められる。どうしたらいいんだ。大人しく食われるしかないのか。私の遥か上を行くと思っていた彼に、手が届くのか。
とりあえず暗くなるまでここにいたい。雨の音が漸く戻ってきた。ごめんね、ペンギンに珈琲は持って行ってやれない。どうせ冷めて美味しくなくなった珈琲はお気に召さないだろう。
そんな些細な私の抵抗は二時間足らずで終わった。床からベッドの上にシャンブルズされた後の記憶がない。
強いて言えば……目の前に敵がいたのだ。