小説 | ナノ


 満たされたことのない人生を送ってきた。
 意味のない惰性で生き抜き、今まで虐待してきた親を殺した時にちょうど若様にファミリーへと誘われた。忠誠を誓えと言うのだから、村を全て焼き尽くせば愉快そうに笑う若様の桃色の羽毛の中へと迎え入れられた。
 居場所を手放した私が次に辿り着くのはドンキホーテファミリーだった。ここでならば足りないピースを補うことが出来るのだと期待したが結局はハリボテの家族にしかならず、仲間として受け入れようとも何かが違うのだ。だが何が違うのかと聞かれればしっくりする答えはない。ベビー5から聞いた「子供を打つ若様の弟君」は私と入れ違いに「ロー」という少年の病気を治すと出て行ってしまったというから、私は稽古以外で傷を作る必要は無くなった。
 そんな弟君を半年後にファミリー総出で迎えに行ったはずが、何故か若様が撃ち殺していた。その全貌を理解するのは事が終わってから聞かされたのだが、初対面の人にそんな情は湧かなかった。ただ、「ロー」という少年だけには会っていないのが心残りで、知識欲が埋まらないのが残念だと小さく思った。
 安寧と殺伐と人殺しだけが取り巻き、不満はないもののやはりどこか足りないのだ。私は何を渇望しているのだろう。

 そうやって十三年が過ぎようとしている。


「……十三年、か」


 早かったな、と独りごちる言葉を煙と共に吐き出した。私の指より細く白い筒は未だに赤く灯っている。停泊している島は眠るつもりがないのか、明かりが夜空へと伸びている。その明かりに反射する若様から貰ったブレスレットをちらりと横目で見た。揺れる船と打ち寄せる波の小さな音と夜風が心地よい。
 若様の弟君、ロシナンテさんだったかな。彼の言葉を朧げに思い出す。ローは自由だと言った彼の言葉通り、この船の長は何にも囚われず自由だ。それに憧れて彼に集う人間にも、彼の気ままさにも最初は振り回されたが今は一人のクルーとして……彼の女として馴染めただろう。ちくりと、夜風に撫でられた首元の鬱血痕が痛みもしないのに主張した。

 十年と少し前に若様に拾われてファミリーに迎え入れられてから、色んなことを教え込まれた。そうして三年前にローの居場所がわかったと愉快そうに笑う若にスパイ行為を命じられたのだ。目の前でハートの海賊団を襲う賞金首を倒して自分を売り込み、簡単にその懐に潜る事ができた。そこから戦闘員としてよりもローのオンナとして生活して現在に至る。
 彼女、というよりも娼婦という言葉がお似合いだ。彼は私に愛を囁いたことはないし、私は裏切り者だ。ベビー5とお揃いの煙草の煙を吐く。夜に溶け込む白い煙を目で追い、それが消えた瞬間に思い出されたのは昨夜の情事だ。徹夜続きだった彼はまだ深く眠っているだろう。それを感じさせないほどに激しく抱かれた私は未だに戻らぬ体力を振り絞り、この甲板まで来たのだ。

 本当は、一度で止めようと思っていたのだ。だから私は気付いてしまった。彼のことを追う間からこの船で見た彼の素顔でさえ、全てに惹かれていると。彼は大変魅力的であるけども、それだけが理由ではないと気付いてしまった。初めて抱かれた日の夜、後ろから荒々しく突き上げるくせにシーツを掴む私の手の上に重なった大きな掌を覚えている。そうして後ろを振り向いた時にかち合った瞳は見たこともないくらい優しく細められていて、唇を合わせるだけのキスが情を語っていた。
 私は満たされてしまったのだ。充分だと思ったのだ。埋まってしまったのだ。
 それで嗚呼、私が渇望していたのは愛なのだと気付いたのだ。


「……あー、さむい」


 かつてからベビー5の慰め役は私だった。二人で煙草を吸って甘いものをお茶と共に食べて、笑い合えばすぐに彼女も笑顔になった。それだけの情だったんだと思ったし、素直に誰かを好きと言える彼女を羨んでいた。当時は気まぐれで始めた煙草も実はベビー5に近付けるんじゃないかという下心があったんじゃないかと疑う。
 それでまあ、少しは彼女に近付けて情を欲するようになれたんだろう。
 両親からもファミリーからも埋まらなかったピースが、ここにはある。彼によって埋まったその隙間を愛情だと、言うのだろう。
 彼を愛してしまって、言葉にしなくとも私を少しでも好いてくれるなら。彼を殺すことなんてできない。ああ、ごめんなさい、若様。きっとローを殺す為だけに貴方に拾われて育てられたというのに、裏切ってしまうなんて。そして、スパイの私はもうここにはいられない。
 最後の白煙を吐き出してから、身につけていたブレスレットと火のついたそれを海に投げ捨てた。静かな漣に消されて見えなくなったそれらの行方のように、今夜私はポーラータングを去る。ほんの少しのベリーでどこまで行けるのだろう。若様の手から逃れられなければ死を選ぶつもりだ。明け方発つ民間船はそろそろ出航するだろう。誰もいない甲板はこうも静かで、ヒールの音がいやに響くくらい固い。


「……挨拶もねェとは、寂しいじゃねぇか」


 夜の海に溶けるような声だった。ハッとして振り向くとまた深く眠っているとばかり思っていたローが扉を後ろ手に閉めてこちらへ歩みを進めているところだった。ここでもし誰かに会ってしまっても眠れないから散歩、と適当にはぐらかすつもりであった。しかし、彼は確信を持って言う。私が此処を立ち去るつもりだと。


「……調べたの?」
「お前は知らないだろうな。おれらは過去に会ったことがある」


 あの雪の降る鳥籠の中でな。
 うっすら笑みを浮かべる彼とは面識がないはずだ。だが、その言葉で若様が弟君を撃ち殺した場面が蘇る。何処かに隠れていたのだろう。海軍に保護されたというベビー5の情報は誤報だったのだ。
 何よりも若様と私の作戦は最初から崩壊していた。何故彼はスパイと分かっていた私を受け入れたのかは知らないが、何れにせよこの場にはいられない。彼の目の届かない所に行くまでは気を抜けなくなっただけで、どうせ私の末路は決まっている。


「分かっているなら放っといて。それとも殺す?」
「いいや」
「じゃあ、さよならね」
「何処に行くつもりだ」
「貴方に関係ないでしょう」
「おれ以外の男のところにでも行くのか?」


 侮辱を表すような問いかけにもう一度同じ言葉を吐く。少しばかり語気を強くしたそれに気を良くしたのか、彼が鼻で笑う。


「今はしてねェみたいだが、お前のしてたあのブレスレット……海楼石だろ? それがあればおれを殺すことなんて容易い。いくら隙を見せてもお前は実行しなかった。なぜだ?」
「……うるさい」
「おれが騙されたフリでもしてお前のことを抱いていたと、本気で思うか?」


 どくり、と心臓に劇物を流し込まれたようだった。
 私が一つ息をつく合間に、彼はそれを咎めるようになあ、と問う。


「お前もう、どこにもいけないのにどこに行くんだよ」


 どこに。彼は、私の生い立ちを知っているのだろうか。知らなくてもきっと出てくる言葉だろうに、何故か全てを見通されているような気がした。帰る家も、組織も、居場所も捨てて何処に行くのだと。どこにもいけないのに、私はどこに行くんだろう。
 言葉に詰まりただ潮の寄せる岸しか見えない。打ち寄せる白い波に答えはないのに、私の頭は考えることを放棄していた。そうだ、彼の言う通りなのだから。いつもの鬼哭を持たない彼から逃れることはできるかもしれないのに、まるでその一言が縛り付けるかのように───違う、ただ私の足が此処に縋り付いているだけだった。


「なあ、どこに行くんだよ」
「……、……」


 行く宛てないんだろう、知っているぞと言うような声だった。とろりと溶けそうな夜のネオンと慰めるような漣ばかりが私を包む。その隙間から射抜くような緊張感。まるで眠らない街が忘れた星空のように、彼の瞳が爛々と輝いていた。身震いするほど美しいその瞳と、彼からもたらされる祝福を、私はもう焦がれてしまうのだ。


「何処へもいけないなら、俺が何処へだって連れて行ってやる」


 差し伸べられたその手を、取ってしまってもいいのだろうか。両親を殺し、村を焼き、拾われたファミリーを裏切り、この船の長を殺そうとした私が。
 私は今救われ、赦されるのだろうか。
 嗚呼、許して頂戴、ベビー5。貴女までを裏切り、愛に生きようとする愚かな私を。果たして祝福してくれるだろうか。果たして笑顔で許してくれるだろうか。もう貴女を慰めるための私は存在しない。もう泣かないでくれるのが一番だけど、私の代わりを担う誰かがいればそれでいい。


「……何処へでも連れて行ってよ、ロー」


 自由への代償は大きい。のちに聞かされる叛逆に対峙は逃れられない事を悟る。
 それでも、取り合った手を引かれて彼の胸へと飛び込めば両親の腕の中より、あの柔らかな羽毛より、未来への足取りをはっきりと見る私がいた。
 
 連れて行ってよ。その雄大な自由の先へ、私も共に。

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