小説 | ナノ



 温暖で、平和な島だった。都合よく他の海賊もいなく、島民もハートの海賊団の安穏とした噂のみを聞いていたからか快く迎えてくれた。停泊する港や宿泊するホテルまで手配し、特産品だらけの宴まで昨晩は開かれた。海賊をもてなしたと知ったら、海軍や世間はこの島をどう思うだろうか。それを鑑みないほど愚かではないだろうに、だが心配してやるほどの情を持ち合わせていないローはこれ幸いと今日も街へ仲間と共に歩み出した。
 途中で薬の在庫がないと船を預っている者から連絡があり、カフェに向かうはずの足先を変えた。そしてこちらが医療従事者だとわかると薬屋の主人も快く売買に応じてくれて、必要なものを書いたリストを渡せば数分であらかたのものを持ってきた。


「ほらよ、ゴオウやセンソはこれで足りるだろ」
「ああ、充分だ」


 貴重な漢方まで揃えられるのはありがたい、と相場よりも安くしてもらった分のベリーと気持ちを上乗せしておく。そこでふと渡したリストより品目が少ないことに気付いた。ローが口を開くより早く優秀な部下一号のペンギンが声を出す。そうすると、主人は合点がいったように顔を上げた。


「ああ、悪い悪い。普通薬屋っていうと全部揃うもんな。うちの島はちょっと特殊でな。薬屋で化合物や動物性の漢方は揃うんだが、ハーブや植物性の漢方は花屋で扱ってるんだ」
「謝る必要はねェよ。土地柄ってやつだろ」
「まあな。アンタいい人そうだし、花屋の嬢ちゃんにはおれから一言言っておくから足りないのはそっちで貰ってくれないか」
「そうして貰うと助かる」
「じゃ、キャプテン。おれらはこの荷物を船に運んでおくんで」


 薬以外の荷物もあることから、ペンギンや他の仲間が帰還の許可を仰ぐ。ローはそれに手を上げて、薬屋の主人から道順を聞いた通りに歩みを進めた。
 長閑な風景だった。この島は平和で、海軍がいないことから海賊の侵略がないことを表している。内陸に近いことから流通の便もいい。気候も安定しており、人々は活気がいい。何も困ることのない模範的な平和の、実に突出したもののないつまらない島だった。
 欠伸を一つこぼしたところで、轍を越えた先にある一つの家屋が見えた。建物は煉瓦造りだろうが、苔や蔦で覆われて周りには整えられた植物があちこちに葉を伸ばしていた。あれが薬屋の主人が言っていた花屋に相違ないと思えば、何か玄関先で言い合っているようだった。
 そっとその後ろ姿へ、ローは歩みを進めた。


「だからー、何もタダで寄越せって言ってるわけじゃねェだろぉー?」
「いえ、いくら積まれてもお譲りするつもりはありません。それに見ていただければわかりますが、現在扱っておりません」
「そこをなんとかさぁ、おれらマジ病人なんだってぇ」


 頭の悪そうな男が三人、小さな女を囲んでいる。身なりから見て恐らく山賊の類だろう。内陸続きとなると海賊よりも山賊の方が多い。だからこそ海軍より自警団や陸軍といった地の利に適った守衛が育つのだろう。
 そしてローが用があるのは目の前の女で、周りに集る蝿のような無益な人間には興味ない。なら、取るべき手段は一つだった。


「……病人なら、医者の出番か?」


 気配もなく背後に立ったローの、鬼哭の鯉口を切った金属音にその場にいる全員の視線が集まる。山賊はローの持つ直ぐにでも抜ける長刀を見てなのか、七武海として名を馳せ始めたローの手配書を見たことがあるのか、情けない悲鳴を上げて住処へと敗走した。
 簡単な脅しで、それも挨拶にもならないような言葉だけで逃げ行くそれを鼻で笑って刀を納めた。すると下の方からおずおずとした声がかけられる。ここまで気にしていなかったが、周りに花畑があるわけでもないのに芳醇でみずみずしい花の匂いがする。


「あの、ありがとうございました。一人じゃどうしようもなくって……」
「礼をされるほど何もしちゃいねェよ」
「薬屋さんから連絡頂いています。トラファルガーさんですよね。中にどうぞ」


 この女は、自分のことをわかっているのだろうか。理解してもなお、能力者の海賊を手招くなど愚かしい。仮に勝算があると思っていての挑発なら、敵の根城に誘われるまま入るのは得策ではない。それを知ってか知らずか、柔和な笑みと緩いウェーブを描く髪を靡かせて花屋は家の中に入っていった。一拍の躊躇いの後、ローもそれに続く。疑い続けるほどローは無情にはなれなかった。
 煉瓦造りの素朴な家屋で、鉢植えやラッピングの包装紙が綺麗にまとめられている。棚には百を超える細い瓶が並び、植物の種が並んでいる。しかし、「花屋」と言う割には肝心の切り花や植物が植わっている鉢がない。彼女はカウンター越しに「リストを見せてください」と手を伸ばした。


「……結構多いですね。どのくらいの日程で仕上げましょうか」
「出航予定まで一週間はある。それまでに仕入れてくれりゃ文句はねェ」
「お時間頂けて嬉しいです。……それでしたらこちらでどうでしょう」
「……おい、桁が間違ってるぞ」


 身に纏ったエプロンから小さな電卓を出し、軽く叩いた後に見せてきた金額にローは眉を顰めた。相場の金額より、ローの想像していた金額より、大分安い。長い航海で幾らでも安いに越したことはないが、思わず口をついてしまった言葉に女がまた綻ぶように笑う。


「ここは時価なんです。だから私の気分次第になるのですが、今回はお時間を頂けるのと先程助けて頂いたお礼も兼ねての値段になります」
「別におれは何もしちゃいねェよ。一応警告しておくが、毎度おれみたいなやつが追い払えるとも思えねェ。もう少し街の方に移動したらどうだ」
「ここの居心地が良くて……。それに、心配には及びません。私、能力者なんです」


 ズルズルと木張りの床の上を這いずる音がする。この家の中にも大木の根が侵入しているが、それが蠢く。むくりと持ち上がり、ゆらゆらと揺れて花屋のそばで何本かの根がまるで意思を持つように踊っていた。差し出された華奢な花屋の手のひらを取るように絡めば、愛おしげに花屋も微笑んだ。


「クサクサの実です。植物ならなんでも育てられるし操れます。こうやって根や蔓で威嚇するだけでも違うんですよ」


 花屋から離れた根がローを威嚇するようにカウンターの上を叩く。鈍い音はそこまで大きくなくとも、部屋の隅にあるこれの何倍も太い根なら無傷では済まないだろう。実践よりは護身に重きを置いた使い方に納得したように頷くと、根はまた花屋の手に戻った。


「その能力で後ろにある種を発芽させるのか」
「察しがいいんですね。その通りです。漢方に使うには時間をかけて煎じたり乾燥させたりします。私ならそれも一瞬なので直ぐに作れますが……何せ体力がないのでお時間を頂いてしまいます」


 困ったように苦笑すると、根がスルスルと引いていった。動かすことにも体力が必要なのだろうか。もし、自分と同じように寿命も削るほどなら断ろうかともローは考えた。他人の命の一端を削ってまで、欲しいと望むものではないからだ。口を開きかけたローを塞ぐように、ドアが軋む。振り返ると初老の男が「取り込み中かな」と笑いかけてきた。


「マシューさん、急ぎじゃないので大丈夫ですよ。またいつものやつですか?」
「この前より豪華に頼むよ」
「かしこまりました。トラファルガーさんは宜しければその椅子にお座りください」


 商談はほぼ纏まっているためここをすぐさま立ち去ってもいいのに、ローは何故か促されるままカウンター前の椅子に座っていた。座った瞬間にそれを思い出したが、同時にまあいいかといった惰性の気持ちに打ち消された。むしろこの女がこれからどうやって能力を使うのか、そこに興味を持っていかれた。
 近くにあった大小の鉢から、やや大きめの鉢を手探り寄せた。中にはふっくらとした土がすでに入っており、花屋が後ろの瓶から次々に種を植え込む。ある程度植え終わると如雨露で軽く土を湿らせると手をかざした。ゆっくりと撫でるように、掻き回すような仕草につられて種が発芽していく。するすると成長の早送りを見ているようなそれは、あっという間に鉢の中の小さな花畑になった。花屋が操る根たちがまるで助手のように、ハサミを用意したり包装紙を用意したりする。手際よく切り出して纏めていく花屋と助手をローは黙って見ていた。成人男性が両手で抱えられる程大きな花束にリボンを掛ける傍、余った花で小さなブーケを作る。根から受け取ったそれを花屋が持った瞬間、熱した鉄の上に水滴を垂らしたように乾燥した。枯れたのではなく、ドライフラワーになった小さなブーケ。そんなこともできるのかという感心と、だから漢方も直ぐに作れると言うのかという納得にそっと感嘆の息を吐いた。


「……できましたよ」
「おお、これは見事だ。妻も喜ぶよ」
「前回は仲直りでしたよね。今日は何かの記念日でしたっけ?」
「妻の誕生日さ」
「わぁ、それはおめでとうございます。よろしかったらこれ、私から。アロマ垂らしてください」


 まるで自分のことのように喜んだ彼女が、ドライフラワーのブーケを男に渡す。そして小さな小瓶も一緒に手渡した。両手いっぱいに抱えた男は嬉しそうに笑い、何度も礼を言って頭を下げた。


「海賊のお兄さん、お待たせしてすまないね」
「いや、おれの方はちょうど終わったところだった」
「ニイナちゃんの腕は一級だよ。混ざり物のない質のいいものを揃えたかったら、今のうちだ」


 代金を支払い、釣銭を受け止った男が振り返ってローへと挨拶する。この島は海賊にも柔和で、それにつられるようにローの態度も弛緩してしまう。店主に代わって営業までする男に花屋も「マシューさんったら」と呑気に笑った。
 そこでローは花屋の名前を初めて知った。別に知りたいとは思わなかったし、ローの性格上屋号で呼ぶために必要はなかった。だけどその言葉がなぜか、染み付いた。花束の匂いと共に腹の奥底に馴染んでいくような悪くない感覚に、ローは瞳を細めた。


「なら追加で頼もうか」
「トラファルガーさんの懐にお任せしますよ」
「それじゃ、ニイナちゃん色々ありがとうね。お兄さんもよい日を」


 最後にニイナにウインクを、ローに花束から引き抜いた一本の花を手渡して男はドアを潜っていった。つい受け取ったそれを一瞥して少しばかり苦い顔をする。


「……男から花をもらう趣味はねェ」
「ふふ、元は私の花ですから気にしなくても良いんですよ。でも気になるなら、ちょっとお借りします」


 ローの手から一輪を受け取り、紙を引いたカウンターへ置く。本は読むほうかと聞かれて頷けば、満足そうにニイナも頷いた。
 透明なフィルムや厚紙を用意して挟んだ後に押し潰す。軽く手をかざして、飾り紐を付ければ押し花の栞が出来上がった。普通ならもっと時間がかかるというのに、能力があればこんなにも簡単にできてしまう。出来上がったそれを手渡され、まじまじと見れば瑞々しい花が閉じ込められている。


「今は綺麗でも所詮は植物です。押し花でもドライフラワーでも寿命がきます」
「人間も一緒だ」
「ですが花の一生はもっと短いです。私は幾つもの花の誕生を見て、見送ってきました。だから、治療をして生かしてあげられるトラファルガーさんが少し、羨ましいです」


 僅かに目を細めて笑む名前の言葉には優しい響きしかなかった。羨望や情景があれど、嫉妬や悔恨がない純粋な気持ちだった。ローにとってそれは貴重で興味深いものだった。幼い頃から様々な醜悪を見てきた。人の奥底には僅かでも欲が滲むものだというのに、初めて向けられた清純な気持ちはローの好奇心をくすぐった。


「……そういえば、花屋」
「はい、なんでしょう」
「なんの植物でも育てられるって言ったな」
「ええ。育てたことのないものもありますが、大抵は」
「なら頼みがある。前に敵船で見たことのない植物があったんだ。いつまで経っても枯れないが、花も咲かない。それを育ててくれないか」
「構いませんが……いいんですか?」
「どうせおれらの船にあっても手に余るだけだ。なら、余らないやつに任せた方がいいだろう」
「それもそうですね。じゃあ、楽しみに待ってます」
「ああ。明日来る」
「お待ちしております。お気をつけて」


   


 ドアから見送るニイナを思い出しながら、次の日ローは鉢植えを片手にまた花屋を訪れていた。キラキラと朝露を反射する野草を眩しく感じながら、別れてから1日も経っていないことに気付いた。朝早く起きてすぐにローの頭は興味のあることで占められる。それは最新の医学や流行りだした奇病など様々だが、それに慣れた船員たちでさえ今回のローには驚愕を隠せずにいた。あの船長が早起きして鉢植えを片手に船を出るなど、誰が想像ついただろう。


「邪魔をする」
「あ、トラファルガーさん。おはようございます」


 扉をくぐれば、昨日見た光景のように鉢植えに種を蒔いているニイナの姿があった。笑いかける彼女と目を合わせると「これ、」とローがズッシリと重い麻袋をカウンターに置いた。


「前払い分だ」
「えっ、こんなに多い前払いなんて聞いたことないですよ。あとうちは後払い制……」
「金はあるに越したことはねェだろ。貰っておけ」
「ひぇ……ありがとうございます……」


 恐る恐るといった風に中を覗く彼女にローは苦笑する。族相手の商売に慣れてないのだろう。昨日と同じカウンターの椅子に座れば目の前に紅茶が入ったカップが置かれた。微かにハーブのが香るフレーバーティーだった。キツすぎないそれを一つ飲み下して、息を吐く。最早彼女が自分に害成す存在だとは無意識に思っていなかった。


「あ、それが昨日言っていた植物ですか?」
「そうだ」


 座る際に一緒にカウンターに置いた鉢植えに、覗き終わった袋から顔を上げたニイナが気付く。小さな鉢植えから僅かに青々とした葉が伸びているが、蕾はつく様子はなく一見観葉植物のようだ。勿論世の中には葉だけを楽しむ植物もあるが、これは花をつける植物だとローは知っていた。


「……あ、これ」
「見ただけでわかるか」
「はい、葉に特徴があるので。微かに線が入っていて、花よりは薄いですが香りがします。あまり出回らない珍しいものですしね」


 大きな敵船を踏破した時だった。浮かれたシャチかウニあたりが持ってきた鉢植えだ。それが珍妙なものだと困ると必死で図鑑を開かせて調べたものだから、それがどういったものだかローは知っている。
 曰く、両者が恋に落ちたと自覚した瞬間に側にあると開花するらしい。その花は結ばれた瞬間しか咲かず、なおかつ二人の間でしか咲き続けず、別れれば枯れるという大変貴重なものらしい。だがその刹那に落ち合うなぞ滅多にないものだからこの花が出回らない理由は納得するものだった。恋人たちは求めてもしょうがないものだし、恋する瞬間にそれがあるとは限らない。しかしその花はとても美しく甘美な芳香を漂わせると言うものだから、くだらない草花に高値をつける連中の気がわからないものでもなかった。人間は少数の貴重なものには価値をつけたがるものだ。
 だからこそハートの海賊団では持て余していた。売り捌けばいい金になると思ってた矢先にニイナと出会ったものだから、現在切迫した状況でもないし薬をまけてもらった借りがある。何より適任者がいるならそれに越したことはない。


「よろしく頼む」
「こんな貴重なお花……しかし育てるにしても私にも手に余ります……」


 海賊とはいえ恋に落ちないわけではないが、皆が口を揃えて必要ないと言うのだからローにとっても持て余していた。ここの店主さえ手に負えないのならやはり転売しか望めないのか。


「ああ、いえ、咲かせることは能力でできますが……やはり貴重なお花なので自力で咲かせた方が綺麗かと思います。でも、この店に来られる方達が咲かせてくれるかどうか……」
「アンタが客と恋に落ちればいいだろ」
「そ、そんな!」


 ぽっ、と上気した頬を両手で隠すようにしてももう遅い。相手はいるのか、協力してやろうかと揶揄ってもそれ以上の反応は望めなかった。


「……残念ながら、ずっとここにいるので恋沙汰とは無縁ですよ」
「なんだ、つまんねぇな」
「つまんなくて申し訳ございませんー」
「なら観葉植物代わりにでもしておけ。船に置いてたら揺れて机から落ちる危険性もある」


 くるくると鉢を持って回転させるように眺めていたニイナがふと手を止めてローを見る。ぱちりと合わさった視線にローが怪訝に眉を顰めてみると、花弁がゆっくり広がるように目を細めて笑った。


「そこまでこの子のことを大切にしてくれて、ありがとうございます」
「……別に、後味悪いだけだ」
「君はご主人に大切にされて幸せだねぇー」


 ローの濁した言い訳を聞いていないのか、ニイナは鉢植えに笑いかける。その元ご主人は今や海の藻屑だと知っているのだろうか。ローはため息をついて、先ほどよりは温くなった紅茶へと口をつけた。
 小屋の中にはニイナの作業をする音と、手伝う根や蔦達が這い回る音がする。ローはその辺にあった植物図鑑を手探り寄せて適当なページを流し読みして時間を潰していた。別にここにいる理由はないのだが、ただなんとなく紅茶が飲み終わるまではここにいようと思っていた。しかしそれも無くなる直前に気付いたニイナによって注ぎ足されるので、ローは立ち上がることができずにいた。その静寂のルーチンを破るようにニイナがため息をついたものだから、ローは昨日話した彼女の言葉を思い出した。


「そういえばお前、能力を使うのに体力が必要って言ってたな」
「えっ、あ、はい。すみません、気分を害したなら謝ります……」
「そうじゃねェ。体力どころか命削るようなモンなら無理して作る必要がないってことだ。あのリストは少し多めに書いてある。急ぐ旅でもねェし、なんならキャンセルしても……」
「それは困ります!」

 少しばかり大きな声にローが目を見開くと、ニイナ失態に気付いたのか咄嗟に口を手で覆って謝罪する。それから今までの会話でローが気遣ってくれたと咀嚼できると、おずおずと様子を伺うように声を出した。


「……えっと、急ピッチで進めたり集中したりするから疲れるだけです。命削る、のはよくわかりませんが、倒れるまで能力を使ったりしたことはありませんよ」
「そうか。悪い、忘れてくれ」
「いえ、寧ろお気遣いありがとうございます」


 照れたように笑うニイナになんとも言えない気分になったローは一気に紅茶を飲み干し、おかわりを淹れようとするニイナを制して「また来る」とだけ言い残し立ち上がることに成功した。


   


 次の日、植物図鑑に飽きて医学書を持参したローが訪れるとそこには先客がいた。今日は少しばかり寝坊して、昨日よりも時間が遅くなったからだろう。一昨日見た光景と同じ場面が繰り広げられている。


「ですから、いくら言われてもうちでは取り扱っておりません」
「そんなわけねェだろ?」
「なんでも育てられるって聞いたんだ、ならあるだろ?」
「頼むよ嬢ちゃん。金なら払うからよ」


 ローは一つ考えてからその場で傍観を決め込んだ。先日に彼女が防衛手段があると言ったことを観察したいためだ。虫さえ殺せなさそうなおっとり笑う彼女はどう戦うのか。あの可愛らしい脅しだけで本当に引き下がる賊がいるのか。興味は尽きないばかりだ。


「有能なベビーシッターがいても赤ん坊がいなければ仕事ができませんよね? お引き取りください。二度は言いません」


 ボコッ、ボコッ、と地面が脈打つ。山賊達が戦々恐々と蠢く大地を避けるように足をよろめかせる。ニイナの隣に生えた植物が青々とした葉を茂らせ、蕾をつけ、人の上半身もある大きな花を咲かせた。何処か毒々しい色と警告色を混ぜたそれは離れた所にいるローにさえ噎せ返るような甘い匂いを届けた。


「どうぞ、お望みのものです」


 手を伸ばしたニイナが花の根元を掴んで山賊たちの顔面へ向けると、花は大量の花粉を落とした。黄色いそれは雪のように男達の肩に降り積もる。すると、山賊達はもがき苦しんだ。中には涙目で嘔吐するものまでいる。痙攣して、まともに呂律が回っていない。麻薬の類かとローが眉を顰めると、もう一度花粉を落とそうとするニイナを見た山賊は命からがらに逃げ出した。追おうとすれば追えるような速度でも、ニイナはそうはせずに後ろ姿を眺めるだけだった。花をひと撫ですると、それは地面に吸い込まれるように枯れていき、あれほど根が張り隆起していた地面が元通りになった。


「……こんにちは、トラファルガーさん。今日はお寝坊さんなんですね」


 いつから気づいていたのか問うまでもなく、お互いの姿は見えていただろう。何故助けなかったのかとニイナが詰らないのは今まで強く生きてきた証拠だ。
 にこりと昼間の日差しに負けないくらいに眩しくなる笑顔を見せて、扉の中へ入っていった。ローもそれに引き続いて彼女のテリトリーへ侵入する。薬草の匂いが立ち込めて、蔦達が忙しそうに三つある植木鉢から栽培を繰り返す。枝、実、葉、根などに分けられ、ニイナが手を翳して乾燥させる。横にある大鍋では下茹でをしているのだろう。丁寧に灰汁を掬っては捨てる作業に勤しんでいる。
 ローは決まった自分の席に座り、今日は持参した医学書を開いた。それを見たニイナが「いいですよね」と声を出す。


「私、時々お医者様や薬剤師の先生に憧れます。人を治してあげられるなんて羨ましいことこの上ないですから」
「薬剤師は薬がなきゃ治療すらできねェ。その大元を作れるお前の方が大したもんだろ」


 自分の名前を知って、海賊だと知っているならニイナはローを外科医だという事も知っているのだろう。全て知っても怖がらず接してくるのは夜の相手か気の強い女だけだったために、ニイナのような暖かい陽射しの中で育った女がローには珍しかった。娼婦のように媚びるわけでも、街行く女のように甘言を垂れるわけでもない。素朴なニイナが新鮮で居心地が良いと確かに理解していた。
 大きく目を見開いたニイナが「それは考えた事もなかったです」とボヤいて釜の火を消した。桂皮を幹から剥がす際の匂いが届く。剥がしたそれらに手を翳せばいつも見るそれと大差なくなる。一つまみ、桂皮を摘んだニイナが手元の小鍋に入れて混ぜる。その中身を濾してマグカップに注いだものをローの前に出した。甘さ控えめで、桂皮が香るシナモンティーだ。
 黙々と作業を進めるニイナと、本を読むローに会話はない。作業音が心地良く、ニイナも依頼主がいる手前集中力が途切れない。そこで一つの話を振ることにした。
 何故この男は足繁く通うのだろう、手配書や噂で知る人物像より柔らかいイメージで、もしや薬に何か混入されることを忌避しているのだろうか。その割に自分に視線は向けないし、挙句にはほぼ任せきりだ。会話を交わすのは最初と最後だけだが、そこに隔壁とした断絶はない。打てば響くし、むしろ想像してたより多い口数が返ってくる。彼は、何故ここに来るのだろう。もっと彼を知りたいと欲がチラつく。


「あの、トラファルガーさんが今までしてきた航海の話でもして欲しいです」
「何故だ」
「手は動いているのですが、口が暇です」
「……やめとけ。おしゃべりに夢中で品質が落ちるのは困る」


 ローは拒絶したわけではない。海賊の話なんてあまり気持ちの良い話でもないし、夢見る財宝の話なんて持ち合わせていないからだ。何より血生臭さより彼女は土臭い方が似合っていたからだ。
 そんなローの思惑を知る由もなく、ニイナは見えていなかった壁を感じてしまった。自分だけが彼に近付いてみたいと思ったが、そこに透明な壁は確かに存在していた。それは錯覚だと気付かないまま。
 ローは少しペースが落ちてきた蔦達を見てニイナが気落ちしたことを知る。そういえばと過去のことを振り返ると、以前ニイナが体力を使うと言っていた。疲労がたまってきたのだろうと検討をつけた。


「疲れるくらいなら根詰めなくていい。居心地は悪くないから滞在を延長しても構わない」
「え、いえ、別に疲れては……」
「体力を使うとは言っていたが使い過ぎて命を削るまではいかないんだよな? 他人の寿命を削ってまで得た薬は流石にいらねェ」
「えーと、お気遣いありがとうございます……?」


 そこでローは己の間違いに気付いた。戦闘するわけでもないのだから命までは削らないだろうと。訂正しようと顔を上げたところで、それに被せるようにニイナが口を開く。


「神経を使う疲労感はありますが、それ以上のリスクはありません。自分が倒れては本末転倒ですし、誰かが必要とするなら花屋は続けていかないといけませんしね」
「……無粋だったな」
「そんなことありません。むしろここまでの大口は初めてなので少し気負いしていた部分もあったかもしれません。そのお言葉に甘えてペースは落とすようにしますよ」
「そうしてくれ。海賊のおれが第一発見者になるのは困る」


 一人暮らしのリスクは高い。ましてや街の外れにあるこの小屋で倒れたら発見が遅れて生存率は大幅に下がるのだ。そうはなりません、といつものように笑うニイナにローが小首を傾げる。


「家族はいるのか」
「いいえ。ああ、今の時代ならよくある話ですし、私の中で整理がついたことですから謝らないでくださいね」


 時々恋しくなるのはまだ未熟なのだと思っていた。祖母の代からこの小屋はあり、代々花屋を営んでいた。祖母が死んだ際には側にあった林檎が悪魔の実へとなり、母が口にした。その母親が流行り病で亡くなった時は杏がクサクサの実に変化し、恐る恐る口にした幼き日を思う。泣きじゃくりながら頬張る所を薬屋の主人に発見され、大きな葬式の後に家の裏手にある祖母の隣に墓を建ててくれた事は今でも褪せない。だからこそ、治療ができる医療従事者を羨ましく思うのだろうとぼんやり納得した。


「まだ私が若い女だからと山賊達は下手に見ますが、ああやって立派に追い払えますし、街の人は懇意にしてくれますし。ここでの生活で悪いことはないですよ」
「そういや、山賊達はなにを欲していたんだ。大方麻薬の類だろうが、そこまで執着するものなのか」
「執着もしたくなりますよ。私がいればほぼ無限にローコストで麻薬を製造できますし、幻の植物さえ咲かせられる。金の成る木とはよく言ったものですね」


 自傷するような言葉をさも平然と穏やかに呟くニイナに、ローは彼女が今まで味わってきた辛酸と利口さを見出した。自分がどの立場にいて、どんな扱いを受けるかを知っていれば自ずと防衛手段ができる。だが、それは一般の街娘が小説の中で他人から齎せられる無駄な知識でしかなかったはずだ。


「……ですが、そういう人だけではないのも知っています」


 ふわりと笑んだ彼女が空になったローのマグカップを拾う。その際に香った匂いは嗅ぎ慣れた生薬に花の匂いが混じったものだ。
 ローは未だに彼女に渡した植物の名前だけを知らない。


   


「こんにちは、トラファルガーさん」


 ゴロゴロと空が不機嫌を訴える。もう少しで泣き喚きそうになる空であると知っているのに、ローはどうしても日課を崩したくなかった。結果的に、それが吉となるところだったが。


「……おい、どうした」
「はい?」


 確かに雨が降る寸前ともなれば気温は下がる。だが、目の前のニイナは凍死だけは防ごうとありったけの毛布を着込んでいるように着膨れしていた。いつものカウンターからはみ出そうなほどの布の量で、それでも寒いのかカタカタと震えている。


「ああ……風邪でも引いたと思います」
「だろうな。体温を維持する前に毛布の重量に押しつぶされそうだ。症状は」
「……まだ、寒気だけです」


 目が虚ろなところを見るに、そろそろ熱も出てくるはずだ。寝ろ、というローの尤もな意見に反論するように唇を突き出して拗ねて見せる。いつもより幼い行動にローの方もどう言い包めるか戸惑っていた。


「まだ作業がありますし、今日のノルマが……」
「万全の状態でやらねェで何がノルマだ。おれは昨日品質が落ちるのは困ると言ったはずだ」
「……なら、寝ます。もうすぐ雨も降りますし、トラファルガーさんはお帰りに……」


 ニイナがそこまで言った時、大きな雷鳴が辺りに轟いた。二人で飛び跳ねて、窓の外を見ればその一瞬後には押し流されそうな豪雨が降り注いでいた。傘を劈く雷雨だった。気まずい空気に沿うように根達もしんなりとする。


「……雨宿りも兼ねて看病してやるよ」
「うつりますよ?」
「そんな柔な体してねェ」


 仕方ないとばかりに立ち上がったニイナの体がぐらついて倒れこみそうになるのをローが受け止める。ここまで弱っているくせに口は達者で、こうなる前に発見できてよかったと胸をなで下ろす。上がる体温と熱い息を感じながらニイナが指差す方向へ肩を貸しながら進んで行った。
 自室と繋がるだろうと思っていた扉を潜り、小綺麗な廊下を歩けばすぐに寝室へと辿り着いた。清潔そうなベッドに横たわらせると、ニイナも一息ついた。


「勝手にしてもいいか」
「すみません。自由に使って頂いて構いませんから」
「着替えてろ。キッチン借りる」


 再度謝罪の形式を崩すほど弱々しい声が届き、扉を閉めると同時にローは溜息をついた。キッチンと思われる所の扉を開けば当たりで、彼女らしく整理整頓されている。ハーブの類が多く収納されており、野菜も豊富に用意されていた。消化に良い粥と水分補給用の飲み水、熱冷ましの氷枕もこれなら作れそうだ、とローは一先ず腕まくりをした。


「……何から何まで、本当にすみません」


 先ほどよりも上気した顔でニイナが細く言葉を紡ぐ。弱り切ったその視線は曖昧で、表情を困らせることすらできない。
 あの後着替えたニイナにローが氷枕を敷き、濡れタオルを額に乗せ、簡単な粥を食わせて、調合した薬を飲ませた。この家には簡易な常備薬しかなく、ローがニイナの作った自分達が買うはずの薬草の中からいくつかを見繕って薬にした。効き目が目に見えるにはまだ早い時間だ。


「雨宿りついてだと言っただろう」
「でも、薬を作っていただいただけでなく、看病まで……」
「謝られても治るもんは治らねェ。黙って養生しろ」
「……そうですね、はい」


 屁理屈のようなことで押し留めようとするローが見た目に反して頑固で、ニイナは思わず熱で固まっていた表情筋が崩れるのを感じた。気遣われているという感情に触れるのはいつ振りだろうか。弱ってしまった涙腺が滲むのは熱のせいだと言い訳をして、ニイナは瞼を閉ざした。
 すると、無機質なのかどうかわからないコール音が鳴り響く。いつも聞こえてくる音なのに、どうしてかくぐもって聞こえるような気がして瞬きをした。するとローがそれを制すように手を挙げた。反対の手に乗るのはローの私物の携帯型電伝虫で、恐らくポケットかどこかに入っていたのだろう。それがきっかけでニイナは喉の渇きを思い出したように水差しへ指を向ける。意図が伝わったのか腰を上げたローとほぼ同時にニイナも体を起こすと、途端に息が詰まった。
 肺の奥底からまるで絞り出すような、下手したら胃の中までひっくり返るのではないかというほどに咳き込む。合間に息継ぎをすれど、その吸った分の息を拒絶するように咳が止まらない。酸欠する脳がどんどん眩んでいくも、乾いた粘膜が傷付いていく痛みが現実に繋ぎ止めていく。怖い。こんな責め苦をいつまで続けるのだろう。自分では止まらないそれを止めてくれる手を、手を。
 寝台の片側が軋み、沈んだことさえニイナは気付く余裕がなかった。だからこそ自分が抱き寄せられて背を撫でられていることを受け止められたのは、ある程度息継ぎが出来て脳がぼんやりと意識を戻した時だった。謝罪も御礼もしたいのに、背を撫でるその大きな手が気持ちよくて喉が痛くて、助けて欲しくて縋るこの手が彼のシャツを掴むことで精一杯だった。次に余裕が生まれたのは聴覚だった。未だ鳴き止まない電伝虫はきっと彼の安否を気にする仲間だろう。収まりつつある咳を耐えて顔を上げると、ぽろりと生理的な涙が零れ落ちた。視線が合うと彼にしては珍しく迷うように目を彷徨わせて、やがて観念したのか腿に置いたままの電伝虫の受話器をとった。その際に強く引き寄せられて、また宥めるように、どこか手持ち無沙汰を慰めるように背を撫でられる。


「……なんだ」
『なんだ、じゃないでしょーがッ!!』
「っ、ぅ、げほっ」


 急な大きな声に吸い込んだ空気の収納場所を誤り、痛んだ肺の粘膜に直撃して咳き込んだ。それにリズムを取るように優しく叩かれる。


「うるせぇ、声が大きい」
『すみませ……じゃなくて、どこにいるんですかキャプテン!』
「どこだっていいだろ」
『大方この雨に立ち往生しているんでしょう。迎えに行くので、どこにいるんですか』


 抑えた咳を出せるほどに収まると一気に現実に戻ってきた。思考に余裕はあるのに、彼の手がかき混ぜるように混乱を招く。顔と口調は迷惑そうにしているのに、その手だけは優しい。喘ぐように酸素を吸う合間に撫で下され、自分で支えるのも辛い体を預けることを許されて。かたい、男の体だと実感する。ぶわり、と体の奥底から病気以外の熱が吹き出るのを感じた。


「必要ない。雨が上がってから帰る」
『……あっ、成る程。最近ご執着の方の家でしたか。それは失礼』
「おい、怒ってるのか」
『別に怒ってません。最近俺らに構ってくれないことなんて、別に』
「怒ってるんだろ。……はあ、風邪の看病ついでの雨宿りだ」
『先程女性の方の咳が聞こえましたが、そういうことですか。なら安静にさせて、手は出さないでくださいね』
「バラすぞ」


 怖い怖い、と冗談のように電伝虫が笑った。明朝には一度帰る、と伝えて通話は直ぐに途切れた。その頃にはニイナの咳も呼吸も整っており、ローの手も背中を摩るだけだった。


「……熱、上がったか?」
「いっ、いえ! そんなことないですよ!」
「そうか」


 平素の体温が低いローに比べ、ニイナが熱を纏う様は有り有りとわかった。殊更こんなに近くに触れていれば。少しばかり力が出ないのだろう。熱く柔い体が服越しに馴染み、良くない情が鎌首を持ち上げる前に寝台に横たわらせた。


「……あの、私は大丈夫ですので……皆さんのところへは……」
「俺にこの雨の中帰れ、と?」


 たしかに雨はまだ止まず、虹ができる余裕もなく空が暗くなってきた。寝台脇に椅子を持ってきて医学書を開いたローはこのまま見守る予定だった。ランプの灯りを文字が読める最低限まで落とし、ニイナの目元に光が落ちないよう遠去ける。


「見た目にそぐわず、鬼畜なんだな。新たな発見だ」
「……そうではなく、」
「ふ、悪い。揶揄っただけだ」


 困った様子のニイナにローは破顔する。それは、ここに来て初めての光景だった。薄暗がりの中、少年のように不意に笑う様を。ニイナは、彼は不敵に笑う様や口角を上げるような笑い方をするとばかり思っていた。意図しない、つい、といった笑顔。冗談に戸惑うニイナが新鮮で、思わず吹き出してしまったのだろう。
 ニイナは毛布を手探り寄せた。本当は暑くて放り出してしまいたいのに、何かを抱きしめて鼓動を抑えなければいけない気がしたからだ。吐き出してしまうには勿体無くて、飲み込むには熱すぎるこの鼓動は、どうしてしまえばいいのだろう。


「気にしないで寝ろ。休養を取らない限り治らねェ」
「……あの、もし明日まで晴れないようなら泊まっていってください。狭いかもしれませんが、そこのソファにでも……」
「気持ちだけ受け取っておく。別に一睡くらいしなくても慣れている」


 ソファは小さく、ニイナくらいなら丸まって寝ることは可能だろうが、ローが寝転がるには足りないことなど明白だ。このまま夜を明かすのだろうか。ローにとって眠ることも横になることもしないことが立て続けにあっても日常的なことだ。気にする必要がないとばかりに目配せしても、彼女は居心地悪そうに身を縮めただけだ。


「……だから、隈が酷いんですか」
「これは生まれつきだ。……まあ、多少の影響はあるかもな」
「なら、私に任せて頂けませんか?」


 緩慢とした動きで身を動かす様をローは眉を顰めて見ていた。起き上がると咎められていると知りながら曖昧に笑んだ。すると、彼女の寝台の下からスルスルと蔦が這う。戸棚のいくつかを開け、扉から出て行った蔦は遅れて帰ってくる。その物たちを組み合わせ、ニイナは五分足らずでそれを作り上げた。


「ハーブ入りの枕です。よく眠れますよ」
「へぇ、随分簡単に作るな」
「よく他の方からもオーダーされるんです。評判いいので是非」
「悪いな」
「いいえ、御礼ですし、私のお節介です」


 ほんのりと頬を染めて笑う彼女はすぐさま「おやすみなさい」と呟いてそっぽを向いて布団に潜り込んだ。ローは手渡された枕にそっと手を乗せる。しっとりと手に吸い付くような冷たい生地に、暖かさを感じる綿が程よく詰まっている。押した際に香るハーブの匂いにリラックスするように肩の力が自然と抜けた。それをそのまま膝の上に置き、また医学書を開いた。薄暗い部屋に響くのはページを捲る音のみで、窓の外の雨はもう邪魔しないほどに静かになっていた。それに二人は気付いていてもなお、お互いに触れることはなかった。
 余程疲労がたまっていたのか、体力の回復が下手くそなのか、ニイナは夜明けまで目覚めることはなかった。その頃には雨もしっかりと上がっていたし、朝食の粥や水差しの中身を変えて一度帰船することにした。傍にあの枕を抱えて街を歩く様は不格好だったが、ようやく朝日の片鱗を見つけられるこの時間帯に出歩く人間はいなかったのが幸いだ。朝露の反射が眩しい頃、能力で甲板に上がり扉を潜って船長室へ向かえば、クルー達の寝息が聞こえてきた。それになんだか懐かしくなって、ペンギンの言っていた通りあまり構ってやれなかったと気付く。
 そう思うことの裏側には、反対に最近やたら構っていた女が思い浮かぶ。何故そうしているのか。何となく、朧にローも理解している。しかしそれが確固たるものか、意識的にか無意識的にか結論を出すのを避けている。
 枕を取り替えて冷たい寝台に横たわる。熱い柔肌と、体温を感じる吐息、そして赤い顔で笑む涙。シーツは冷感素材のものだっただろうか。
 その日は久しぶりに夢を見ず、ペンギンとシャチが叩き起こしにくるまで深く眠った。


   


「さっ、説明してもらいますよ」
「……待て、こっちに説明しろ……」


 船長室へ突撃するように叩き起こしにきた勇者幼馴染組。寝起きで力が入らず、頭も回らないローは為すがまま起き上がり身支度をする。漸く座った食堂のテーブルには既にペンギンとシャチが座っていた。


「はい、せんちょー、寝覚めの珈琲です」
「……ああ」
「昨日も言いましたが、ここのところめっきり俺らに構ってくれないじゃないですか」
「寂しいんですケドー」


 まだ微睡んでいるようなぼんやりとした表情で珈琲を啜るタイミングを待っていた。回転不足のこの瞬間なら、余計な一言も零してくれるだろう。過去にも何度か繰り返した手法であり、長年の付き合いが成せるペンギンの奥の手だった。


「……べつに、俺がどこで何をしようが構わねェだろ」
「昨日女性を看病していたと言いましたが、最近通っているのはその方の家ですね」
「……ああ」
「その方は、一体?」
「……お前も聞いてただろう。何日か前に……いつだ……まあ薬屋に行った時花屋に行けと……」
「思い出しました。植物系の漢方は花屋でと言っていましたね。そこの女主人のところへ?」
「……ああ」
「昨日はまあ看病の為でしょうが、最近医学書持って行ったり例の鉢植えを持って行ったりしたのは彼女のところですね。いつも何をしに行っているんですか?」
「……なにも」
「はあ?」


 思わず素っ頓狂な声が出た。虚空を彷徨う視線を瞼の奥にしまい込み、頷いたローにシャチが「キャプテン、寝ないでください」と声をかける。あれは肯首ではなく眠りに落ちようとしていたのか。
 ペンギンは頭を抱えたくなった。良い子の如く朝早くから昼過ぎと出発の時間は疎らなものの、夕飯前には帰ってくる最近の船長の奇行を探りたかっただけなのに。普段のローなら趣味の放浪や娼婦の所へ泊まったりと帰ってこないことはままある。だがこの島は娼館もなく、気に入った街娘でもいたのかと思ったが、この有様だ。まさか、まさかだ。数日前仲間内で揶揄していたことを言わねばならないが、ペンギンはそれを否定した手前言いにくい。しかし、可能性が浮上したのだ。


「───一応お伺いしますが、その娘に惚れたんですか?」
「……は?」


 聞き取れなかったのか、想定外の所からの言葉だったのか、聞き返すように小首を傾げたローにペンギンは唸りながらもう一度同じことを言う。まだ処理能力が追いつかない脳ではすぐに答えが出ず、何言っているんだと笑い飛ばすには遅かった。


「……そういうんじゃねェ」
「ではなぜ、何をするわけでもなく花屋に行くんですか。頼んだ薬が心配で見張りを?」


 珍しく口の中で否定を転がすローを見て、ペンギンとシャチは顔を合わせた。はっきりしない物言いは殆どしたことがない。だからこそローが自分の感情や行動にさえはっきりした意図を探れていないのだと知った。ならばここで結論を出させる必要はない。どうせ吐かせたところで曖昧模糊としたものなら、己の目で見た方が早いかもしれないからだ。


「わかりました。なら、件の花屋に行きましょう」
「は?」


 ぱっちりと目が見開き、呆けたように口を開ける様は幼く見える。俺らが行っちゃいけない理由もないですよね、と言うと肩を竦めて勝手にしろと返事がある。更にお前ら暇人だな、とも飽きれたように言う。


「ヘヘッ、用もないのに毎日花屋に足運ぶキャプテンに言われたくねーや!」


 昼を少し過ぎた時間、漸く覚醒したローはお供にペンギンを携えて船を出る。今頃クルー総出でシャチの縫合をしていることについてなのか、いつまで経ってもローの琴線を理解していない頭の悪さについてなのか、ペンギンは大きく嘆いてため息をついた。


「───あっ、トラファルガーさ……」


 可愛らしい声と薬臭い風が扉を開けると溢れ出してきた。事前に聞いていたが、蔦が触手の如く蠢く様には面食らってしまう。体調が悪いはずだがどうやら快方に向かったようで、植物も元気に動き回っている。顔色も悪くなく、ペンギンを不思議そうな瞳でまじまじと見ている。


「初めましてだな。キャプテンがいつも世話になっているようで。ペンギンだ、よろしくな」
「あっ、はじめまして! こちらこそ、トラファルガーさんには色々とお世話になっております……!」
「おい、何やっているんだ。まだ病み上がりだろうが」
「もう殆ど仕上げだけですし、無理のない範囲でしています」


 ペンギンから見て、たしかに彼女の顔色はいい。少しばかり唇の色が薄いかもしれないが、一日でここまで回復するのは大したものだ。流石うちの船長、と密かに胸を張る。
 ローは大きなため息をつき、諦めたように鬼哭を下ろした。いつもの定位置のカウンターに置き、勝手に奥の方に進む。


「なら薬も一層苦いやつ作ってやるよ」
「えっ」
「寝込めばいい」
「昨日のでさえ精一杯なのに……悪魔ですか……!」
「悪いな、海賊だ」


 勝手にする、と奥へ消えていったローを見送ったあと、ペンギンはローの定位置へと腰掛ける。後を追うか、追わまいか葛藤して結局腰を据えた。きっとこの短い間でローには敵わないと学んだのだろう。
 ペンギンの目には、数日の僅かな逢瀬と言えど二人の距離はそれ以上に縮まっていると察した。


「さっきの話だと薬は出来上がっているのか?」
「ええ。明日にでも引き渡しできると思いますよ」
「そりゃ良かった。キャプテンにはまだ相談していないんだが、これからの航路に海軍の視察船が縦断するという情報が入ってな。出航を早めようと思ったんだ」


 驚愕の言葉を短めに漏らしたニイナは、分かりやすいほどに狼狽えた。そうして瞬きを幾度も繰り返し、揺れ動く瞳から動揺していることをありありと告げた。まだ確定していない情報を告げたのは情けでなく、ちょっとした悪戯だった。本来ならまず初めに船長に通す話を誰かに話したりはしない。ただ嬉しかったのだ。十年以上連れ合った仲間に「いい人」が訪れることを。


「明日、船長が支払いに来るよ」
「え、ええ……わかりました……」
「多分あまり時間はないと思うけどな。何せ明日は船長の誕生日だから」
「───えっ、」


 ちらりと帽子の隙間から覗き見ると、ニイナは二度目の動揺にたじろぐ。情報過多でショックが大きいのだろう。心労で風邪を振り返されても困るので、苛めるのはここまでにしようとペンギンは笑顔を取り繕った。


「まあどうせうちの誕生日会は夜にしかやらねェし、準備する口実で船長が直々に取りに来ると思うぜ」
「そう、ですか……」


 周りで忙しなく動いていた根達がスルスルと下がっていく。動かすだけの余力がないのだろう。少しやり過ぎたかな、と心配したところで後方から声がかかった。


「とりあえず三日分の薬置いといたから飲めよ───おい、どうした」


 蒼白にも近いニイナの顔色を見て、ローが声を上げる。なんでもないです、いややっぱり寝てろ、の押し問答を繰り広げる様はペンギンにとって痴話喧嘩以外の何者でもない。
 いち早く彼女の状態に気付き、身体の心配をし、密に通う様を見れば一目瞭然だ。彼女の反応も見ていれば分かりやすい。あとは両人が自覚をするだけなのだろうけど。


「……キューピッド役、よろしくな」


 明日が最終日で特別な日だと記憶に植え付ければ、この焦れったい関係にも花が咲くだろう。その見届け役として、ペンギンはカウンターの端にある見慣れた鉢植えの、ふっくらとした蕾を指先で弾いた。


   


 その日、ニイナは朝から大忙しだった。これから来るローの薬の仕上げは終わっていたが、その他に二件の予約が入っていた。一件は呆気なく終わる大きな鉢植えの手入れだった。鉢を変えて枯れかけていた植物の枝を間引き、栄養剤を入れつつ能力で若返らせる。するとまだ若芽のように青々とした葉を取り戻した。しかしこれは寿命も近いのだと持ち主に言いつけなくては、と水を掛けながら思った。
 そして最後の作業が大掛かりだった。何せ、バースデーパーティを彩る大きな自立する花束が欲しいとオーダーが入ったのだ。上手く器具と蔦を絡めながら花の彩りとバランスを考える。その思考の合間に、昨日の依頼が思い浮かぶ。


「……そういえば、トラファルガーさんもお誕生日だっけ……」


 アネモネの色を変えたほうがいいか、と考えていた時のことだ。依頼という形ではなく、記憶に深く刻まれた情報だ。
 彼らは今日、この島を発つ。そしてその船長であるローの生誕日。恐らく彼らと会うことは今生ではないだろう。彼らは海賊で、海軍への通報を避けるため居場所を明確にしないから遊泳する魚よりも見つけにくい。だから、今日が最後の日なのだ。そう思うと何か引っかかるような気がするし、その部分がざわざわと気味の悪い夜に揺れる木々のような不安定な気持ちにさせる。たった数日、少しばかり密に接しただけの客人。謂わば海の犯罪者である彼との別れをこうも惜しむ自分の気持ちを整理出来ずにいた。最終日の今日、強制的に齎された別れによっていい加減決別しなければならないが、まだ何か一つのピースが足りなかった。


「……あ、いけない」


 偏った思考に囚われると、どうも手元が狂ってしまう。片側にかすみ草が寄ってしまったそれを調節しつつ、折角の誕生日なんだし何か贈り物をしようと決めて、助手である蔦を総動員した。


「───外のやつ、なんだ?」
「あっ、こんにちはトラファルガーさん。外のはお客様の注文のものです」


 その日、いつもよりは少しばかり遅れて来たローが見たのは玄関先に佇む華やかなタワーだった。ローと同じくらいの背丈なところから、それより小さなニイナが作るのは骨が折れただろう。ましてやそれを引き取る人間も小柄なら運ぶことが難しい。そうでなくても土台と軸以外は花で覆われているため、運搬方法が限られる。無茶な注文をする客がいたものだ、と手に馴染んだドアノブを引く。いつもの薬の匂いが漂う中、紅茶の匂いが混じる。大掛かりな品を作っていたからか、スコーンと紅茶で今更遅めの昼食を取っていた。


「なんでもバースデーパーティをするから派手なのを、と言われて……どうせお花なんて隅で飾られるだけなんですけどね」
「花屋がそれを言ってどうするんだ」


 呆れたようなローがカウンターに重たい袋を置く。スコーンの最後の一口を紅茶で飲み下したニイナはそれが何か簡単に見当がついた。前払いでいくらかは貰っているというのに、結局相場くらいは入っていそうなそれに眉を顰めた。


「……今日で、発つんですね」
「ああ、夕方にはな。世話になった」
「此方こそ、色々とお世話になりました」


 簡素な挨拶だとぼんやり思った。気の利いた言葉の一つすら吐けなくて、女々しく引き止めることも出来ないことが悔やまれる。これから彼らはニイナの知らないところへ行き、知らないことを成し、知らないところで死ぬだろう。その側にいることは許されない。ただの街娘と一人の海賊。隔たりは高く、溝は深い。触れることも、話すことも、姿を見ることも本来なら許されないのだ。市民による通報の義務。犯罪者の断絶。
 ニイナにとってそんなものはどうでもよかったのに、ただ一人の異性のせいで全て掻き混ぜられる。


「……あの、」


 だからこそ今日だけは。誰もいない、生まれた時から住むこの家にはなんの法も関係がない。


「今日がトラファルガーさんのお誕生日だとお聞きしました」
「あ? なんで知って……ああ、ペンギンか」
「そうです。おめでとうございます」
「海賊を祝うなんて稀有なやつだな」
「ええ、おかしいですよね」
「そうだ。だから忠告してやる。俺達のことは全て忘れろ。その方が双方の身のためだ」
「わかっています。だから最後に」


 ニイナがカウンター裏から取り出したのは大きな花束だった。色とりどりの花で、ローでさえ片手で支えるのがやっとのボリュームだった。美しく、瑞々しく、豊潤な香りにまるで花畑に埋もれていると錯覚させられるほどの腕前だった。お誕生日おめでとうございます、ともう一度呟いたニイナはローと目を合わせることはしなかった。


「枯れたら捨ててくださって結構です」
「勿体ねぇな」
「花の命は一瞬です。思い出に色を付けてもやがては褪せてしまう、そんな儚いものなんです」
「……おい、花屋がそういうこと、」
「教えてください、トラファルガーさん。貴方はずっと線引きしていたんですか。私の体調を心配することさえ、一線を置いていたんですか。全て、私は薬を作る花屋だと思っていたんですか」


 本当は、そういうことを聞くつもりはなかった。漸く気付いてしまった気持ちは、叶うわけないと枯らしてしまうつもりでいた。この気持ちもきっと、時間が経てば褪せてしまう。焦がれて燻る前に全て消えてしまえば良かった。
 それでも、どうしても溢れてしまった。水の入った花瓶に溢れんばかりの花を挿されて、押し出されてしまった。期待しているのは「人間だから」という言葉だった。「薬を作る花屋」ではなく、都合よく使われるこの能力ではなく、ニイナという小娘と認識して欲しかった。その辺の街娘と変わらない情が欲しかった。認めて欲しい、ただその承認欲を満たすだけでいい。たった、それだけでいい。
 抑えきれない気持ちは花屋という体裁を利用して花束として纏めたのに、どうしても欲張ってしまうはしたない女の性でもあったからだ。


「……本当にそう思うか」


 意図が掴めないことは、敵にさえ少なかった。ローは比較的察しの良い方ではあるし、クルーの機微には内側を見ているのかというほど見抜ける洞察力があった。戦略的に敵を見誤ることもなく、むしろ此方が二手三手先を見据え裏をかく陽動作戦を得意としていた。そんなローが、ニイナの心情を掴めない。恋沙汰に疎いのが仇になったのか、見えないふりを決め込んだ自分の気持ちが目隠しをしているのか。先に言った通りロー達とは立場が違うのだ。ここにロー達が訪れて繋がりがあると知れたら海軍は放って置かず、捕らえられるだろう。先週見た新聞には行き過ぎた尋問で無実の市民が嬲り殺された事件を責める記事が大々的に報道されていたのだ。ならば身を案じるのは道理だというのに、その理由にするには何かが違うのだ。
 海賊という体裁と己の宿命を背負い目を背けてさえ堅固な意志が崩落してしまうのは、どうしようもない浅ましいまでの男の性だった。

 戸惑う声を出す前に、ローは気付いた。抱えている花束から覗く、赤い薔薇が三本。枯れたら捨てていいと言う割に防腐処理が施されて他の生花よりも手触りが僅かに違う。それにそっと撫でるように指先を這わせると、思ったよりも穏やかな声が出た。


「俺はお前が思ってるよりも器用じゃないぞ、ニイナ」


 ──────ポンッ


 目を見開く両者の間でその場にそぐわない軽い音が響いた。ほぼ同時に下を、カウンターの上を見る。そこにはローがかつて持ってきた鉢植えに花が咲いていた。それだけだったら邪魔をして、と気分を害すだけかもしれないが、その花が開花する条件を思い出して更に驚愕した。
 未だローがその名を知らぬ花は、好き合う男女の気持ちが通じ合った瞬間に側にあると開花する稀有な花だった。想いが通じ合う限り咲き続け、別れれば枯れる珍しい植物を花屋に預けたのは記憶に新しい。それが今開花するとなれば、結果は火を見るよりも明らかだ。葉よりも強く甘い香りを放つ薄桃色の花弁が祝福するように揺れる。
 ローとほぼ同時にゆっくりと顔を上げたニイナの顔が瞬時に赤くなった。彼女もまた、その花の意味に気付いたのだろう。


「……ッみ、見ないでください!」


 能力の暴走か、照れ隠しか。咲いたばかりのその花が急成長し、大きな葉や茎がニイナの姿を隠す。大きさに伴って花も各所に開花しており、むせ返るほど甘ったるい匂いが小屋に漂った。
 ニイナはクサクサの能力の持ち主で、どんな草花でもその命を操ることができる。だからこの花も無理やり開花させることは出来るが、ニイナの意図で咲かせたわけでないことは明らかだった。
 静まり返る小屋のせいで、ローは己の心臓が煩いことに気付いた。嘘偽りのない、隠すことさえ出来ないその恋慕に。だからこそ確かめなければいけない。抱えている花束の存在を打ち消すこの花が咲いた理由を。欲しいものは奪って攫う海賊の礼儀や、今日が自身の祝福される日だから許される暴挙を言い訳にしない、トラファルガー・ローの本音を。産まれたばかりのこの恋心を、伝えさせて欲しい。
 ゆっくりと傷つけないように花や葉をかき分けると漸くその姿を現した。まだ手で顔を覆う頑固さはあれど、赤いままの耳は隠しようもない。そこへローは手を伸ばす。熱病とはまた違う熱に触れるまでは、あと僅か。




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