小説 | ナノ


 その時、俺は何を考えていたのだろうか。一歩間違えれば目の前のこの男を殺しかねないのだ。更に一歩間違えれば己の無防備さに首にかけられた賞金の自覚のなさを嘆く所だ。しかし、今のところ全て上手く行っている。予定調和ってやつだ。ああ、口角が上がるのを止められない。暗い真紅がそのオムファタルの尖った喉仏を嚥下させているのだと思うと、小さな種火に火を付けられたような気分に浸る。
 ああ、勘違いしないでくれよ。これはたった一つの興味ってやつから始まったことなんだからな。

 白い建物に南の陽射しが反射する島だった。路地裏にまで煉瓦が敷き詰めるほどの財力があり、屯する若者もいないことからまるでバカンスをしに来たような気分だ。照り付ける太陽は少しばかり傾いて、小腹がすいたと思った。今日は何処に食事をしに行こうか。この島に滞在してもう十日ほどになる。一向に溜まらないログもこの時ばかりは俺の気分の妨げにならなかった。
 そういえば珍しいライスサンドを出す店があったことを思い出す。パンで挟む具材を焼き固めた米でサンドしたやつだ。あれならパンを嫌う俺にも食べれるとシャチが嬉しそうに報告してきたことを思い出す。今回ばかりは手柄だ、と褒めることにしよう。避暑と称して自室で薬を煎じているニイナもそろそろ腹が減るだろう。我ながら珍しく気が利くことをしようとするほど、この島は居心地が良い。照り付ける太陽があれど気温が高いわけでもない。湿度も適度で、難点があるとすれば夜が寒いくらいだが、北の海育ちの野郎共に堪えるほどでもなかった。


「───お兄さん、良かったら見ていって頂戴」


 呼び止める声が自身に向けられていると察して立ち止まる。普段なら無視するそれさえ受け止めるのだから、これはもう第三者にも俺の機嫌の良さが伝わってしまうだろう。誰も一緒に連れていなくて良かった、と息をつく。
 声をかけてきたのはポツンと佇む露天だった。周りに人の気配はなく、俺がそれに眉を上げると「ちょうど人が引いたのさ」と老婆が付け加える。並ぶ商品はワインのような細い瓶が幾つか───全て同じラベルな所から、余程その商品に自信があるということだろう。
 今更背を向けるわけにもいかず、足先を向けた。


「……ワインか」
「この島特産の葡萄を使っている。フルーティーで飲みやすいと評判だよ」
「聞いたことねェ品種だ」
「あんまり出回らないからねぇ。よかったら、味見していくかい?」


 小さな一口でも飲めるようなサイズの紙コップを手渡される。中には真紅の液体が注がれており、香りも俺の知っているそれと大差ない。変哲も無い、とそれに口を付けようとして、老婆の手がそれを止めた。


「それは不思議なワインでね」
「?」
「見た目は大したことないワインだと言うだろう。だが、それは大間違いさ。普段上戸な人間が揃って倒れ込むほど凶悪かと思えば、普段下戸な人間がまるでジュースのように喉を鳴らして飲む……逆転のワインと言われている」
「ほう」


 グランドライン───ひいてはこの世界に常識などありはしない。旅をすればよくわかる。自分の小さな島での常識など、隣の大国では非常識だということも多々ある。このワインもそれに当てはまり、俺の常識を覆す物質だ。上戸と下戸が逆転し、続けた老婆がより上戸なほどすぐに酔いやすいと言った。
 百聞は一見にしかず。一気に呷った俺にいい飲みっぷりだと老婆が唸る。飲み口はフルーティーで軽い。俺が飲むにしてはジュースのようにも感じられるワインだが、飲み干したコップの底を眺めた刹那、カッと胃の奥底が熱くなるのを感じた。次いで、脳がクラクラする。顔が熱い。たった一杯にも満たないワインで酩酊したことはなく、況してやアルコールを感じさせないような微々たる度数から推察するに、老婆の言っていることは本当だったのだろう。一瞬の熱を諌めるよう鬼哭を握る手に思わず力が入ると、それを見た老婆がニヤリと口角を上げた。


「お兄さんやっぱり酒は強いみたいだねぇ。その一杯だけで顔を顰める人はあんまりいないよ」
「……手っ取り早く酔うにはもってこいだな」
「上戸過ぎると酔いたい時に酔えないだろう? そんな時にはこのワインさ。どうだい、一本」
「俺より強いやつを酔わせたい、と言ったらどのくらい必要だ」
「グラス半分もあれば充分だろう。飲み過ぎには気をつけな。毎度あり」


 酒を買わせておいて飲み過ぎに、とは笑える。札と引き換えに渡された紙包を抱えて今度こそ腹拵えに赴くことにした。そして今晩の酒と肴を調達して、彼奴を誘えば舞台は整う。





 舞台は冒頭へと戻る。全ての準備が整い、俺の思惑を知らないニイナが誘われて勧められたワインを手に取るまでは上手くいった。貰い物だと嘘をつく俺に「お前がワインなんて珍しいな」と鼻で笑うところから、ワインは葡萄ジュースじゃねェんだぞと教えてやりたい所だったが堪えた。ここでいつものような戯れへと変貌してしまったら計画が台無しだ。そこで漸く忘れていたことを思い出すかのように、昼間からの警戒心のなさへ自己嫌悪が募る。もし老婆に毒を盛られていたら、ニイナがグラスを揺らしているそのワインにも毒が盛られていたら。正規の店から買う以外は用心しろとクルーに伝えている筆頭がこれでは。つまみのチーズを齧り、居心地の悪さに椅子の上で身動いだ。
 だが如何せん、興味はあるのだ。常日頃から飄々としている才色兼備のこの男の醜態を垣間見ることに。隙のないそのスーツの余裕を奪うことができたなら。俺よりも酒に強く、尚且つ自分に有利なように飲まされて先に潰れるのは俺だ。深酔いして感度が鈍っていても攻め続けるプレイほど参ることはない。あれだけはもうしたくないと思う。


「香りいいな」
「試飲したが悪くなかった」
「お前が言うなら間違いないが……軽率な行動は控えろよ」
「俺に命令するな」


 試飲の無防備さを咎められて思わず反論してしまい、いいから早く飲め、と急かしてしまいそうになるがそうすれば魂胆がバレてしまう。だが急かさなくともいつかはその瞬間が訪れるのだ。そして俺のいつもの返答を聞いたニイナが笑ってグラスを呷った。
 その暗い真紅の液体が、透明なガラス越しにニイナの口内へ喉奥へと通される。嚥下する動きに合わせて喉仏が上下する。思考の片隅でワインも似合うな、と思った。勿論その先の興味がなくとも、此奴が為す一挙一動が優雅で欲を煽る。此方がその気になってどうするんだと自身を窘めようとも、小さな種火に火を付けられたような気分に浸る。
 ほんの、小さな興味だった。上戸なニイナが酔ったらどうなるかという、淡い興味。酔うと解放的になりやすく、普段なら見せない痴態も見せてくれると思っている。笑うのか、泣くのか、怒るのか。さあ、どう乱れてくれる。


「……、」


 余程味が美味かったのか、そのワイングラスを空にしたニイナがやや乱雑にプレートを机に接触させた。次いで細く長い溜息をついた。そうだ、飲み干してグラスの中身を見た瞬間にアルコールを感じるだろう。俺より上戸なニイナはきっと、昼間の俺より酔いがまわる。ゆらりと顔を上げて平常心を保つかのようにへらりと笑った男に、舌舐めずりをした。


「……毒なら、ある程度耐性があるし、味で直ぐ分かる」
「ひでェ話だな。俺がお前に毒を盛ると?」
「思ってないさ。だから、媚薬という選択肢も考えた。それにしては……何かが違う。アルコールが強いわけでもないのに、こんな、」


 はぁ、と溜息を零す。その吐息さえ、熱い。
 見る間に紅潮していく頬。掻き上げた髪の隙間に浮かぶ汗。何かに耐えるように寄せられた眉間の皺。熱を孕むその瞳。動揺を隠し平常心であれと告げる睫毛。ついには暑いと言わんばかりにスーツの上着を脱いだ。緩められたネクタイの先に見える鎖骨が、今日は一層美味そうに見えてしまう。
 嗚呼、これでは此方の目が毒されてしまう。生唾を飲み込んで乾いた喉をこじ開けた後、ネタばらしをした。上戸ほど酔うそのワインにニイナは興味を示して口の端で笑って「成る程」とラベルをまじまじと見ていた。やはり暑いのか髪を耳にかけるから、ピアスが二つ覗いていた。今日は赤か。頬の色と相まって、色っぽい。


「ここまで酔うのは初めてだ。よくわからない感覚だな。ふわふわしている、という曖昧に答える女の気持ちが分かるよ」
「それで?」
「ん?」
「いま、酔っているんだろう?」


 ニヤリと悪どい笑みで聞くと、ああそんなことかというようにラベルから俺へ視線を移した。熱に浮かされて蕩けた瞳が弧を描く。揺らぐ頭が覚束ないのかテーブルに肘をついて支える。口元は上機嫌のそれと同じように、だが秘め事を囁くかのようにその声は熱で掠れて、俺の脳を焦がす。


「……ああ、酔っているよ」


 鼓膜から、脳、そして脊髄を通って下半身へ。痺れるほどの熱に、此方が酩酊させられたような気持ちになる。
 怯んで椅子の上で身動いだ俺を逃さないように、机の上に置き去りにしていた手を捕らえられてしまう。最初は撫でるようにするも、やがてするりと指を絡め取られる。逃げるのか、と瞳が挑発する。


「酔った俺に興味があるから飲ませたんじゃないのか?」
「ッ、そりゃ、そうだが」
「ならもっと診察してくれよ、お医者サマ?」
「なんだ、そんなプレイがお望みかよ」
「お前が望むなら、仰せのままに」


 見せつけるように、取られた手にキスを落とす。押し付けられた唇は柔らかく、普段よりもしっとりと熱く感じてしまう。伏せられていた視線がまるで駄目押しとばかりに交差すると、熱が感染してしまったかのような感覚に陥る。


「お前をめちゃくちゃにしたいというこの欲望に、終止符を打ってくれるのを待っている」

 
 ああ、くそ。初めはただの興味だったというのに。あわよくばそのワインの名前の通り逆転をと望んでいた魂胆が絆されていくのを感じる。一杯開けただけのワイン、乾燥していくつまみのチーズ、栓をしたままの酒瓶。寝酒にもならないのに、これでおしまいだ。
 酔ったところで色気が増しただけの此奴に、俺は今、めちゃくちゃに抱かれたくて仕方がないんだよ。




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