小説 | ナノ
ああ、クソ。と、小さく悪態を吐く。それは胸中で霧散したが、かつてない危機的状況にローはそう思わなくてはいけなかった。
ハートの海賊団と名乗るようになった小さな子供を乗せた船は、二か月余りで嵐によって転覆した。それから能力者を弱める海水というものに抗えもせず、ローは意識を手放して漸く今し方取り戻した所だった。意識を浮上させるとともにまず確認したのは己の体調だった。海水は拭われたのかさしたる不調もない。それを確認した後に自分がひんやりとした固い床のような所に横になっているのを感じる。遠くから喧噪が聞こえ、嗅覚には饐えた臭いが届いた。潮の匂いはない。温度と湿度、反響する音からローは自分が地下にいることを悟った。近くに人の気配がないことを察して、薄っすらと目を開けた。
思った通り陽の光も届かない、地下のようだった。横たわっている隣の壁や床は均しただけの土であり、目隠しのように張られているのは経年劣化を感じる擦り切れたボロ布だ。端の方に置かれる微々たる生活用品はほぼ亀裂が入っている。パッと見てここがスラムだとわかった。だが、なぜ自分はスラムにいるのだろうか。身辺を確かめるも窃盗目的ではないと知る。まず窃盗なら気絶している間に殺されているだろう。己の白い掌を見る。病は完治したものの、皮膚の再生は新陳代謝頼みだ。少なく見積もって三年はかかるが、現在は快方に向かっている様子を伺えない。ここが海でないなら自分を助けた人間がいる。それはクルー以外では有り得ないと検討を付けた。
ローがそこまで思考を巡らせていると、不意に布の一部が持ち上がった。差し込む陽はほとんどなく、逆光にもならなかった。そこから身を滑らせて入ってきた少年はローが体を起こしているのを見て少しばかり驚いた後、薄っすらと微笑んだ。
「よかった、目が覚めたか」
「……ここは」
「見ての通り国家の底辺、スラムの一角だ。悪いな、あまり綺麗でなくて。寝心地悪かっただろう」
眉を下げて笑う少年から嫌味の類は感じられない。警戒心を露わにするローに向けて持っていたマグを差し出す。それからは湯気が立ち上り、薄い紅茶の色を反映していた。ローは口にすることはなく、両手で暖を取るように抱えた。幾分余計な力が抜けるのを感じる。少年は気を悪くした様子はなく、むしろこちらが知りたいと思っていたことをつらつらと話し出した。
嵐で船が転覆した後、ローたち三人と一匹はこの島の一角に流れ着いたらしい。少年が第一発見者で、他の者の助けを借りつつここまで運んだようだった。船は流石に壊れてしまったようだが、全員無事だったことはローにとって意外だった。目覚めて時間が経っていないことも相まるが、自分の身の安否のみを優先した。まだ船長と仲間というものに馴染めていないのだろう。もう二人と一匹は意識を取り戻して薪集めを手伝っているらしい。
少年の名はニイナと言った。ローよりいくらか年上で、少年というよりもうそろそろ青年に近い。ここのスラムのレジスタンスのリーダーだ、と告げたことにローの片眉が上がった。腐った国家にスラム、そこからレジスタンス運動をするのは何処の国でもあることだがこれは幸運だ。しかも拾ってくれたのが組織の頭だというなら尚更で、好感的なら言うことがない。利用価値は、豊富な方が良い。
「……そうだったのか、礼を言う」
「大したことじゃないさ。困っているならお互い様、だろ」
更にお人よしと来た。ローは内心ほくそ笑む。後はこの男をどう利用しようか。促すように組織について聞いていくと、近く反旗運動を起こすらしい。ベラベラと作戦内容や国家への恨みつらみを垂れ流す男にローは言葉少なくも相槌を打った。その内容は余りにも穴だらけで、聞いただけで敗戦するだろうと予測できた。だが、ローはそれをいい作戦だと褒めてやれば男は照れたように笑った。青年とまでは行かなくともそれに近い男が組織を纏め上げ、彼より年上の者ですら虫食いだらけの作戦に賛同する。やはり貧困と無教養は罪だな、とローは瞳を細めた。
「……ひとつだけ聞きたいんだが、」
そう前置きをして、言い辛そうに男は口を開いた。彷徨っていた視線は確とローを見据えて、交わった。
「君の仲間から名前を聞いた。トラファルガー、で合っているか?」
「……そうだ」
「ならその白い斑は珀鉛病で、フレバンス出身の……ドクター・トラファルガーの息子か」
疑問ではなく、確信めいた言葉だった。その瞬間ローの鼓動が一拍大きく脈打ち、振動を感じ取ったように握ったままの紅茶の水面に波紋が広がる。脳裏に思い描かれたのは迫害された日々と、恩人の姿だった。爪が陶器のマグに食い込みきれずに滑って不快な音が鳴る。珀鉛病のこと、故郷のことを口に出されるのはまだしも、父親の名前まで出されると思わずに動揺が綯い交ぜになる。忘れていたわけではない。故郷を脳裏に思い描くたびに付いてくるのはそこで過ごした日々と家族だった。埋もれてしまったそれを掘り起こした人間を、目の前の男を、ローは射殺さんとする勢いで睨みつけた。
「勘違いしないでくれ、俺は珀鉛病やフレバンスには理解がある」
「理解? 笑わせるな、あの地獄を半端な知識をもって語ることなど烏滸がましいだけだ」
「……あそこには友人がいたんだ。早くに症状が出てドクトルに世話になっていたそうだから、話は聞いている。中毒だから感染はしないのだろう」
「……」
「報道は規制されていたから仔細まではわからない。だから俺は彼の言葉を真実だと思っている。だが、ここのスラムの人間も全員が俺の言葉を呑むわけじゃない。外に出る時は外套を貸すよ」
「……同情か」
「ただの親切が不安なら理由をつけようか? はは、冗談だよ……紅茶、淹れなおして来よう。今は体を休めてくれ」
男は半ば無理やりマグを奪い、遮光にもならない薄い布の間を潜って去って行った。一人残されたローは床に伏した。冷たく固い床が熱を奪っていく。今し方抱えた激情さえも。自身の中で濾しきれないそれは煮詰まり、燻ぶっている。
あの時、男は嘘をついていなかった。演技なら大した役者だと思わせるほど、真実味を帯びていた。だからこそ、ローも男の言葉を信じるしかなかった。男の友人はもう死んだだろう。政府の手か、戦火か、病かによって。ローもオペオペの能力があったからこそ生き長らえることができたが、治療法もない人間は死に行くだけだ。治療の仮説をいくつか立てたことはあるが、どれも知識不足の節がある。ましてや国一番と誇っていた父親ですらわからなかったことを覆すなど、今のローにはできなかった。
目を閉じる前に見えた、布の間から心配そうに様子を伺う白熊に苦笑して、体を起こした。今にも泣きだしそうに歪んだ愛らしい顔を安心させるためにも。疲労はない。潜った布の先にあった白熊の抱擁の合間に香った紅茶の匂いはやはり、薄い。
「―――……俺にはお前を助ける理由と術がある」
静かな夜だった。吐いた息さえも消え失せるような。冷たい鉄格子の先で鎖に繋がれた男が座る石畳は自身の寝床よりも冷えるだろうか。
ローの意識が戻ってからひと月だった。その間に男たちは士気を高め戦に備えていた。ローは時折それから逸れて街中を歩いていた。貧富の差が激しい。王宮の搾取と作物の不良のせいだ。国民は殆ど不満を腹の中に抱えている。レジスタンスの存在は知らずに言われるがまま貢献している。仮にゲリラ戦が始まっても協力はしないだろう。ましてこちらの戦力が乏しい。だがこの国の王族は小心者なのか、忍び込んだ王宮で王族がゲリラを恐れて他国へ秘密裏に亡命していたことがわかった。帰還はゲリラ戦後の明朝らしい。内通者がいるのか城の配備まで厳重になっている。一縷の望みさえなく、敗戦は免れない。
そのローの読み通り、鎮圧はむしろ潔いほど呆気なかった。兵力差、戦力差、地の利など本職の兵士にかかれば一目瞭然だった。遠巻きに眺めていたロー達には被害はなかったものの、死者や負傷者いたようだった。そして、一人だけ囚われた者がいる。リーダーであるニイナだった。敗戦が濃厚と知ると多くを逃がして自分だけが捕まったらしい。ここは兵士の手際の悪さを嘆くべきか、ニイナが意外にも逃走経路を確保していたことを称えるべきか迷って、思ったより早く決着ついたなと仲間に告げただけだった。
スラムの中は失敗すると思っていた者や、敗戦を嘆く者、ニイナの安否を心配する者などに分かれていた。すすり泣く間を縫って主を失ったあばら家にロー達は戻り、電伝虫の受話器を取った。数コールの後、目を開いた生物は会話を始めた。あらかじめ城に潜り込ませていたペンギンの声は、ニイナが明朝に処刑されるため今は牢屋にいると手短に告げて瞼を下した。その場で射殺しなかったのか、と考えたが王族が戻り国民の前で首を刎ねた方が権力を誇張できる。猶予はまだあるらしい。一か月で情が移ったのか、ベポが不安を隠さない瞳でローの名前を呼んだ。それに背中を押されるようにローはスラムを後にし、暴動が止んだ不気味なほど静かな大通りを歩み、今に至る。
「俺は海賊で、能力者だ。お前の脱獄を手伝うことなんて容易い。だがここから一歩出てしまえばお前は脱獄者としてこの国に居られなくなるだろうな。スラムもいずれ犯罪者の巣窟として焼き討ちにされる」
「そん、な……」
まだ能力全てを使いこなせているわけでもなく、強く意識する分余計な体力を使ってしまう。だが、その能力を持ってすればローの前に障害物など無意味だった。あらかじめペンギンから牢屋の場所を聞いていたおかげですんなりと侵入することができた。鉄格子越しに立つローを見たニイナが声を出すより早く、ローは小さく言葉を紡ぐ。憲兵もいないそこでは廊下側の小窓から差す月明かりだけが暴動犯を見張っている。
生温い国家だ。
そんな国家が焼き打ちなんてするはずがない。まず貧困の差がありいくつスラムが出来ようと、スラムの数だけレジスタンス行為を働こうと、国家の外聞として駆除はしない。せめて救済と銘打って人身売買に流すだけだ。しかしそれさえも考えつかない此奴は簡単に信じ込む。ローは愉快で仕方がなかった。
「だからこそ取引をしよう。明朝王族が乗った船が着岸する予定だ。そいつらを人質にして国家転覆を図るためもう一度ゲリラ戦を引き起こす。俺の策で、だ。そしてそれに乗じて俺らは船を頂く。どうだ、お互いに不都合はないはずだ。俺らは船を手に入れて、お前らは念願の自由を手に入れる」
「……その策に、余程自信があるんだな」
「そうだ、下調べも疎かなお前らと違って俺は勤勉なんだ」
「ああ、医者の息子だもんな」
くつくつ、と喉を震わせてニイナが笑う。切れた口の端が傷むのか、少しだけ眉を寄せた。鎖と石の壁が擦れる耳障りな音が微かに残響として追ってくる。成立だ、と能力を展開するために手を上げた。それを見遣ったニイナが静止をかけるように小首を傾げた。
「じゃあ俺からもいいか」
「聞こう」
「海賊なら悪名が必要だろう?」
その一言で、ローは理解した。何気なく、それこそ悪戯を仄めかすような調子で告げられた言葉は、彼の一生を左右するほどの言葉だった。だというのに、ニイナはローの続きの言葉を待っている。まるで分っていると言わんとばかりの態度だ。差し出すものの大きさも、手に入れる称号も、己の人生も。ローの返答でさえ。
貧しく、教養もないと思っていたが、度胸だけはあるようだった。
「……いいのか。俺の下に付くんだぞ。今まで命令する立場にあったお前が年下の出会ったばかりの奴に遜るんだ。対価が不釣合いだ。屈辱を感じないのか」
「それでもいいと、言わせるなにかがローにはあるんだよ。こんな条件でも提示しなきゃ話も聞いてくれそうにないからな。それともなんだ、スラム街の英雄の名声じゃ不満か?」
「……いや、最高の船出になりそうなアクセントだ。それと、此処から出るのは俺の部下だけだ」
「サー、キャプテン・ロー」
それからは、小さなレジスタンスによるゲリラ戦ではなく、一方的で圧倒的な国家蹂躙だった。同じ戦力で、同じ兵力でここまで違うとは思わなかった。明朝に着岸した王族の船にいつの間にか海賊が乗り込み、王の眉間にナイフが突きつけられたのだ。あとはなし崩しに決した。レジスタンスは王宮に詰め寄せ、支配下に置いた。状況が優位になったと思ったのか国民も一致団結して王族を迫害し出したのも大きい。ローの見立てより少しばかり早く、たった数時間で国家は転覆したのだ。昨晩より被害が少なく、一人の犠牲者によって革命は成されたのだ。
これが、これから下ることになる男の采配かとニイナは身震いした。自分には到底及ばない思考と力を持った、一人の少年。かつての友人と同じ出身地であろうに、その姿はまるでヴァルハラまでの道程を彷徨う英雄を導く白い狼のように見えた。レジスタンスのリーダーとして、今回の革命の首謀者として周りがニイナを口々に称えているというのに、彼の目には船長の小さな背しか映っていなかった。
それがローとニイナの出会いであり、ハートの海賊団が凪いだ世の中に一匙の悪名を垂らした瞬間でもあった。
ああ、クソ。と、小さく悪態を吐く。革命はすぐに新聞に乗り海を渡った。王の首を持つニイナと海賊旗を持ったローが逆光で判断が付きにくいものの、肩を組んでいるような格好で映っていた。過激派のレジスタンスのリーダーと駆け出しの海賊が手を組んだ、と書いてあったがまだハートの名前が売れるのは先のことだった。
その国を後にしてひと月余り。大時化に見舞われ、折れないよう帆船を畳んでいたことだ。亡き故郷を共にした斑らの帽子が風に攫われて、海へ落ちた。能力者の自覚を漸く得られたという矢先で、海へ落ちるとどうなるかという弁えも出来た頃だというのに。風も強ければその分波も高く、足踏みをしているうちに沖へと流されていった。能力を使おうにもまだ上手く狙いが定まらず、チラチラと波間に見えていた白はやがて高波に飲まれていった。唇を噛み締めて怨めしそうに睨みつけた後に、口惜しくも立ち去ろうとすれば隣を何かが駆け抜けた。それは大きく水飛沫をあげて海へ飛び込み、いくらかその水分が素肌を濡らして不快さが苛立ちの加速燃料となる。
もう一度悪態を吐く手前、その飛び込んだものが高波に抗いながら泳ぎ始めたことに驚愕の感情が脳内を占めた。一人の男がまるで命を投げ出すように荒れ狂う海に飛び込んだのだ。その男が入団したばかりの自分のクルーだと理解すれば、引き返せと罵倒を繰り返すが波音で聞こえないのか振り返る様子もない。黒い波を被りながら、何かを探すように頭を振る。
ふと、視界の端で動くものがありそちらに目を遣ると一本のロープがあった。その片方は海に垂れ、もう片方はクルーの白熊が握っている。少しばかり困惑した白熊が拙く紡ぐ言い訳を聞くと、男がロープで命綱を繋ぎ飛び込んだと言う。馬鹿なことを、とまた振り返れば波間に白い斑らが見えた。それはまるで手を振っているようにも見える。急いでロープを引っ張り、やがて男が岸に手をつくとその襟首を掴んで引き上げた。幾度か咳き込んで荒い息を繰り返した後、男は笑顔で海水濡れの帽子を被せてきた。勿論、その頬を殴りつけて怒鳴り散らしたのは言うまでもない。帽子が地に落ちても、視線は男へと注がれた。帽子なら同じようなものくらいすぐ手に入る、命と天秤にかければ誰でもわかることだ。馬鹿なことをする男だと詰っても、それでもその男は笑って、こう言った。
「故郷から一緒の此奴は大切なものだろ。そんな大切なものに、代わりはないだろう」
曇りのないその笑顔の、先程とは反対側へと無意識にローは拳を叩きこんでいた。
ああ、クソ。と、小さく悪態を吐く。それは今しがた見ていた少年期よりも深刻さを増した言葉だった。
外は視界が烟るほど吹雪いている。クルーが熱を持った傷を抱えて呻く声が掻き消されていく程に。己の首の値が上がるほどに狩人は増えていき、手練れも多く存在する。今回の襲撃はまさに九死に一生を得たものの、ハートの海賊団始まって以来の大敗だった。幸い死者はいないが、重軽傷者は多い。吹雪で逸れたニイナが戻ってきて機転を利かせて逃走しなければそこで終いだっただろう。相手は暗殺者集団で、土地の利を活かした戦法だった。見事なまでの惨敗に、珍しくも語気を強めた呪詛を垂れ流すも天候はますます荒れ行くばかりだ。そして、ニイナがいなくなってから三日が経つ。
「……キャプテン、握り飯だけでも食べませんか」
「……いらねェ」
総員が自船へと命からがら逃げ込み、治療を始める最中でニイナがいないことに気付いた。周囲の警戒をしているのだろうと放っておいたが、一日経って吹雪が酷くなっても戻って来ず、立場を押して自ら捜索すれど姿はなかった。苛立ちが募るばかりだ。眠りが浅くなってあんな、過去の夢なんかを見る。腹の底を揺さぶるような、肺が騒めくような。そんな落ち着かない気持ちを整理することが出来ずに、何も考えず体を動かす方が楽だった。その紛らわせ方しかわからなかった。
「今日も、ニイナを探すんですか」
「……うるせェ」
「吹雪が酷いです。本日はやめた方がいいかと、」
「黙れ!!」
寝起きのタイミングを計ったように軽食を乗せたトレーを持ってきたペンギンに感情のまま怒鳴り散らすのも暫くはなかったはずなのに。夢に引き摺られているからなのか、どうしても幼き日の自分と重なる。理性が効かない。あの男一人いなくなっただけで、こんなにも。ざわり、ざわり、と腹の底があやせと強請る。末端からの血液が脳に集まりどうしたらいいのかの考えさえまともに纏められない。らしくもない自分が滑稽で、惨めだ。
ソファにかけたままのロングコートを羽織り、刀を手にすれば副官は黙って道を開けた。止めることが出来ないのか、それとも無駄だと分かっているのか。仮眠もそこそこに疲労も取れていないだろう。それでも矜持をズタボロに引き裂かれた船長は大股で荒れ狂う雪の中に姿を消した。風で乱れる髪を守る帽子は、そこにない。
最初はただチラホラ雪が舞うだけだった。それがいつのまにか吹雪き始め、それを隠れ蓑に暗殺者集団に襲われた。ロー自身もいくつか大事ない怪我をした。結果論としてここのところ大きな戦闘がなくて油断していたのだろう。ニイナが救援に来なければ、そう思うと自分の力の無さと緩みに歯噛みをする。戦闘があった場所は血液さえ雪に隠れてしまった。近場に足跡も、ずっと共にしてきた帽子も、探している男の影さえなかった。もう少し先に行けば家屋が連なる小さな村がある。今は吹雪だから皆中で暖をとっているだろう。そこでサークルを広げて探るか、と考えて歩みを進める。体の外側は冷めた陶器のようだというのに、腹奥ではマグマのように言いようのない熱くてどろりとした物が脈打つ。吐き出す息がそれを表すかのように蒸気を上げた。頬に打ち付ける雪が溶けて、ガーゼ下の傷に触れて沁みる。
ニイナは強くなった。航海を得て他の仲間と同様に。それでも飛び抜けて腕っ節があるわけでも、飛び抜けて策士というわけでもない。だが、入団直後に身を投げ打つような行為を目の当たりにしてから、ローの心中に不可解な蟠りを残した。いや、もしかしたらその種子は月明かりが照らす冷たい牢屋で彼の手を取った瞬間に植え付けられたかもしれない。彼を観察していれば自殺願望も、船長に命を差し出すほど心酔しているわけではない。戦闘時にローを庇うことも必要以上にない。ならば、何故。どうしてあの時は身を呈してまでただの帽子一つのために荒れ狂う海にその身を投じたのか。どうして、今回は帰ってこないのか。
大敗したことも、ニイナに助けられたことも、ローにとっては気に食わなかった。ローは、船長だ。上に立つべき人間がただ一人の部下に助けられるなど。いや自分だけならまだしも、守らなければいけない他の部下さえ救ってみせた。その事が、そんなちっぽけな事由がローの矜持を何よりも傷つけた。仕方ないことだったし、それが最善であり正解だったと理解してもなおローの腹の虫は収まらない。部下を救うのは上の責任だと、元からの性格なのか幼少期に培った拗れたカリスマ性のせいなのか不明だが、少なくともローはそう思っていた。
困っているならお互い様、だろ。そう言ったニイナの顔が、思い出せない。
「……、……?」
耳には吹き荒れる風の音、頬には豪雪の感覚。目には暗くなり始めた雪景色と真横に降るような白いモザイク。その向こう、暗い灰色がかった景色の向こう。黒い、影。見慣れた背格好。名前を呟く。息すらままならない吹雪の中、風に煽られるように影が揺れて、歩いてくる。こちらに向かってくる。不規則に、庇うように揺れる背格好。名前を、叫んだ。
「ッ、ニイナ!!」
嗚呼、足首に纏わりつく雪が煩わしい。駆け出したローに合わせるようにニイナの体がぐらりと傾いた。それを掬い上げるように抱き止めると、確かにニイナが笑った。
「あは、ははは、ろー、だ……」
「な、に言ってん……!」
罵倒の一つでも吐いてやろうとした言葉は雪に消された。ニイナの拙い言葉と自身の呼称、荒い息遣いと酷い顔、ジーンズ越しに掛かる生温かい血の匂い。目を見開くローにまたニイナは笑った。目の焦点が少し合っていない。左手で抑える腹には大きな穴が穿たれていた。
「ごめ ん、ちょっと……」
「やられたのか」
「ほ かは、返り血…… ふへへ、」
だらしなく笑う此奴の脈は早い。瞳孔が開いて、脂汗が伝う。こんな大きな傷で、通ってきた道は血痕が雪に消えずに残っている。
在りし日の記憶が、ざわり、ざわり、と脳の裏側で焦燥を煽り立てる。
「ニイナ、お前……」
「あー……だいじょぶ、」
「大丈夫じゃねェだろ!」
「麻酔、つかった、……あとヤクで かんかく、鈍らせてたけど……切れてきた」
「無茶苦茶な……」
「ジアチルヒルモネはちみりぃ……」
「致死量ギリギリじゃねェか」
傷口を覆う掌を避けて観察すると、臓器は綺麗に残っていた。失血による体温の低下も著しく、ここまで意識を保っているのは違法な薬物のおかげだろう。呂律もしっかりしてきたがまだ意識を失うのは早い。
「おら、立て」
「いってぇな、鬼畜船長……」
「それだけ元気なら大したもんだ。術中も麻酔なしでいいな」
「それは、勘弁して……ああ、それと、」
怠そうに右手を上げたニイナが柔らかい何かをローの頭に乗せる。白地も斑らも血で汚れて判別付かなくなった、持ち主の頭に収まるべき帽子だった。
「いやー、船長の帽子なかった から、探したらあいつら持っていったみたいで……」
「……こんなものを取り返しにギャング一つ潰してきたのか」
こんな傷を負ってまで。言葉にしなかったそれもニイナは聞こえたのだろう。痛みに歪んだ顔が無理やり口角を上げて下手くそに笑う。
「でも、大切なものに代わりないだろ?」
ローは力なく雪に沈んだ腕を見ていた。
同じ言葉を過去に掛けられた時、ローはニイナの腕を振り払い、頬を殴りつけ、怒鳴り散らした。そこにはまだ仲間になって間もないとは言え、確かに仲間としてニイナを思う気持ちもあったし、それは今でも変わらない。そう思う気持ちがあったからこそ、無謀なことをしたニイナを叱咤したのだ。部下を救うのは上の責任だと、少なくともローはそう思っていた。だから、その関係を崩さないで欲しい。命令したわけでもなく、船長の与り知らぬところで重傷を負うことは責められることだというのに。「ローの大切なもの」というだけでニイナは簡単に、それこそ朝刊を取ってくるような気軽さで死地へと赴く。
安安とローの絶望を掬い上げたニイナは、屈託無く笑う。だからこそ思い出した。ニイナに助けられた時も、ニイナを助けた時も、笑っていた。「船長」という肩書に埋もれていた記憶は鮮烈で、ただローの身を案じるニイナが染み込んでいた。それほどまで、彼の中でその存在は大きくなっていた。
大切なものに代わりはないのなら、お前はどうなんだと問い詰めたい。
「───……馬鹿野郎、」
その柔らかな罵倒が、まるでニイナのした行為を褒めるものだと思ったのか。それとも帰ってきたことを受け入れるための言葉だと思ったのか。戻ってきた帽子の鍔を下げて呟いたローに、ついにニイナは声を上げて笑った。傷に響いたのか呻き声も合わせて。その腕を掴んで己の肩に回して立ち上がる。あと数歩進めば能力の範囲内だ。
ローは雪さえ焦がす熱く込み上げる感情を飲み下した。そうしなければ自然と口から、瞳から零れ落ちただろう。この男の「船長」として在るのなら、呑み込むのが相応しいと思ったからだ。だがその感情は彼の功績を讃えるための賛美であってはいけないというのに、思わずにはいられなかった。革命を成した朝、彼を担ぎ上げたレジスタンスの気持ちがローにも芽生えたような錯覚を得る。
血塗れで重傷患者である、ただ一人のための英雄の帰還だった。