小説 | ナノ
「ニイナって、トラファルガーのこと好きだよな」
食べかけの中華まんから、具材が少し零れ落ちた。アスファルトに転がるそれを勿体ないと騒ぐキッドを見てから一拍、我に返った。
「あ、あぁ、そりゃな。幼馴染だし」
「そうじゃねェって。恋愛的な意味で、だ」
恋情。劣情。情欲。色欲。愛情。
様々な言葉が俺の頭を埋め尽くす。この一瞬の隙間が何を馬鹿なことを、と笑い飛ばす余裕を奪っていった。今更笑ったところで俺が惨めになるだけだ。つまるところ、変なところで勘がいいキッドに誤魔化しはきかないのだ。
「……俺って、そんなにわかりやすい?」
「俺はカマかけただけだ」
「ひどい……弄ばれた……」
季節が一巡してローは転校生から同級生へとなった。相変わらずな俺たちはまた一緒のクラスの同じ席順で残りの高校生を楽しんでいた。その中で何度キッドの失恋を見ただろう。彼は大して気にしている様子もないので本気ではないらしい。いつだったか聞いた本命は別の場所で暮らしているという。それ以上は聞かなかった。
委員会が一緒の俺たちはミーティングがあったため、何もないローを先に帰らせた。遅くなった帰路で買い食いをしている最中に、別れる時のローの顔を思い出している時の不意打ちだった。冗談を言いつつ彼の腹のなかを探る。ピザまんを頬張る横顔は策略も何もない、友人のままだった。
「わかってると思うけど、ローには……」
「当たり前だろ。俺から言ったって意味がねェ」
「……軽蔑した?」
「あぁ? なんでだよ」
呪いの鎖は今だ心の臓を締め付ける。普段は心地良い気持ちにさせるのに、どうしてこういう時は他人と違うことをまざまざと見せつける。そこに甘ったるい余韻はなく、時間を重ねる毎に罪悪感と優越感だけが募る一方だった。
「お前がトラファルガー好きだからって、ダチ止める理由になるのか? お前は昨日までのニイナじゃなくなんのか?」
本当に不思議に思っている声だった。呆気にとられた顔を向けると、馬鹿言ってるなと乱雑に髪を混ぜられた。その下で安堵の一息が溢れたのを彼は知らないだろう。
俺の中で渦巻くかの呪いは祝福されるべきものではないと思っている。真っ白な汚れのないローが唯一身を寄せる騎士としてあるべき俺が、その純白を下心ありきで舐っているなどと知れたら。ローに告白する女達と同じ目線にいると知れたら。きっと彼は。その手を、視線を。その身を全て、白い棺に横たえて葬ってしまうだろう。
「……あ、スーパー寄っていい?」
「おう」
その絶望が俺と彼を殺す時、待ち受ける世界は粉々に壊れてくれるだろうか。キッドのその言葉でさえ俺を救済する術はなく、ただ後ろめたい欲を認めてくれたような安心感だけを齎した。もしかしたら、それは認めた訳ではなく躱されただけかもしれない。二年と少しキッドと付き合ってきても深いところまで分かったつもりになれないのは、俺の卑屈さだった。
気を変えるように目に入ったスーパーへ足を運ぶとキッドもそれに並んだ。帰ってもいいのに、彼は優しい。カゴまで持ってくれた。
「おっ、鰹安い」
「……ん?」
「今日はカレーの残りあるから、明日は大蒜醤油で焼くか。いや、揚げもタタキも捨てがたい」
「……んん?」
「やっぱししゃもとかより切り身の方が好みだからな。内臓の苦いのが苦手とか可愛いところもあるんだよなぁ」
「……んんん?」
合いの手を入れるにしては疑問形だらけのキッドの声に、俺は眉根を寄せてその巨体を見上げた。家庭じみたとでも言いたいのか。
「なんだよ。言いたいことがあれば言えばいいだろ」
「……お前、好きな食いモンなんだっけ」
「はー? それくらい知ってるだろ。一年の時の誕生日に焼肉奢ってくれたじゃん」
「だよな。お前、いつの間に魚派になったんだ」
「だってそれはローが好きだからで……」
そこまで言って気付いた。音質の悪い店内放送と魚の生臭さが鮮明に感じられる。それが深くまで染み込む度に、俺の体温は引いていった。
そうだった。俺が好きなのは肉で、ローが好きなのは魚だ。内臓と頭は苦手で、骨を外すのが面倒だから切り身を好むがちゃんと骨付きでも綺麗に食べる。生や煮たりするより焼き魚が好きだし、何より旬の魚が好きだ。それを炊きたてのご飯と食べるのが一番好きで、幸せそうに頬張る姿を見るのが俺の幸福だ。そこまでローの好みを知っているのに、俺の食べたいものはと聞かれても直ぐには出てこない。これ美味しそうだからローと食べたい、といつも思ってしまっている。
引いたはずの体温が冷や汗とともにドッと振り返す。鼓膜が脈打っているようで、熱い顔で足元を見れば情けない声だけが出た。
「……ローには、言わないでくれ……」
「ニイナ、自分が思ってる以上にトラファルガーに惚れてるんじゃ」
「俺にも言わないでくれ!」
「……ただいま」
「おかえり」
この一年で鼓膜に引っかかっていた幼い少年の声は、青年に近い低い声へとすり替わり馴染んでいた。鼻腔を擽るのは感じさえしない自分の部屋の匂いと、三日目のカレーを温める匂い、それと恋煩いをしている男の僅かな匂いだった。
この部屋でローは何でもないように過ごす。ローの私物が日毎に増えて、服も共有する。服屋で試着することも買った服をそのまま着ることも拒否するくせに、俺が羽織っていたパーカーを寒いからという理由で追い剥ぎされたこともある。汚いという言葉も素振りも見えない。無理しているようにも見えない。俺だけが知るローの体温を誰とも共有していないのは一つの優越感だった。
「帰りにキッドとスーパー寄ってきた。鰹安かったから買ってきたけど、どうする?」
「……色いいな。これならタタキでもいい。漬け丼も悪くねェな」
「珍しいね」
「目利きがいいやつがいるモンでな」
言外に明日の夕飯に誘うと、ローは微笑んだ。誘いを断られたことはない。今では月に一度、荷物を取りに帰る程度だ。薄い唇がうっすらと弧を描くと呪いが鎌首を持ち上げる。それを嗜めるように下を向くと見慣れた服を着ているローの細い腕が目に入った。
「……あ、俺の部屋着!」
「さっきカレーが飛んだから洗ってる。そこに俺の着替えあるから着ていいぞ」
「それ着なよ……」
「ニイナの方が近かったんだよ」
そういう線引きが、俺を惑わせる。服を掴んで自室に入ると、ドアに背を預けて力なくしゃがみ込んだ。安心しきったように、ここは揺籠だと言わんばかりに破顔する幼馴染に俺は惚れている。キスしたいし、それ以上のこともしたい。白を汚したい。だが、その白に照らされた自分の恥ずべき感情が皮肉にも理性となる。頭から被ったパーカーの中はその意志さえもぐらつかせた。
「―――……ご馳走さま」
「ああ」
軽く濯いだ食器を機械の中に押し込んでスイッチを押す。最近ローが買ったものだ。俺の部屋に増えていく物は家賃だと笑ったローが買ってくる。言わないでおいているが、通帳に理事長から振り込まれた巨額の「世話代」があるからいいのに。
ローの隣に、ソファに沈む。食後にと淹れた珈琲は最近のローのお気に入りだ。俺も気に入っている。微睡みと仮初めの幸福感に目の前のテレビを付けると、ドラマの再放送だった。待ってしかもラブシーンの真っ只中じゃん。ローが嫌がるものだ、と慌ててチャンネルを変えようとしてリモコンが滑り落ちる。衝撃音はカーペットに鈍く吸収されて転がった。それをローがゆっくりと拾う。
「……なんだよ、餓鬼じゃあるまいし」
「ちげーよ、水で滑ったんだよ!」
「汗の間違いじゃねェのか」
ばか、と言わんばかりに動揺する頭をリモコンで小突かれた。それを受け取ろうと手を差し出してもその手に無機質な感覚は降りてこない。それで半分隠されたローの顔色は伺えなかった。
「…………なあ、ニイナは……一人ですんの」
「ん?」
「だから、オナニーすんのかって聞いてんだ」
「……はい?」
思わず聞き返した言葉に今度こそ眉間にリモコンを刺された。痛みを伴うそれと同時に肩を押されて思わずソファに倒れこんだ。室内灯が眩しい。ローの言葉と共に目眩を運んだせいで彼の表情は未だ分からないままだ。
「ロー……自分が何を言っているかわかるのか?」
「わかってる。生理的な欲求くらい、俺にもある」
「そう……なの。でも、それはローが嫌悪するものじゃ、」
「確かに性的なものは汚いものだと思う。AVを見ると吐き気がするが、欲には抗えない。夢精よりも手淫したほうが気持ちいいに決まっている。一応向こうでは医者を目指していたから医学的な知識はある。オカズなんてなくても若いんだから慰めるだけで充分だ。そう、思ってた」
キャパオーバーぎりぎりの脳内でローの言葉を処理する。彼の言葉から金輪際聞くことがないと思っていた羅列に頭が破裂しそうだ。一先ず、彼も精神はともかく肉体は健全な男子高生と変わらないことに安堵する。それよりも、ほぼ毎日俺といるのだからいつ抜いているのだろう。家に帰った時だろうか。それならもう少し一緒にいる時間を減らした方がいいかもしれない。それがローの一人の時間のためだし、リハビリにもなる。いつかは一緒にいれなくなるその日のための訓練だ、と思えば呪いの鎖は俺の柔らかい所を突き刺した。
「最近、変なんだ」
光に目が慣れて、逆光を背負うローの輪郭を朧に見る。情けなく垂れた眉を苦しそうに寄せる。この距離で見逃すはずもない赤面と、蕩けそうなウルフアイに俺の混乱はますます加速した。
そうだ、純白の象徴であるローがこんな顔をするわけがない。どれだけ俺が汚すまいと努力してきたと思う。
だから頼むから、そんな欲情しきった顔をしないでくれ。
「前よりも、頻度が増えた。それくらいなら思春期の生理的欲求だと片付けるが、その時にどうしてもチラついて離れない顔がある。……お前だよ、ニイナ」
ひぐ、と情けなく空気が詰まって喉が鳴った。圧縮された空気は心を膨らませ呪いが食い込む。苦しくて痛いのに、心臓が破裂しそうなほど脈打つのに、どうして俺はローを跳ね除けられない。聞いたこともないローの声に名前を呼ばれて魂を抜かれてしまったようだ。
「日に日にその欲望は膨らんでいくんだ。今日見たお前の顔を思い出して、に満足できなくなって……やがてお前に犯される妄想までした」
「、ろ……たのむから、まって……」
「それで昨日、堪らなくなってお前の名前を呼んだんだ。そうしたら、今までにない快感に、俺は震えた」
昨夜の快楽を思い出したのかローの体が小さく打ち震える。甘さを含んだ吐息が俺を撫で、平素より高い体温が俺を煽る。
これは俺の妄想なんだ。現実のローは俺の幼馴染で男でドの付く潔癖症で俺にだけ甘えたの……無意識ビッチなわけない。覚めろ夢。早く。俺の理性がいるうちに。
これ以上は、いけない。
「頼む、おかしいと笑ってくれて構わない。気持ち悪いと罵ってくれ。俺も自分の頭がおかしくなったと思う。ああ、でも最後にひとつだけ教えて欲しいんだ。お前の手で触られることが、どんなに気持ち良いのか」
これ以上はダメなんだ。
ローの熱い吐息が唇に触れるように近い。零れ落ちそうな瞳の表面の水分がいかに彼が熱に熟れているのかを証明している。強請るような、哀願するような、強い欲に濡れた声は吐息混じりに疎く紡いだ。
「なあ、嫌わないでくれよ、ニイナ。こんな俺は、……悪い子なのか?」
太ももに当たる固いそれが移動して、同じ場所に重なり合えばもう止められない。掴んだ腕の体温を認識してしまえば後戻りが出来ないと警告が鳴る。そんなもの必要あるか。逆転した体勢の下、待ちわびたように腕を伸ばして早く食らって欲しいと懇願するその顔を前に、そんなもの、必要あるか。