小説 | ナノ


天邪鬼のフェリチタ後、PH入り前のお話



「……くそッ!」


 滅多にない悪態をついてニイナは駆けた。大通りは最低限に、この数日で叩き込んだ路地裏の地図を思い浮かべて走る。これだけ撒こうと走っても後ろからの制止の声は止まない。
 どうしてこうなったのか。ニイナは目の前に立ち塞がった海軍の米神に拳を叩きつけながら考える。そうだ、あれは小一時間ほど前の話だ。


「―――……いま、何処にいる」


 物陰に潜みつつ、手中にある小さな電伝虫に声をかける。壁の背後数ヤード先にいる海軍の目視の見張りと盗聴電伝虫に繋いだコードを耳につけて動向と主導権はこちらが握っている。
 平和ボケした島だった。気候も悪くなく、水や食べ物も新鮮で観光客も少なくない。唯一の不満といえば、海軍が多くいることだった。普段ならさしたる問題もないと思うところだが、次の島に行くルートが限られているためここで見つかるわけにもいかないのだ。


『……二番通りだな。医学書だけ買わせろ』
「こちらは総員乗り込み出航準備も出来ている。今の時間なら海軍の警備も少ない。お前は目立つんだから早く来い」
『どうせこの島には尉官以下しかいねェ。見つかった所でどうとでもねぇよ』
「刀置いてきたくせに、よく言う」
『ついでにテメェの煙草も買ってきてやるよ。ないって言ってたろ』
「それは有難いが、あまり下手に見ると首を噛まれるぞ」
『……ふっ、ご忠告痛み入るな』


 彼が笑う様子に合わせて手の中の電伝虫も震える。それにニイナも口角を上げた。
 彼の言う通り初日からの調べで海軍の警備が固いことは知っていた。唯一警備が脆弱な所に停泊後私服姿で島内を散策し、最低限の荷物だけを確保した。尉官以下しかいないと言えども救援を呼ばれたり、次の島へ連絡を入れられて包囲されるのも厄介だ。ホテルに泊まることも叶わず、船員の不満度は高い。早く出航したいから船長の首根っこを掴んで来い、と苦労人のクルーから放り出されたのも記憶に新しい。だが、こうして本を一冊買うくらいの時間を作ってやるあたり彼の人選ミスだと思う。


『もし危なくなったら助けてくれるんだろ、ダーリン?』


 笑みを深めた電伝虫に簡単にその顔を想像できる。脳裏に描いたそれと相違ないか確かめたくなる衝動をそのままに、そっと声を近づけた。


「……なら、早く会いに来いよ、ロー」


 指を擦り合わせて金属質な指環を感じる。今だ馴染まないというのに、異物感を捉えるたびに愛おしくなる。その時思い描く相手の顔は様々なれど、ニイナの心奥をあたためるのだ。吐いた言葉は自身の鼓膜を震わせて、浸透する。返ってくるまでもない。その声はお互いが望んでいることなのだから。


「……もしかして、裏路地の薬屋か?」


 突如正面から掛けられた言葉に、己の失態を悟った。甘い泥濘に沈んでいた意識を引き上げればそれが油断だったと知る。視線だけで前を向けば、一人の海兵がいる。恐らく後方の仲間達へと歩み寄った際にニイナに気付いたのだろう。前方からお互いに見えるはずなのに、気付かなかった。相手はニイナの返答待ちなのか呆けた顔をしている。コンマの命取りが平和慣れした海兵に救われたなんて。


「……人違いだ」
「待ってください!今小官の妻が危篤で、どの薬も効かないのです! どうか御慈悲とお知恵を拝借賜りたい!」
「人違いだと言っている」


 どうやらニイナがハートの海賊団の一員だと知らないようだ。これ幸いと振り払うように早足で奥へと進むと、後ろから多人数の声がする。声を掛けてきた海兵につられたのだろう。確かにこの島では薬の流通が滞っていると聞いた。質の良い薬草が揃えることが出来ず、ニイナとしても早く離脱をしたいものなのだがこんな状況になっては。海兵としては聞き齧っただけの噂に何としてでも縋ろうとしている。それを振り解くのも慣れたもので、危篤で知らない女が死のうとニイナにとってはさしたる問題でもなかった。非情なほど海賊業が身についたな、と苦笑する程に。
 先程よりも多くの海兵がニイナを追い、盗聴中のイヤホンからは応援を呼ぶノイズが絶えずに鳴る。尉官以下は無能しかいないのだろうか。ニイナはもう薬屋をやめたと知らないあたりに古く固まったチーズでも頭に詰めているのだろうか。それとも佐官に上れない理由を露呈したいだけなのだろうか。
 流石に戦闘要員ではないニイナは人海戦術の前では息が上がる。曲がった先で廃材を崩して足止めしようとも次の曲がり角を封鎖される。攻撃する意思はなく、ただ捕獲を目的とするため武器は構えていない。伸ばされた腕を捕まえて他の海兵に投げつければ隙ができる。その隙間に身を滑らせたり、相手の肩に手をついて宙を舞うように飛び避けようとも撒いた人数以上がニイナを包囲しようと立ち塞がる。いい加減息も上がってきた。内心吐いたはずの悪態が口から漏れるのも仕方がない。
 さて、周囲への警戒を怠っていた事への恥を、通話先の相手にどう償うか。自分よりも相手の方が心配だったが、忠告しておいて自分が追われる立場なぞ格好がつかない。恋人よりも船長としての立場を推されてしまったらニイナの失態は大きく響くだろう。行き止まりの壁を越えるために、薄汚いゴミ箱を踏み台にして反対側の壁を蹴って越えれば大通りに出た。今のところからこの大通りに出る為には限られた路地しかない。撒けたか、と思えば違う隊列の海軍がニイナ追う。声を掛けてきたのがこの島では一番偉い海兵なのかもしれない。イヤホンから漏れる声は先程聞いたばかりの声が指示をしている。無駄に人手だけはいるな、とまた舌打ちをこぼした。
 駆け出したニイナがどの路地に入るか走りながら吟味する。この島の建物は凹凸が少なく、屋根を伝う事は困難だった。代わりに路地が多く存在し、入り組んでいる所が多い。その一つの路地から見慣れた指輪をした物騒な刺青入りの指が二本覗いていた。口角を上げる。その指示に従って駆け抜け、二つ先の路地を曲がった。追うようにサークルがニイナを覆う。


「薬屋殿、お待ちくださ―――っ、!?」
「なっ……き、消えた……!?」
「そんな馬鹿なことあるか!」
「通りを曲がったか過ぎたかだ! 探せっ!」


 遠くから、イヤホンから。海軍が散開する声が響く。それよりも煩いのは自分の荒い息だった。ひどく喉が乾く。上下をする肩から伸びた両腕は壁に付き、その間に一人の男を閉じ込めていた。その男は愉快そうに空気を震わせた。


「……随分熱烈なアプローチを受けているんだな。嫉妬しちまうぜ」
「助かったよ、ハニー」


 ガサリ、と紙袋が動く音がする。ニイナが走り回っている間に目的は済ませたのだろう。ニイナと同じ所に、同じデザインの指輪を付けた掌が汗ばんだ前髪を掻き分ける。その手が頸へと回って引き寄せられれば、唇へと吸い寄せられた。温度差を感じる一つのリップ音が静かに響く。


「お前がヘマをするなんて珍しいな。薬屋としかバレてないか?」
「ああ。だが、出航は控えた方が良さそうだ」
「そうだな。とりあえず身を隠す。二つ先にホテルがある」
「……俺に行ってこいと」
「賞金首がのこのこ行くわけにはいかねェだろ。これ貸せ」


 今日のローは露出を控えて、いつもの帽子を脱いでいる。一見痩躯の男だと思われるが、海軍の目を長時間欺くには変装にもならないほどだ。ニイナは仕方ないと帽子とジャケットを脱いだ。





 そこまで敷居が高くないホテルだが、中は小綺麗にしてある。安いモーテルに泊まるよりはまだいいかもしれない。コツコツと革靴が床を叩く音が響き、ロビーにいる人間の羨望の眼差しを集めながら真っ直ぐにフロントを目指す。そこに座る受付嬢が自分を目指しているのだと知ると表情が明るくなり血色も良くなる。


「い、いらっしゃいませ……」
「Hi、部屋を一室借りたいんだが、もしかしたら友人も泊まるかもしれないので二人分前置きしておく。ああ、できれば友人が通るかもしれないから大通りが見える角部屋がいい。そうだ、海が見える方角の通りだ。……え、彼女? ……ふふ、君はどう思う?」


 普段目元が翳る帽子がなく、ジャケットのないラフな格好が親しみを持たせるのだろう。惚けたようにニイナの顔を見つめながら言われた通り鍵を渡す。その鍵に指を這わせ手中に収めたら、後ろ手に回して腰元で弄る。鍵についた部屋ナンバーがゆらゆらと揺れる。それを遠くから鋭い視線が射抜いた。誰もそこに座って新聞を読む男のジャケットが、今し方受付嬢と会話をしている男のベストと同じ生地だと気付かない。
 適当な所で区切りをつけたのだろう。ニイナが手を振って歩き出した。安い絨毯が敷かれた階段に差し掛かる時に視界の端でローも動いた。新聞を小脇に抱えてロビーを抜け、通りを右折した。そうして、一人上りながら笑みを深めたニイナは等間隔に並べられた花瓶から花弁を一枚摘む。イヤホンからは殆ど通常業務の連絡しか行き交わない。捜索は諦めたのだろう。平和ボケにも程がある。見逃してもらって有り難いのだが。
 鍵とドアノブを回して室内に入る。確かにここなら大通りも港もよく見える。当たりの部屋だ、と口角を上げた唇を寄せた花弁を窓際に零してからカーテンを勢いよく閉める。忍び込む薄青の被膜を尻目に電伝虫を船長保護の役割を遣わした船員へ繋いだ。


「……やぁ、俺だ」
『……定時連絡は過ぎているぞ』
「すまない、ペンギン。朗報と悲報がある。ローは捕獲した」
「おい、俺は犬猫じゃねェぞ」


 花弁から生まれ変わったローがニイナの引いたカーテンの反対を閉める。ジャケットを脱いで丁寧にハンガーに掛けるところを見せられれば、不機嫌そうな声と顔のギャップをニイナが鼻で笑った。


『……で、悲報とは』
「トラブルだ。海軍に見つかった。幸いにも俺が海賊になったと知らないらしい。薬を恵めとねだられただけだ」
『いいのか悪いのか分からないな。それで、どうする』


 呆れたような溜息が聞こえて、ニイナは掌をローに向けた。ベッドに座ったローは医学書を開きつつ、小さなカタツムリに顔を向けた。


「……明朝まで潜水しろ。明け方に俺の能力で乗り込むからベッドの上に石でも置いておけ」
『アイアイ、キャプテン』
「俺はこの馬鹿にみっちり仕置きしておく」
「優しくしてくれよ」


 吐息に混ぜた色を惜しみもせず声に乗せると、乱暴な音を立てて電伝虫が切られた。通話が終わる無機質な音に耐えきれずにニイナが吹き出すとローもカーテンの向こうの海中にいる部下と同じ溜息をついた。誰のせいで此処にいると思っているのだろうか。
 開いたばかりの本を閉じてランプ下のサイドテーブルに放る。そうして安い洗剤の匂いがするシーツの海にローは溺れた。


「さて、明朝まで暇なわけだが」
「そうだな」
「どう責任とってくれんだ、薬屋?」


 羽毛しか詰まっていない枕に肘をつけば簡単に潰れた。これでは掛け布団と大差ない。だが、腰の下に敷くなら悪くないだろう。挑発的にローが誘えば絡まった視線を手繰るようにニイナもローのテリトリーに乗り込んだ。
 ああ、シャワーは浴びなくていい。良く揮発する首筋のフレングランスに興奮するからな。







「―――――……こら、さん……」


 拙く呼ぶ声にうっすらと目を開けた。
 満月が司る静かな夜だった。自分の呟きで目覚めてしまうほどに。柔らかさで形を失った枕に埋めていた顔を、息苦しさを感じて身動ぐ。次いで呼吸の隙間に入り込んだのは、あの人のにおいだった。真っ暗な部屋の中で踊る紫煙の向こう、窓の縁に座る半裸の男を見間違う。
 なぜ、いまさら。あの人の名前を呼んで背格好すら違う恋人を見間違ってしまうのか。それは呼吸する自分の鼓動の音すら聞こえない静寂が支配する夜と、記憶違いでなければあの人と同じ銘柄の煙草を吸うニイナのせいだった。あの人よりも近くにある背丈と、月光に照らされた精巧な顔付き。ひゅるりと隙間程の猶予から入り込み夜風に撫でられる傷のない肌と、この前仕立てたキートンのプレスの流線美。愁うような伏せた瞳と、赤く染まる元凶の先端。深くまで吸い込んだそれが静かな溜息となって吐き出された。その音を聞いて漸くローの世界にニイナが染み込んでくる。彼のシャツを羽織った気怠い上半身を起こして見れば、もう一口を強請る唇から手首を切り返し膝に置いたニイナが瞬きを零してこちらを向いた。


「起こしてしまったか、すまない。寒いか?」
「……いや、」


 少しだけ掠れた声につい時計を見てしまう。落ち着いてこのシーツの毛羽立った荒さを堪能できるようになった頃よりも一刻程しか進んでいない。あれ程燃え上がっていた劣情も滑り込んだ夜風に冷やされたように燻る火種だけがローの腹の奥底で囁くのだ。


「……それ、」
「ああ、これか」


 つい、と軽く掲げられた指の間で紫煙が不規則に揺れた。確か煙草は切らしていたはずだ。だがニイナは追ってきた海軍から頂戴した、と悪戯そうに笑む。奪ったの間違いではないだろうか。


「お味は如何だ?」
「味? 味も何もないだろう、こんな量産品」
「安い量産品は舌の肥えたニイナ様のお眼鏡に叶わなかったか」


 そうだ、それは多くの人間が吸う量産品で、主に海軍が好んで吸う支給品だ。なんの変哲も無い。なんの変わり映えも無い。あの時から、ずっと。
 だけどやはり、ニイナには似合わないとローは思った。そうしてサイドテーブルに置いたままだった紙袋から一つの小箱を手に取り放る。綺麗な放物線を描いたそれはニイナが宙に浮かせた掌に乗る。


「なんだ、買ってくれたのか」
「物のついでだ」


 いつもの銘柄を見たニイナの頬が緩む。窓枠へ近づき、座るニイナの隣に立つ。強く香る煙草の匂いが現実か郷愁の線引きを曖昧にする。隣にニイナがいなければそれに手を引かれていただろう。ローには煙草の僅かな違いを感じることは出来ないが、記憶に深く刻まれたその匂いだけは忘れもしない。ニイナの銘柄と、あの日背負われた時の雪の冷たさとコートの柔らかさを連れて鼻腔の奥底を擽るのは。


「……これに特別な記憶でもあるのか?」
「あ?」
「煙草の煙を嫌うお前が、穏やかな表情をしているのは珍しい」
「……お前の煙に慣れただけだよ」
「いつも夢を見るときに呟く人間に関係しているのか?」


 お気に入りの銘柄が手に入ったからか、それとも飽きたからか。灰皿に立てかけられた煙草からは細い煙が窓の外へ流れて空気と混ざる。新しい封を破って取り出した白い筒を咥える唇が艶かしい。瞳で答えを促されて、逸らした先は穏やかな夜を見ていた。いつまでたっても口を開かないローの横顔を見てそれに答えを悟ったニイナは緩く笑んだ。


「……そうか、良い人だったんだな」


 零した声はまるで独り言のように小さいというのに、安堵したかのように暖かかった。届ける予定もなく霧散した言葉が溶けた頃に、ローは瞳だけを動かして仄暗いニイナの素肌を見遣る。


「なぜそう思う」
「鏡で見てみろよ。そんなに優しい顔をさせるなんて嫉妬してしまう」


 ひどく凪いだ夜だ。何もかもが安息の眠りについた街並み。犯罪者でさえ見当たらず、穏やかな波音が子守唄を奏でる平和慣れした港町だ。狂いそうになる。今まで過ごしてきた人生を否定されるようなここは、ローには合わなかった。泊まるべきではなかったと後悔が襲う。
 その後悔に、冷えた指先に、纏うようなカサついた指が折り重なった。硬質なプラチナが手の中でぶつかった感覚がする。まるで分け与えるように、それとも冷温を奪われてしまったのか。絡まるたびにローの指先はじんわりと暖かくなっていった。気付かないうちに硬直していた心がするりと溶解されたことに、肩から力が抜ける。


「……昔、俺を自由にしてくれた恩人だ」


 ニイナの言葉に負けず劣らずの小さな声だった。この距離で聞こえないわけはないだろうに、ニイナからの返答はなかった。ただ波音と同じように穏やかに微笑んで、いつのまに火をつけたのか白煙を吐き出していた。それは部屋の中で消え、残り香だけがローの鼻に届いた。灰皿の中の吸いかけの量産品は息絶えようとしている。もう風が吹けばその小さく上がる煙さえかき消されそうだ。どんな匂いだったか、ニイナの紫煙に紛れて思い出せない。それでいいんだと、あの人なら笑ってくれるだろうか。
 静かな、凪いだ夜だった。あの人の腕の中で見上げた夜空と酷似しているのに、煙を燻らせるニイナが手を握るからローはもう過去に固執出来なくなった。振り返ることは許すのに、足を止めることを許されない。もう、迷う理由がない。
 強く手を握ればそれに呼応するようにニイナも力を込めた。体温で温くなった硬い指輪が食い込んで、痛い。

 ローにとって、それだけで充分だった。それだけを、必要としていた。

 明星、東の空が白み始める。




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