小説 | ナノ
甲板に出ると欄干に肘をかけて食後のタバコを吸うニイナがいた。絵になるその顔に憂いも怒りもなくて安堵する。
「……ニイナ」
「ああ、ペンギン。迷惑かけるね」
「分かってるならやめてくれないか」
細く吐き出した煙が不規則に揺れた。隣に身を置くとタバコを消そうとしたニイナを制する。俺は特に気にしていないので構わないと伝えると軽く礼を言われた。本当、こういう気遣いができる海賊なんているだろうか。いや、気遣いが出来れば俺はこうも苦労しなかったかもしれない。
「なんで喧嘩するんだよ、お前ら……」
「俺に聞かれてもなぁ」
「好きならお互い譲歩しろ」
「それ、ローに言ってやれよ。お前から告ったくせに振られるのはカッコ悪いぞって」
「振るつもりもないくせに」
そう語尾を強めて言うと、当然と言うような顔をして紫煙を吐き出した。逃がすつもりもない、とでも言いたげな。どうせ心中するんだ、根を上げるくらいなら息の根を止めるだろう。
……というか、キャプテンから告ったのか。愛を告げる絵面を想像するも、どうにもしっくりこない。痴情の縺れの延長で、さらに拗らせて現在に落ち着いたと言われた方がまだマシだ。爛れて擦り切れた感情を丸めて、糸屑のように隙間だらけのボールを愛だと言っている方がお似合いの二人なんだ。其奴らが真面目くさった顔で「お付き合いしています」と言った日の俺らは何年寿命が縮んだと思っている。
「振るつもりないなら、喧嘩すんな」
「俺は無実だぞ?」
「嘘つけ。まったく、喧嘩ばっかじゃ嫌じゃないのか? 別れようとかするだろ普通」
「まあそりゃ、最近はローのちょっかいも度が過ぎるけど」
「もしかしてあれか、別れるとなると船を降りると思ってんのか。……あ、キャプテンに脅されているとか。心臓はあるか?」
「アホか」
喉奥で笑ったニイナの細い指に挟まれたままのタバコの灰が落ちる。戯けてみせた俺もつられて笑った。
ニイナの濡れていた髪は既に乾いていた。変な癖が付いたのか耳にかけた髪を下ろそうとはせずに、潮風で乱れたそれをまた掛け直していた。見えた二連のピアスと首筋が悩ましい。
たまにこうして年相応というか、人間味を帯びた顔を見せるニイナがいる。直ぐにそれは色香の向こうへと隠れてしまうのだが、俺としては誰よりもそれを見る回数が多い気がする。相方共々胸中を吐露する唯一の人物というポジション。悪くない、こうして全ての肩書きから解放された二人を見るのは。剥かれた果実のように、ミルクに入れたひと匙の砂糖のように。暴かれた彼等は、ひどく人間らしい。
「キャプテンがカッコいいのはわかるが、そこまでやられるなら何か対策を練った方がいいんじゃないか?」
「カッコいい? ……ああ、確かに悪くないが……どちらかというと可愛い。構って欲しい時や女に嫉妬した時に俺にちょっかい出すの、本当に可愛い」
「……お前それ喜んでたのかよ」
「おいその目をやめろ。流石に水ぶっかけられたりするのは怒るけどな。でも猫みたいで可愛いだろ? やらねェぞ?」
「いらんわ」
俺は女の子が好きだ。それにニイナにベタ惚れなキャプテンがニイナ以外に靡くわけがない。
というか、わかっていたのか。キャプテンが嫉妬する理由を。そりゃコイツはなんでも先回りして見てきたように物事を語るが、キャプテンの機嫌まで手玉に取っているのなら周囲を焼け野原にするキャプテンの殺気も手玉に取って欲しいところだ。
「本当、お前一体何がしたいんだよ」
「それ、ローに言ってやってくれ。あのうっかりに付ける薬はない」
「……薬といえばお前、この船に初めて乗ったとき俺に盛っただろう」
少しばかりうんざりした声をして手を振ったニイナの指先から細い煙がゆらゆらと揺れた。それを目で追った後、ずっと聞こうと思っていた事を口に出す。揺れていた煙がまた静かに上り始めた。反対にニイナの口角が動いて歪む。背筋が凍る思いをした夜を思い出す。星々は静かに眠る夜、月明かりがこんなにも頼りないものだとは知らなかった。
「路地裏の薬屋」がこちらを覗いていた。
「……は、漸く気付いたか? 新薬の揮発性発熱剤だ。並みの解熱剤じゃ効かない」
どうりで、内服薬も点滴も効かなかったわけだ。泣きながらシャチに浣腸はしたくないと縋ったが、キャプテンがニイナを連れて来なければ俺はきっと死ぬか処女を散らすかしていた。出来れば生涯添い遂げたい。
出て行く間際の甘言はとんだハニートラップだった。自分は言伝を頼んだその舌の上か上顎に解毒剤でも仕込んでおいたのだろう。タチの悪い、抜け目のない男だ。
「おい……そんなもの俺に盛るなよ。大体、俺はお前を無下にした記憶はないが」
「ちゃんと治してやっただろう? あれはただの保険だよ。ローは必ず俺に会いにくるとは思ったが礼には来ないだろうから、来る理由さえ付ければすんなり事は運ぶ」
当時を思い出すようにぼんやりとあの頃はまだ可愛かった、と呟くニイナに呆れのような諦めのような感情がこみ上げる。それを意のまま吐き出すと、それは溜息となった。
「……俺は、とばっちりを食らっただけってことか」
「そういうこと」
あの夜と同じように肩を叩かれる。わざとらしく爽やかに胡散臭い笑みを作って、「ペンギンには感謝している」と嘯くからその手を叩き落としてやった。
「何が目的でこの船に乗ったんだ」
「欲しいもののためさ」
薬屋は笑った。それは軽薄な笑みではなく、獲物を見定めたような鋭い眼光。強者だけに許されたその顔は、つい最近首の値段が上がった我等が船長の手配書によく似ていた。
「まさか……最初から仕組んでいたな」
「ご明察」
波は穏やかだ。足元に感じる揺れも殆どない。時刻は既に夜半のはずだが、この海域は今し方水平線に夕陽が沈もうとしていた。普段は仲間が騒ぐ甲板も今は俺とニイナの二人きりで、何が入っていたか直ぐに思い出せない木箱だけが会話を聞いている。段々と死んでいく生に縋るように、その一瞬を刻みつけろと言うように夕陽は輝きを増していく。伸びていく影を目で追うニイナの背で、今、その橙が死に向かっていく。
「―――厄介だよな、一目惚れってやつは」
そう言って煙草を吸うふりをして口元を隠した、その上の双眸が細まる。それは俺が見た中で一番に格好良いニイナで、大変人間臭い表情をしていた。