小説 | ナノ
「敵襲だー!!」
突如響き渡る襲撃の怒号に、ローは読んでいた本に栞を挟む。凝り固まった目や肩を解し、重い腰を上げてから刀を担ぐ。固い床が靴の音を響かせるが、床が震えるのは敵が砲台を使っているからだろう。直撃はしていないはずだ。愛用の帽子を被りながら扉を開けた甲板では、もう既に乱闘が始まっていた。
「……ROOM」
シャンブルズ、と続いて出た言葉に歓声が上がる。重役出勤の船長は船首の方にいたシャチと場所を交換し、振り下ろされた刃を受け止める。そのまま横へ払って動きを封じるようにいくつかのパーツに切り分ける。
「斬られてェ奴から前に出ろ!」
気分が高揚する。アドレナリンで体が軽い。空を舞う切れ端達が踊り狂う様を不敵な笑みで鑑賞する。
そして、その隅で敵を出際よく縛り上げていく男を見遣った。物品を漁っている間に敵が起き上がり、後ろからその凶刃を振るわれては不利だからだ。その男には戦闘技術はないものの、手先の器用さを買われてハートの海賊団に入った。名をニイナと言う。主に針仕事を得意とし、その他機械のメンテナンスや捕縛の役目を担っている。一度ニイナの縄は抜けないと仲間内で話が上がり、縛られたシャチが陸に打ち上げられたその名の通り甲板をもがく姿は、酷く滑稽だったことを覚えている。縄師でもやっているのかと疑いたくなるほどの腕前だった。
「ニイナ、進捗はどうだ」
「あっ、ローさん。あと少しかな。先に物資確保に向かってても大丈夫だよ」
「そうか、頼む」
「アイアイキャプテーン!」
足で敵の背を踏み込み、きつく縄を締め上げるニイナに声を掛ける。そのまま結び目を作り、また新しい縄に手を掛けたニイナを見てからローは足の先を反対側に向けた。ペンギンがお伴しますとばかりに側に寄る。
「……随分、ニイナを気に掛けるんですね」
「あ?」
予想外の声掛けに思わずガラの悪い声が出てしまった。それに笑みを深くしたペンギンが、帽子の隙間から好奇心が描く瞳を細くした。
「些細なことで貴方が懇意にするのを初めて聞きましたよ」
「……ほざけ」
「俺らには頼ってくれないんですね。あー、さみし」
「思ってもねェこと言うほど頭悪くなったか?」
一般人なら間違いなく足が竦むであろう睨みを、ペンギンは笑って一蹴する。その目の説得力がないことを、本人の預かり知らぬ所で知っていたのだ。いや、これはまだ予感なのだが。
自船よりも低いガレオン船へと飛び乗るため、二人は揃って足へ力を込めた。そのまま飛び出した瞬間、誰かの警告が聞こえる。
「ーーー危ない!!」
焦燥を含んだ叫び声に宙で首を捻り後ろを振り向くと、一緒に飛び込んだ部下とその後ろに拳大の爆発物を見た。所謂、手榴弾。ピンの抜かれたそれが共に落下を続けている。爆発までの四秒、能力を使おうにもきっと間に合わないだろう。ローは同じように振り返っていたペンギンの襟首を掴み、自船の横腹を蹴りつけて着地の軌道を変えた。そのローの判断は賢明だったと言える。
「ローさん!!」
ローが見えたのは爆発する手榴弾と爆風により吹き飛ぶ二人分の身体と、宙に舞う見慣れた帽子。それと、悲痛な表情のニイナが手を伸ばすのを最後に目にして、大いなる海原へとその痩身が叩き付けられた。
「……いつまで泣いてんだてめェは。それでも男か」
「ずびばぜん……」
今だ見当違いの自責の念を抱えて泣きじゃくるペンギンに拳骨を一つ加えて、自身にも返ってきた痛みにそっと眉を寄せた。
あの後、海に叩き付けられた二人のうち、ペンギンが直ぐにローを掬い上げた。しかし爆圧と海水により気を失ったローが目を覚ますことはなく、既にどっぷりと夜に浸かってしまった。手榴弾を投げた敵はシャチにより制裁を加えられ、ニイナにより縛り上げられた。ペンギンがローを抱えて上がってきた瞬間、縛り上げた敵を海に蹴り落とすニイナの冷たい顔は生涯忘れないだろう。それを船長が見なくてよかった、とペンギンは一人思った。
ペンギンはローにより大した怪我はなかったが、打ち身と目眩が酷いローは起き上がるので精一杯だった。瞼を上げた瞬間見えた顔が、一瞬で涙を溢れさせたのには物凄く驚いたが。
「ペンギン、ローさんは……ローさん!?」
嗚咽と鼻水を啜る不協和音の後ろでノックが数回鳴り、扉から顔を覗かせたのはニイナだった。ローが身体を起こしていることに酷く驚愕し、走り寄る。
「ローさん! ローさん……!」
「うるせェ、聞こえてる」
「あの、体調は……!?」
「少し目眩がするだけだ、寝りゃ治る」
「よかった……!」
手榴弾の爆圧と海水に三半規管がおかしくなっているのかもしれない。しかしそれも一時的なもので直ぐに治るものだと知っているためそれを伝えると、ニイナは安心したかのように表情を緩めた。身体に障らないようにとベッドサイドに手をついて、至近距離で破顔するニイナにローは動揺していた。
ニイナは拾った時から自分を唯一船長ではなく「ローさん」と呼ぶ。今更訂正する気もなく、馴染んでしまったそれを改める必要もないとローは思っている。ペンギンに揶揄されることもあるが、何故か感じたことのない庇護欲のような物がそれでいいと呟くのだ。
それを「何か」と言葉に当てはめるつもりもなく、幾年月。呼ばれる呼称と同じように少しだけ特別扱いしていると思っていた戦闘能力のない手先の器用な青年。ニイナをそう定義していたローの目の前に、安堵に笑む顔を向けられて、その根底が酷く揺さぶられるような感覚に陥ることは初めてだった。
それは敵を倒した時の高揚感でも、逃げ場のない所で手榴弾を見た時の血の気が引くような感じでもない。
何なんだ、これは。
「おーい、ニイナこれ……船長ー!?」
「シャチうるさい!」
「ぐすっ、お前らうるせェぞ! 船長は今起きたばかりなんだ! 気を使え!!」
「……いや、お前ら全員五月蝿い」
いつもの光景に、思わず笑みを零してしまった。それによって霧散した感情はもうローを悩ませはしない。代わりに、シャチが握っている見覚えのある布に目が行ってしまう。
「おいシャチ……それ、」
「え、あ、ああ……」
そっと握っていたその掌を開くと、それは正しくいつも被っていた相棒だった。ブチ柄の起毛の帽子は、見るも無惨に半分ほど焼け焦げていたのである。恐らくあの爆発によってだろう。自分の頭がそうならなくて良かったと思うべきか。
「船長……」
「まあ、もう寿命ってやつなんだろう。捨てておけ」
「でもっ……」
「口答えすんな。そこまで焼けて直るわけでもねェ」
長年連れ添った仲間を失ったような惜しむ視線を一拍向けてから、ローは寝ると言ってシーツの隙間に潜り込んだ。
確かにローの言う通り、大半が焼けたそれが直るわけではない。大層落ち込んでいる様子の船長室を後にした三人は、人気のない食堂で帽子を囲っていた。
「……なあ、どうする」
「どうするって、どうするんだよ」
「ニイナ直せねェ?」
「流石にこれは無理だろ……」
重い溜息だけが場の静寂を震わせる。次の島で新しいのでも、と意見が出たとしてもローの気分が晴れることなどないことを三人は知っていた。
焼けてしまい固くなった繊維を突いていたニイナが、ふと思い出したことを口にする。
「あれ……ねぇ、ローさんはノースブルー出身だよね」
「ああ、俺らと一緒だ」
「ノースブルーのどの辺?」
「さぁ……聞いたことねェが、俺らの所よりは離れているはずだな」
「その時にこの帽子は被ってた?」
「ああ、そうだけど……そう考えると十年以上か。確かに寿命かもなー」
「じゃあさ、ノースブルーにこのブランドはあった?」
矢継ぎ早に質問するニイナの口から、大手ブランドメーカーの名前が出ると二人は眉をひそめる。
「……確かにあったが、あれは割と敷居が高い所だよな」
「俺達にゃ無縁のところだよなー」
「いや、待てよ……船長なら持ってても不思議じゃないかもな。元から学者の息子だと言っていたし、彼処はキッズ服も手掛けていたはずだ」
「……ビンゴ」
勢い良く立ち上がったニイナの椅子が転がる。握り締めた際に焼け焦げて固くなった繊維が掌に突き刺さるが、今のニイナには効かない。その様子を丸い瞳が四つ、見ていた。
「……おいおい、ニイナ、どうしちまったんだよ」
「日が昇るまで何時間あると思っているんだ」
ポーラータング号の下部の方。ちゃぷちゃぷと波に揺られる水上バイクにニイナが乗る様をペンギンとシャチは見ていた。機械整備も担うニイナが一昨年勝手に船の一部を改造しバイクを押し込めたのだ。ローにバレた際は海上でトラブルがあった際にいち早く陸地から物資を運ぶためです、と力説した代物だ。今までその活躍を見たことはないが。
「ばっか、大きい声出すなって。いくらローさんが鎮痛剤で眠っているからって起きてこないわけじゃないんだぞ」
「そうじゃねぇよ」
「ベポに予備の海図は借りたし、ライトもつく。波も穏やかで海獣も少ないこの海域なら大丈夫だって」
「いや、俺らはお前の心配はしていないんだが……」
「少しはしろよ」
ペンギンとシャチに睨みをきかせてエンジン部の整備をする。埃を被っていたとはいえ、暇があればメンテナンスをしていたのでそこまで手を入れる必要がなかった。
背中には焼け焦げた帽子が入ったリュックが下げられている。急いで次の島に行く、と告げたニイナに二人が驚愕したのはつい先程の話だ。
「だから、なんでお前が先に次の島に着く必要があるんだって。帽子はもう直らないんだろ?」
「それともなんだ、今からノースブルーに行って買いに行くとかでもいうのか」
「これは十年前に廃番になってるからもう同じやつはねーよ。それに早めに次の島に行かないと、お姉様の機嫌が取れないからな」
「えっ、お前女いんの!?」
エンジンを作動させた音にシャチの驚愕の声が隠れる。焦ったようなニイナの油臭い掌がシャチの口にビンタをかました。
「だから声でけぇって! てかそういうんじゃないから!」
「じゃあなんだっていうんだよ……。船長にはなんて言えばいいんだ」
「適当に言っててくれって! じゃ、先に行ってる!」
ゴーグルを引き下げた手でエンジンを引き、小型のモーターが唸りを上げて真っ先に駆け出す。改造を施したそれはポーラータング号より遥かに早く、見送る二人にはもうその姿が見えなくなっていた。普通ならあと三日はかかる航路が、あれなら半分で着くと豪語していたニイナだが二人は心配などしていなかった。というより、船長の機嫌取りの方が一大事でありそちらに重点を置いたためだ。
「……てか、なんであいつ帽子が廃番になったって知ってんの……?」
「……さあ?」
「ーーー知ってるだろう? どの返答をすれば俺が満足するか」
地を這うような低い声質に背筋が薄ら寒くなって身震いした。隣にいるシャチはもっと大袈裟に地から跳ねた。ペンギンも予想より深刻な状況に、内心ニイナを呪わずにはいられなかった。
朝、珍しくローは清々しい目覚めをした。目眩も打ち身も完治したし、薬のおかげか深い睡眠のおかげかスッキリとした心地で冴え渡る朝の空気を吸った。そして、食堂に出て辺りを見渡す。ガヤガヤと賑わっている一角で、誰かの葬式でもあったのかというほど暗い雰囲気の二人組が向かい合って座っていた。ローが「ニイナはどうした」と言うと飛び上がった二人がしどろもどろに言葉を紡ぎ出すので片眉が上がる。シャンブルズされた鬼哭を前に、食堂が静まるのも一瞬だった。
「……えっと、先に行くと言っていました」
「何処に」
「……次の島に」
「何のために」
「……わ、わかりませ……」
仁王立ちするローの前に自然と並んで正座した二人のうち、ローの単語ばかりの問い掛けにシャチが不明の返答を返そうとするが、最後の「ん」を紡ぐ前にローの能力によって右腕が斬り落とされた。
「ぎゃああああ!!」
「ちょ、船長、それはやりすぎ……」
「俺が聞いていることは、」
今度はペンギンの左腕が落とされた。
「あのバカが、いつ、どこに、何のために、何故行ったのか聞いているんだ」
ああ、これダメなやつだ。
ペンギンがぐっと覚悟を決める。周りは固唾を呑んで見守っているが、骨は拾うぞと親指を立てた。薄情な奴らだ。
「……昨夜、水上バイクに乗り次の島を目指しました。恐らく今夜にでも着くかと。目的は不明ですが、何やら急ぐ用事があるとか……」
「あ、お姉様に会いに行くって言ってました!」
「ばか、お前っ!!」
慌てて残った腕でシャチの口を塞ごうにも、それは叶わなかった。シャチの顔を見ていたはずの視界が、いつの間にか虚空を舞っていたのである。そして、体が動かない感覚に疑問を持ったが転がった頭がそこを見てくれた。いや、見たくなかった。サイコロステーキの二人前の出来上がりだ。
そのまま刀が鞘に収まる音がして、革靴が床を叩いた後に扉が閉まった。
「……シャチ、てめぇ……」
「……ごめんなさい」
両腕があれば今すぐにでも首をしめたものを。しょぼくれた声が右隣から聞こえるので、シャチも生首状態なのだろう。
派手にやられたなあ、なんて言いながら仲間たちによって組み立てられる体を見つめていると、扉を開けて操縦室にいたはずのベポが顔を覗かせた。
「ねー、みんな……うわあ、二人ともどうしたの?」
「ベポ、その顔をやめろ。地味に傷付く」
「ベポこそどうしたんだ? 海図書いてたはずだろ」
「えっとさっき船長がね、次の島まで全速力で行けって言うから……。何か怒っているような気がしたんだけど、その様子見て納得したよ。何かあったの?」
「ニイナがな……」
「ニイナ?」
事の顛末を話すと、ベポは納得したように頷いた。そして、ニイナに海図を貸してくれと言われた事も。体の半分が組み立てられたものを見て、ペンギンは深々と溜息をついた。そのついでにベポに早く次の島に着くようにと指示を念押した。ニイナは一発くらい殴られればいい。
「……おい待て、それ俺の指じゃねェ! 付けるな!!」
「……着いちまった……」
「ニイナ、安らかに……」
秋風の肌寒い空気の中、体が元に戻ったシャチとペンギンは揃って合掌した。予想より早く二日半程で着いてしまった島に真っ先に降り立ったのは船長であるローだった。普段なら様子見のために我先にと降り立つ船員も、ローの只ならぬ気迫により申し出が出来なかった。
あれは殴られるどころかニイナ死ぬぞ、とペンギンはひっそり思った。鬼哭で肩を叩いている辺り、本気を感じる。
ローはこの二日、心穏やかではなかった。クルーが無断と独断で先行したのが許せなかった。何かあればクルーを失う事にもなるし、強いてはハートの海賊団に致命的な損害が出るかもしれないのだ。団結やチームワーク程この航海で大切なことはない。
そうだ、自分は怒っているのだ。戦えもしないニイナが、一人で軽装で小型のバイクで、先にこの島に来てしまったことを。バイクが転覆するかもしれない。燃料切れで立往生するかもしれない。海図を読み間違えれば島に着かなかったかもしれない。それに、もしこの島に何か危険なことがあれば、ニイナは戦えず死ぬだろう。何が起こるかわからないグランドラインで、能力を持たない者の一人行動など死に直結するのだ。
挙句理由は「女に会いに行く」という事だ。本当かどうかはこれから確かめるとして、果たしてそんなくだらない理由でニイナは動くだろうかと疑問が湧く。確かにニイナもローも女を抱く。島に降りて娼館があれば行くこともあったし、行かなければ戦えないニイナのボディガードを兼任して共に宿をとったりすることもあった。そこまで情欲に溺れるほど欲深いわけではないニイナが、とも思ったが理由は何であれ、単独行動をしたという事実は変えられない。
ローは、そうだ、と思った。
「……馬鹿ニイナ」
自分は怒っているのか。
この二日間の波風立つ心地に漸く整理がついた気がした。それが正解ではないとしても、無理矢理当てはめて歪を見ないふりをする。
「……あら?」
高い女の声がした。その声先が自分に向けられていたようで、顔を上げる。ローのルックスとスタイルに声をかけてくる女は少なくないが、それが疑問系の声だと知り合いかもしれないと思ったのだ。
その選択が誤っていたと、直ぐに知る事になる。
「……あ、ローさん!」
落ち着いた色のショールを纏った女人の後ろから顔を出したのは、ローのよく見知った、正しく渦中の人物だった。いつもの白いツナギではなく久しぶりに見た私服を着たニイナが、いくつものブランドショップバッグを腕から下げている。どこからどう見ても、「女の荷物持ち」であった。
ローは口を開こうとした。そして、これまで思っていた説教をしようと声を出そうとした。だが、出たのは喉を締め付けるような呼気だけだった。ひゅるりと嫌な空気が肺を縛り付ける。
「ッ……」
「早かったね、明日に着くと思ってたから」
「……、」
「でもちょうどよかった。あのさ、この前のーーー」
「ーーーーー……てめぇは、」
ニイナがバッグの一つを漁る。物でご機嫌を取られるようなその仕草に、何かの細い線が切れた音がする。
嗅ぎ慣れない香水の残り香がして、ニイナが着ないであろうブランドのバッグが揺れる。
先程まで考えていた言葉も、怒りの矛先も、制裁も、全て消え失せた。残るのは、不要の雑多な非合理の思考。
ニイナはどんな甘言でこの女を口説くのか。どんな笑顔で優しくキスをするのか。その豊満な胸を鷲掴んで舐め上げるニイナの瞳だとか、突き上げた時に白い首が仰け反り嬌声を聞いたニイナの口元だとか。妄想の産物でしかない、ニイナがローの脳裏を過る。どんな声で、どんな顔で、目の前の女を抱くのか。どうしてそんな考えばかりが脳内を占めるのか。激しく混乱するローを包むのはドス黒く、吐き出してしまいそうな気持ち悪い感情だった。
「……なんで、」
「ローさん……?」
真黒な感情がチリチリと脳内を焼き、目の前にいるニイナが見えなくなる。
理不尽だとしても、それが理に適っていないものだとしても、吐露せずにはいられなかった。吐き出してしまったものは戻らないのだと、いつもの余裕がないローはそれさえも気付かないままに。心配そうに覗き込むニイナに理性が焼き切れた。
「そうかよ、そこまでして女を抱きたかったのか」
「……え?」
「あの海でトラブルがあって死ぬことも、足を引っ張って味方を窮地に追い込むことも、考え付かないくらいその女が大事か」
「あの、それは違うよ。俺は……」
「何が違うって言うんだ。お前は女に会いに来た。今だって隣にいるだろう。言い訳なんざ見苦しい」
「ローさん、だから違う、この人は……」
「聞きたくねェ!」
腹の底から肺の空気を押し破って出した声が、思ったよりも低く暗い。その声にニイナが瞠目して肩を揺らしたのが見えた。酷く傷ついた顔だ。それが更にローを煽る。なに自分だけ被害者だと言わんばかりの態度を取る。なに自分だけ傷付いた顔をしていやがる!
全ての血潮が沸き立つような気がした。もうローを止めるための楔など焼き尽くされてしまった。
「……お前がその女を庇う言葉なんざ、聞きたくねェと言ってんだろ!!」
いっそ浴びせたのが罵倒ならよかった。船長としての立場の説教ではなく、トラファルガー・ローという人間としての発言に気付いたのは彼らに背を向けてからだった。このままニイナの顔を見ていたら塗り潰されてしまいそうだ。怖くなって駆け出したローの背中にニイナが呼び掛けたが、振り返ることはなかった。
「……あらあら」
「ちょっと、なんで黙ってたの!」
「貴方の船長さんを見たかったからよ。貴方、随分思われているわね」
「どういうことだよ!」
「同伴はこれで終わりにしてあげるから、貴方は早く追いなさい。それにしても、まさか勘違いされるなんて思わなかったわ」
「もう金輪際御免だね! アンタはどっからどうみても俺のーーーーー」
「……ローさん! ローさん!」
風にそよぐ大樹の下、太陽が雲に隠れたことで木漏れ日が消えた。ローはその根元を観察することで陽が陰ったことを知る。そこから見下ろす海面の水平線近くは雲の隙間からベールのように陽が差していた。
声をかけられるだけならまだよかった。その背中に視線を受け、腕を掴まれれば払わずにはいられなかった。
「……何の用だ。失せろ」
「だから! 誤解ですって!」
「二度も言わせるな。殺されてェのか」
ローはもうニイナを殺すことも厭わなかった。そうすれば己を煽るだけの声も、煩わしい視線も、鬱陶しく駆け寄ることもないだろう。自身を苛立たせる全てを排除してしまいたい。
鋭く穿つ眼光を物ともせず、ニイナは離れてしまった距離を一歩詰めた。
「勘違いだってば。あの人は俺の女なんかじゃない」
「なら、言い方を変えりゃいいか。娼婦でも売女でもなんでもいいぜ」
下卑た笑いを浮かべて嘲笑ってやれば、ニイナの顔から表情が消えた。ここまで煽れば後は醜態を晒すだろうとローは踏んでいたが、その算段は覆されることとなる。
「……いくら俺でも、自分の姉を貶されて黙っていられるほど寛大じゃない」
「……は、……あね……?」
ニイナから発せられた予想外の解に、我ながら間抜けな声が出たもんだと感心する。
ニイナはあれだけぶら下がっていたバッグのうち、一つだけを持ってきていた。そのバッグのロゴは、遠い昔に見たことがあるような気がする。
「そう、姉貴。俺がこの島に先に来たのはあの人に頼みがあったから。その代償に荷物持ちさせられたけど……」
「……」
「ローさん、これ買ったのノースブルーにあったブランドのでしょ。実は俺の家がそこを立ち上げたんだ。今は姉貴がそこを継いでる。だからこの島に店の倉庫があるのも知ってたし、十年前に廃番なったけど生地だけはあるかなって思ったんだ。……同じ形にはならなかったけど」
ニイナが取り出したのは正しくローが被っていたあの帽子だった。確かにニイナが言う通り前のニット帽状ではなく、キャップのように鍔が付いている。だが、焼け焦げた跡だとか継ぎ接ぎした箇所が見受けられないほど精巧な出来だった。
「……ニイナが作ったのか」
「そうだよ。昔から手先は器用だったし」
姉貴程じゃないけど、と言って笑ったニイナがローに帽子を被せる。そして、そのまま鍔を引けば容易くローの身体は傾いた。
「だから言ったでしょ、違うって」
「……ああ」
身内と聞いて、一気に萎んだそれが申し訳なさを助長する。そして早とちりをして先走った自分らしくない感情を恥じた。鍔から見えるニイナの手が外されて気不味さに見上げた視界に入ったのは、見たこともない表情のニイナだった。
「初めてだよ、恋人に間違われたのは。俺と姉貴って結構似てると思うんだけど」
「……悪ィ」
「心配かけたことは謝るよ。でも、俺が女に会いに行ったと思ったの?」
「……ああ、だが、それは……」
「それで女を抱く俺を想像したってわけ?」
「……ぅ、」
「俺が言う言葉は全て彼女を庇う言葉に聞こえたの?」
「ち、が……」
「ローさん、いい事教えてあげようか。……ねぇ、ロー」
じりじりと距離を詰められて後退するも、その背を大樹に取られてしまった。
今のニイナにローは恐怖していた。今までの失態を一つずつ確認されていく様だとか、暴かれる心境を手に取るように理解しているニイナに。そして、そのギラつく瞳に。
最後の退路を塞ぐように木に手をついたニイナの顔が近い。瞳が細まるのを合図に、ニイナの口角がいやらしく上がる。どんな顔して女を抱くのかと想像していたが、これは予想以上ではないか。
「ロー、それって嫉妬って言うんだよ」
まるで、捕食者。
それは今まで見たこともない、男の顔で笑った。その顔にゾクゾクとしたものが脊髄を駆け上り、脳内を烟らせ、皮膚の薄い箇所を上気させる。
「随分可愛いこと、してくれんじゃん」
するりと熱い頬を撫でる。近付く男の顔に身動きが出来なくなる。途切れ途切れに拙くその名前を呼ぼうとも、まるで効果がない。初めて知った感情を綴じる間も無く、塞がれた唇からニイナの舌が口内に進入してきた。