小説 | ナノ
「おっ」
軽い感嘆の声に思わず振り向く。小さなそれは特に気に留めるでもない囁き声だったが、耳に入り無視することもなく意識してしまったのは好きな人の声だったからにすぎない。
立ち寄った島には一週間も滞在しないようで、こうして初日から物資の調達に私たちは奔走している。シャチと私はこの前割れたキャプテンのマグカップの代わりを買いに来ていた。いや、パシリではない。雑用のついでである。いや、デートではない。これから全員分の備品のストックを買いに行かねばならないのだから。それには荷物持ちとなる男手が必要だ。決して疚しい理由ではないと誓おう。
二人で決めたマグカップは前回のものと似たようなものだった。同じものはもう廃盤らしく、きっと船長も肩を落とすだろうが……いや、あの人が肩を落とすのだろうか。まあ、ないよりはいいだろうと私はそれを手にお勘定へ向かおうとしていた時である。
「なに、買ってあげないよ。お小遣いあるでしょ」
「別にせがんでねェよ!」
彼が見ていたのはサングラスのようだ。そういえば彼はいつもサングラスをしているから新しいのでも欲しいのだろう。どんなものがいいのか、と近寄ると今のものと大して変わらないデザインがそこに鎮座していた。
「……なんだ、今のでいいじゃん」
「お前は俺になにを求めているわけ?」
「こう、文字付きの……」
「常時お祭り気分じゃねェか!」
「あたっ」
私のボケに軽く額を叩かれた。その衝撃にマグカップから手を離しかけてしまったが、それより大きな手が私の手ごと包み込む。暖かい指先に余計力が入らない。衝撃で見上げた視界が広くなる。するりと私の指をなぞってマグカップの取手を攫っていったシャチが私の横を通り過ぎる。何事もなかったように。
「相棒、会計!」
「……今行く。先出てて」
私は、シャチの相棒。触れ合っても踏み込めない、パートナー。今までそれでやってきた。どこで違えたのか私は彼に好意を抱いてしまった。芽生えたそれを摘むこともままならずに、私は今日まで育んでいる。困ったことに。
私の一言にシャチは手を振って古風なベルが鳴る扉を潜って行った。その背が窓から見えない死角へと移動したのを確認すると、私はマグカップを持って怯えたように様子を伺ってくる店員へ声をかけた。
「これも、追加で」
信頼して安心しきった不変の感情を任せられる相棒をどうして変えられよう。何も変わらない平行線。それでいい。戦闘の際に感情はいらない。だけども、少しくらいそれに色をつけてもいいのではないか。分厚く聳える不変の壁の先に何が広がっているのかくらい確認してもいいのではないか。いつかはそれを乗り越えられればいいなとばかりに私は踏み台を手に取った。
「遅ェ」
「女の買い物は時間がかかるんだよ」
「あれ、俺らキャプテンのマグカップ買いに来たんだよな……?」
「ほら、次行くよ」
「もしかしてお前なんか買った!?」
ズルくね、俺にも買ってよ、酒とか。とほざいたシャチにラリアットを食らわせて強制的に黙らせる。だからシャチはモテないんだ。こんなことしている私もシャチに好かれないんだろうけど。やめればいいのかもしれないが、今更女の子らしくして意識されるのも私のプライドに障る。
「……酷いぜ、相棒」
「これだからシャチは……」
「待って、変なところで切らないで」
「モテないんだ」
「最後まで言わないで!」
「どっちだよ……」
ぎゃあぎゃあ言いつつも大して大きくも重くもない荷物を掻っ攫われる。自然な動作で奪われるから、私もいつ奪われたのかわからない。そういえばキャプテンと会う前はゴロツキだったって話だ。スリに慣れているのかな。
「おい聞いてんのかニイナ!」
鮮やかな犯行の後にシャチの手に揺れる紙袋を眺めているとずいっと近付いてきたサングラスを手に取った。いや本当、反射で。シャチは一瞬眩しそうに目を細めたものの、後は私の犯行を咎めるように睨み付ける。そこには普通の虹彩がある。
「……聞いてんのか」
「見てる」
「なんなのもうこの子!」
いつもより低い声に体内の何かが跳ねた。それがいい意味なのか悪い意味なのか探る前に元通りになったシャチの声色に掻き消された。返せよ、と見せられた掌を一瞥してまたその瞳に視線を戻した。
「なんでシャチっていつもサングラスしてるの?」
「はあ? 別に何でもいいだろ」
「カッコつけ?」
「あー、じゃあそれでいいから。早く返せ」
要求ではなく強奪のために振り割れた手を避けてサングラスは私の耳と目頭に触れることとなる。ただのサングラスだ。景色がセピアになるだけの、何処にでもあるサングラス。
「……なんだ」
「ほら、わかったろ。変哲も無いグラサンだ」
「ねぇ、シャチ」
「んだよ」
奪うことを諦めたシャチが苛立った声を出す。それをサングラスの隙間から覗き込むように見上げれば普段は見られないシャチの眼光に射抜かれる。
「サングラスに仕掛けがないなら、隠しているのは瞳のほう?」
「…………勘がよすぎるぜ、ニイナ」
「相棒だからね」
嘘だけど。カマかけただけど。帽子は奪ったこともあるし、預けられた時もあった。なのにサングラスを任されたことは一度もない。気になっていた。その素顔と理由に。
「あー……誰にも言うなよ。笑われるだけだ」
「私だけ?」
「おう、ニイナだけ」
ちょっとドキッとした。それは、キャプテンや付き合いの長いペンギンでさえ知らない事実のようだ。ようやく明かされる秘密に高鳴る心臓をひた隠しにした。シャチはさっきの苛立ちは何処へやら、ニッと笑って囁く密事に私は耳を寄せた。
「……じつは俺、呪われているんだ」
「なにそれ」
「とある妖精にキスされてな、世界がカラフルに見えるようになっちまったんだ。まあグラサンかけてりゃそこまで支障でないからいいんだけどよ」
「支障って……そこまで酷いの?」
「白い建物はもはやアートだな。夜もネオンのようにキラキラ輝いてるよ。……信じるのか?」
「シャチが嘘をつく理由も、私が信じない理由もないよ」
「ありがとよ」
「……呪術は術者を殺せば解けるんじゃないの?」
「恐ろしいな、この子。俺もそう思ったけどよ、それ以来見かけねェんだよ」
残念ね、と言うとそうだな、と返ってきた。魔法が解ける方法が見つからないシャチはこれからもそれと付き合っていくのだろう。杖代わりのサングラスをその掌に戻そうとして少し上に上げた。それにまた瞳がかち合った。
「ねぇ、シャチ。私の瞳は何色?」
そう言えば、彼はニヤリと笑った。私が、一番好きな笑顔。キャプテンもペンギンも見たことない、素のままのシャチの笑顔。
「にじいろ」
彼の周りに溢れる色の世界はきっと綺麗なのだろう。純粋で真っ直ぐな彼のことだ、美しく軽やかで鮮やかな、そんな世界。それをセピアに変えてしまうのは惜しい気がしたが、海賊が美術ばかりに溺れるわけにはいかない。何より、私は彼に口付けた妖精に嫉妬しているのだ。見つけたら誰より早く息の根を止めてしまおう。そして、誰より最初にその瞳に映してもらおう。私の色が何色なのか、その口から教えてよ。
シャチと相棒の秘密が漏れることなく五日。海上を帆船航行していた我らがポーラータング号に弱っちい海賊が喧嘩を売ってきた。一応船長億越えの船に、最近さらに上乗せされた懸賞を知っているのかと問いたいほど無謀な戦闘だった。一方的な蹂躙。やることの無い下っ端はキャプテンルームから漏れた敵を始末するだけだ。私もいつも通りそれに倣って見張り台の上から狙撃をする。
「……ひまぁー……」
相棒もちょこまか動いて敵を片付けていく。あーあ、また怪我してる。ずっとシャチはペンギンとかと比べると弱いんだと思っていたけど、あんなハンデがあれば眼精疲労も相当なものだろう。あとで蒸しタオルでも作ってあげよう、と決めてシャチに向かった敵に一発。敵が倒れると同時に気付いた様子のシャチはこちらに手を振っている。喧騒で言葉は聞こえないが、スコープ越しの口元がナイス相棒と象っていた。それに私も緩く笑む。やはり必要とされているのは嬉しい。
スコープで光を反射させてからキャプテンの方に振り返る。もう彼には助けすらいらない、どころかそんなところで解剖実験なんてしないでくださいよ。他も特に手こずってなさそうだ。後の私の仕事は彼らがお宝略奪している間に余所者が入り込まないか見張るだけだ。スコープから目を外す。途端に広くなる景色を見て、一瞬の違和感にまたスコープを覗き込む。
「……あっ、」
放った弾頭は直撃を逸らすことに成功したが、結果として良くはなかった。
「シャチ!!」
敵が一人酒樽の影に隠れていて、シャチに銃を撃ち放ったのだ。それは真っ直ぐシャチ目掛けて弾道を描いていたのだが、私が逸らしたせいでシャチには届かなかった。届いた先にあったのは、サングラスだった。セピアのカケラが散る。敵に気付いたキャプテンが仕留めているうちに、私は目の前に垂れるロープに滑車を掛けて見張り台から滑り落ちた。目に入ったのだろう、顔を抑えて俯くシャチに駆け寄る。
「シャチ、……シャチ!!」
「……あー、耳元で叫ばないでくれるか、相棒。ナイスアシスト」
俯いた表情は見えないが、血が滴っている様子はない。サムズアップするその手を掴んで船内へと駆けた。シャチの慌てた声がする。キャプテンから呼び掛けを頂く。それの全てに私は応えられずにただ走った。血の気の引いた、この余裕のない顔を誰にも見られたくない。シャチと私の秘密を、誰にも知られたくない。その一心で。
「ーーー……はい、ホウ酸水。洗ったら、一応目薬と濡れタオル被せてて」
「おう、サンキュ」
水の流れる音に、一先ず安心する。向かった医療室でシャチが目を洗う。外傷は殆どない。角膜も傷ついていないようで安心した。少し充血していたのでビタミンの入った目薬と濡らしたタオルを机に置いた。シャチは素直にそれに従ってくれた。椅子の背もたれに仰け反って天を仰いだ顔に白いタオルが乗る。落ちたキャスケットを代わりに机に置いて、対面する椅子に私も座った。
「……ごめんね」
「えっ、なにが?」
「いや……もっと早く気付けばよかったなって。あと逸らすのももっと軌道を考えればって」
「……あのなぁ、」
私の反省の言葉にシャチがタオルから顔を外した。顰められた眉と不機嫌に細められた瞳に私が映された。
「お前が逸らしてくれなきゃ俺は彼処で死んでたんだよ。気付くのが遅けりゃ死んでたし、早かったらなんて未来はねェ。俺はお前に助けられて、お前は俺を助けた。結果として俺は生きてる。それでいいだろ」
「……ん、」
「何度も言わせんな、相棒」
馬鹿と罵る代わりの私を指す代名詞にシャチの気遣いが伺えた。でも、今だけはなんだかそれが憎い気がした。私は相棒じゃなくてニイナで、虹色ではなく少し日に焼けた肌色と黒いツナギを着た女なんだよ。その白いタオルじゃなくて、私を見て欲しいんだ。
「……シャチ、新しいサングラスあげる」
「え、あるのか?」
「前の島で買ったの。見てたやつ」
「おー、あれか。流石相棒、褒めてつかわす!」
「うん」
ひっそり尻ポケットに忍ばせていた細めのメガネケースから彼の気に入ったサングラスを取って、両手をタオルに添えている彼に変わって胸元に差し込んだ。上機嫌に弧を描く口元。サングラス。カラフルな世界を覆うセピア。虹色はきっと犯人を覆い隠すカモフラージュ。私の瞳の色を知らないシャチ。可愛らしいフェアリーの唇は柔らかかったのだろうか。
「……ニイナ?」
名前を呼ばれてそっと瞼を上げる。あれ、いつ目を閉じていたっけ。ズレたタオルの隙間から見えるシャチの見開いた瞳はこんなに近かったっけ。ふわり、薬の香り。気付いたら、彼に口付けていた。
「……ねえ、私の瞳は何色?」
いつだったか聞いた御伽噺で王子様はキスで魔法が解けていた。それで、王族でもお淑やかでもない海賊の女が口付けるとどうなるのか。こんなことで、妖精は殺せるのか。
「……参ったな、くそ」
驚いた後に照れたようにはにかむシャチが愛おしい。これでバディは解散である。差し込まれたおニューのサングラスの出番は私以外の前で晒されるであろう。
「こんな綺麗な瞳は見たことがねェんだ。悪いが、もう少し近くで見せてくれねェか。ニイナ、」
床に落ちたタオルをタイルに擦り付けるように踏み躙る。それから滲み出る水分が体液のように見えても私は構う暇なんてない。引き寄せられた彼の膝の上に乗っかって、唇を貪り合う。
欲と涙に濡れていく瞳の色が、確かに彼の中に映った。