小説 | ナノ
※モブ女との性描写あり
※R15くらい


 ひたすらに揺さぶられている女の背を見つめる。汗ばんだ皮膚は滑らかで、背骨に沿った窪みに浅く影を落としている。肌のぶつかる音と不規則に聞こえる嬌声は耳に届くのに、ただぼんやりと思考は熱と共にこの部屋を漂っていた。
 まだ昼過ぎの明るさがブラインド越しに差し込む時間帯だった。薄暗い宿の部屋の中では香が焚かれ、荒く吐いた息の隙間から肺に侵入する。好きなようにその艶かしい女体を貪り快感を拾う自分と、名前も知らない女の見慣れぬブロンドを見つめる自分をどこか他人事のように見ていた。
 こんな不健全なことを咎める人はもういない。仲間だって知ったとしても揶揄する程度で同じことをしている。世間的にも肉体的にも成人男性なら欲の捌け口があったところでなんの後ろめたいこともない。なのに、何故かボタンを掛け違えた違和感のような歪さが胸の中から消えない。この胸に住む大きなハートのタトゥーの空白分、そこだけがこの行為から目を背けていることにローは気付いていた。
 精を放つ際の強烈な快感に背が震える。それが終わりに近付くと、この淫らな臭いのする部屋が居心地悪く感じた。もう続ける気はないことに気付いた女が息も絶え絶えながら怠そうに上体を起こす。

「はぁ……すごいヨかった。ねぇ、もう一回しましょう?」
「気分じゃねェ」
「そんなつれないこと言わないでよ。たった一回で終わりなんて男が廃れるわ。気分じゃないなら盛り上げてあげる。私、上手いみたいだし」

 正直ローとしてもまだ足りないくらいだとはわかっている。だがそれよりも口を突いて出てしまった気分≠フ一言に自分でも驚いていた。女は自負する言葉通り四つん這いでローに近寄り、自分の体液が付いているのも厭わず口に含もうと赤い舌を見せる。知らないブロンド、知らない白い肌、知らないコッパー色の瞳。乾いた体と立ち止まる心。本当に自分は続きを望んでいるのだろうか。
 その時、部屋に無機質な呼び出し音が響いた。ローが持ち寄った小型の電伝虫がサイドテーブルから冷めた目でこちらを見ている。女を押し退けてそれを手にし、応答する。

「……なんだ」
『急にすみません、いま大丈夫ですか』

 感情の起伏が少ない声が聞こえる。ペンギン帽子の男の声色を鑑みるに、用事はあるが火急の件ではないのだろう。前に奇襲をかけられた時は聞き取れない言語で支離滅裂に喚き続けるものだから、この男の声色で船の状況を知ることができることをローは密かに理解していた。
 女は不満そうだがそれ以上何も言わなかった。この島はそこまで治安は良くない。海賊がよく出入りする高級宿だからこそ商売女は一線を理解している。この関係に終わりを告げるようにローは女によく鞣された黒革の財布を投げた。女は欲を満たしてくれない男より、金払いの良い太っ腹な財布へ嬉しそうに笑いかけた。その中から数枚の札を抜き取り、確認のため広げて見せる。利用料の半分の金額になるチップを提示されたが、訂正するのも面倒なローが頷いてみせれば女は浮き足立ってシャワーへ向かった。

「いやいい、報告しろ」

 女はすぐに戻ってきて温かい濡れタオルを持ってきた。チップ分の働きはしてくれるらしい。もう一枚追加してシャワールームを指差せば物分かりの良い女は大人しくシャワーを浴びるためにその場を離れた。それを確認してから静かに受話器をテーブルに置き、タオルで体に残った汗や体液を拭き取ってから服を着る。鼻をつく香がまどろっこしく、蓋を閉めて窓を薄く開けた。纏わりつく情事の熱が振り払われ、待ってましたとばかりに入ってきた新鮮な空気を吸えば脳が簡単に切り替わる。それでも違和感は拭えないままでいた。

『実は敵の襲撃に合いまして。数は多かったんですが鎮圧済みで、迷惑料≠ヘ貰ってます』
「被害は?」
『全員軽傷程度です。ああ、イッカクが重傷ですが元気すぎて困っているくらいですね』
「そうか。今から戻る」
『急がなくてもいいですよ?』
「用は終わった」
『そうですか。それでは───あっ、ニイナ動くなバカ!』

 ガチャリ。無情にもそこで切れたことは目を閉じている電伝虫を見れば明らかだった。ちょうど会話の切れ目だったのだ。ローも受話器を置いたところだし、向こうも切る寸前だったのだろう。しかし数秒にも満たない通信の言葉が心臓に深く突き刺さり不整脈を起こす。
 クルーを案ずるのは船長として当たり前だ。だが信頼を置いているペンギンから大事ないと聞いたばかりで、自身の出る幕でもないと理解はしている。それでも。少し焦ったような声で静止を求めて一人のクルーの名前が聞こえた瞬間、ローはもう手遅れだと全身の血の気が引くのを感じた。受話器を置いてから時間が長く経ったような錯覚に陥る。いや、大したことはないはずだと頭を振って大太刀を小脇に抱えた。
 もう顔など思い出せない女の背に映る違和感と同じ種類の歪さを孕んでいることは、見て見ぬ振りをした。

「───いま戻った」

 誰に掛けるわけでもない声だが、それはこの船のクルー総員への伝達だった。甲板には各々治療をする姿があり、ローに気付いた人間が手をあげて帰還を迎え入れて自身の戦果を誇らしげに語る。報せを受けて十分と経たない。ローがどこに居たかを知る人間はいない。呼吸も乱れていないことから近場にいたのだろうとクルーからは推測されるだろう。部下が襲撃に合い負傷している傍らで、自分は快楽を貪りいたずらに体力を消耗していたことが不甲斐なかった。せめてその分の面目なさを挽回するべく、船長と船医として脳内を切り替えた。顔付きにも勿論それは現れるため、頼るクルーは多い。視線の切り替えが多いのは怪我人が多いからだろうとその場にいる人間は思う。
 ローもそうだと思っていた。船長として状況と損傷の把握、船医として怪我や消耗の把握が必要だからで、目配せが多くなるのはそういう理由があるのだ。だから、一人の女と視線が合っただけで不自然に逸らしてしまったのに必要な言い訳を、ローは持ち合わせていない。

「(……何故、)」

 動揺を隠すように重傷だと連絡を貰っていたイッカクへ近付く。ペンギンに手当てされる彼女は上半身裸で、豊満な胸の右側と薄い腹の左側に大きな傷を付けていた。それを見ても何も思わない。商売女とクルーでは情も場面も何もかもが違うのだから。なのに。

「(……俺は何故、気まずいと思ってしまった)」

 一言で表すには気まずいの言葉だった。それを解くと自分がそう思っているだけだと遅れて気付く。ニイナはローの足取りを知らないし、ローが帰ってきたことを確認するために流し見ただけだと言うのに。あの大きな瞳が。口元を覆っていた手が。午後の陽射しを反射する少し乱れたブルネットの髪が。一瞬の映像が何度も反響する。それらから咎められているように思ってしまう被害妄想が、どうしてもローの胸中をざわつかせた。

「いったい! 痛い! ペンギンの下手くそ!」
「誰が下手くそだ! いいから早くその無駄にデカい脂肪の塊を持ち上げろ!」
「なんだとこのポークビッツ野郎!」
「お前包帯巻いてやんねェからな!」
「……元気そうで何よりだな」

 声を掛けるとイッカクとペンギンからそれぞれ相手が如何に治療が丁寧ではないか、協力的ではないかということが吠えて寄越される。苦笑と黙らせるための言葉を溢して、薄い手袋をした指先でぱっくり切れた胸元の麻酔が効いていることを確認して針を通した。

「ほら、やっぱりキャプテンの方が上手い!」
「なら俺に頼むな! シャチに言え!」
「もっと酷くなるだろ!」
「耳元でうるせぇ。次は口を縫うぞ」

 その一言で口を噤んだ二人は視線のぶつけ合いで決着を付けるつもりのようだった。

「……ねぇキャプテン、痕残りますかね?」
「多少はどうしようもねぇが、保湿と日除けをしっかりしていれば薄くはなる」
「他のところもそうしてればよかったなー」
「ここはまだ手遅れじゃねぇよ。上手くやれ」
「アイアーイ」

 ローは慣れた手付きで傷口を縫合していった。その際に勿論目に入るのはイッカクのトップレスな胸元だった。そばに転がる血に塗れた下着と地黒の肌。日焼けと地肌の境と豊満な乳房。以前した治療痕もある。定期的な検診でも見たことある。だがイッカクを女として見るつもりはなかった。クルーとして一線を引いているし、上半身なんて凹凸があるだけで男と外見も中身も変わらないのだから。
 糸を切り、後をペンギンに託す。汚れた手袋を捨てた時に酷く咽せる声がローの耳に届いた。

「ニイナー!」
「げほ、うる、さ……ゴホッ!」

 欄干から身を乗り出して咳き込む小さな背と、ピッチャーを片手に慌てるシャチの姿が隅にあった。その手には割れそうなほど力を入れて握りしめているグラスがある。恐らく口を濯いで咽せたのだろう。先のペンギンとの通信も合わせて思い出し、これは流石に船長として見過ごせない。

「おい、割れるだろ。傷を増やすつもりか」
「ゲホ……はっ、はぁ……すみ、ません……」

 反対側に周りその手からグラスを抜き取った。ようやく治ったニイナが顔を上げる。顔を上気させて目が潤んでいる。声が掠れて眉が下がっているその情けない顔に、自身の眉間に皺が寄るのを感じた。

「口の中切ったか」
「だい、じょうぶです。もう血の味しないし」
「いいから見せろ」

 顎を掴んで上を向かせるとニイナは大人しく口内を白日の元に晒す。濡れた口内と艶めく赤い舌。白い歯の対比に目を細めてしまうが、医者らしく目敏く傷を見つけて軽傷だと検討をつけて離した。いつの間にかシャチはいなくなっていたが、傷口を洗うための水を汲みに行ったのだろう。ニイナの怪我は浅いものの数は多かった。他の人間の治療を優先したのか血が固まっている。変な所で気を回してしまう目の前の女を少し憎く思った。
 何故こう思ってしまうのか。聡いローにはもう既に検討がついている。だがこれはまだ淡く幼い。容易く消えてしまうほどの拙い灯火が暗くなることを。芽吹いたばかりの感情が一人でに枯れてしまうことを。ローは待ち望んでいる。

「脱いで座れ。治療する」
「えっ、ここでですか?」
「傷口を洗う。この場所の方が掃除も楽だろ」
「なるほど」

 コップに残った水でガーゼを湿らせ、絆創膏で事足りる所は適当に貼っていく。その間にニイナはツナギを脱いでいく。厚手のツナギから現れたインナーを着た肢体にローは内心舌打ちをした。目の前でストリップが行われていること、そのインナーさえ切り刻むほどの傷があること。怪我の功名とは言え、女の体に傷痕を残すのはローとて本意ではない。

「それも脱げ」
「はーい」

 腕に二箇所ほど包帯を巻いた。頬にも優しくガーゼを貼る。足には傷を負っていないが残るのはイッカクと同じ右側の胸元だった。親友同士の彼女たちはお揃いのように同じような場所に傷を付けてきた。ただしこっちの方が傷が浅い。縫うまではいかないが、薄く傷痕は残るだろう。
 ニイナは腐ってもハートの海賊団の一味だ。治療の必要性も分かっているし、恐らくイッカクと同様に必要とあればトップレスにも裸にもなることは厭わないだろう。しかし今回はそこまで必要ない。ローも大凡の予想はしていたし検診の際に下着姿を見たこともある。だが大胆にも下から捲り上げてインナーを脱ぎ捨てたニイナの上半身に思わずローは呆気に取られた。

「……は?」
「あ、これ可愛いでしょー! まあストラップ無くしちゃったんですが、お気に入りなので捨てれなくて!」

 見たことがないわけでもないし、そういったのがあることも知識で知っているが、ニイナの≠見るのは初めてだった。ストラップレスの綺麗めの下着に豊満な乳房が押し込められている。中央にコルセットのようなリボンが付いており、溢れんばかりの白い肉に段差が出来ていてもしかするとサイズが合っていないのではないかと心配になった。目の前の女は嬉々としてその下着について語っているが反応に困ったローは思わず目を逸らしてしまった。いつもなら無視するか適当に遇らう自分が想像できるが、それのどれもしなかった自分に動揺が走る。先程からニイナに対して己の行動を後ろめたく思っている。何故。質問への解は誰も返してくれはしなかった。
 ちょうど背けた視線の先にシャチがピッチャーを運んできたので、まるでその気配を読んでいたかのように手を伸ばして受け取った。そのまま治療もローにバトンタッチしたシャチがピッチャーから手を離す。サングラス越しの目線がニイナの胸元に滑り、思わず口から零れ落ちた「……でっか」と言う声はローにしか届かなかった。だがローに届いたことにより、彼は反射で手元にあった包帯をシャチの頭に投げつけた。

「えっ、えっ!? キャプテンなにしてるんですか!?」
「……手が滑っただけだ」

 そんな角度では手が滑らないことくらい誰でもわかる。柔らかい包帯といえど豪速球に近い塊を頭に受けたシャチは命からがらその場から逃げ出した。まだ混乱して喚くニイナを黙らせるようにピッチャーを傾けて胸元へ水をかける。

「いったー!」
「うるせェ。我慢しろ」

 赤い血が水で薄まって甲板へ流れ落ちる。綺麗な傷口のためそれ以上の治療は不要だとローは判断し、ガーゼを貼り付けた。しかし右胸に今回の勲章を受け取ったニイナはまだぶつぶつ文句を垂れていた。

「よし、あとは安静にしてろ」
「なんでこんな酷い仕打ち受けなきゃいけないんですか……。今回私頑張ったんですよ……?」

 泣き真似をするニイナとほぼ同時に立ち上がる。ツナギの袖を腰で巻き、刻まれたインナーを手にしたニイナはそのまま船内に戻るようだった。その背に静止の声をかけたのは反射みたいなものだった。

「キャプテン? 戻らないんですか?」
「その格好で彷徨く馬鹿がいるか。痴女でもあるまいし」
「なんつーこと言うんですか。真っ直ぐ部屋に帰りますし、気にする人もいないと思いますよ?」

 確かにこの船にいるクルーなら問題はないだろう。戦闘後ということもあるし、それくらいの露出なら一目見て終わりだ。しかしその視線が彼女の肌を撫でるのかと思うとローは吐きそうな不快感を眉間に刻む。

「お前は何とも思わないのか」
「状況見れば分かるじゃないですか。 それに、キャプテンだってさっきイッカクの胸見ましたよね?」

 見られていたのか、と何故か後味の悪い思いをした。しかしそれは瞬時に治療のためだという言い訳で上塗りされ、表情一つ崩すことなくニイナを見下ろす。
 医者として治療のためなら女の裸体くらい見る機会はいくらでもあるし、人命救助という場面で性的興奮をするわけもなく。先程抱いていた女は娼婦でイッカクは手当てをするべきクルーだった。だから目の前のニイナにだって同じことを言えるはずだ。

「そうだが、違う」
「何が違うんですか?」
「……俺が嫌なんだよ」
「えっ?」

 体を冷やすな。風紀を乱すな。女としての自覚を持て。他のクルーに迷惑をかけるな。
 零れ落ちてしまった言葉は、心の中で思っていた言葉と大分違った。ローは今し方自分が何を言ったのか覚えていないが、状況を見て言葉にするべき言葉を吐かなかったことは察した。口を固く紡ぎ、着ていた服を豪快に脱ぐとニイナに被せた。

「うッ」
「戻るならこれ着てからにしろと言った。流石に半裸の女を船内にのさばらせるつもりはない」
「それは……あ、キャプテンいい匂いですね!」

 文句の一つでも言おうとしたニイナの声が瞬時に歓喜の声に変わった。視線を外していたローはすぐにニイナを視界に映す。
 被せたはずの服を抱きしめてその匂いを嗅ぐニイナに下品だと罵ってやろうとした口が何故か開かない。その理由として、今日は香水を付けてないからだった。洗濯の洗剤は皆共通の物なのでわざわざ香りについて言及はしないだろう。ならそれは一体、と思った所で気付いた。娼婦のもとで焚かれていた香のことを。
 ローの行動は素早かった。渡したばかりの服を奪うように剥ぎ取り、能力を展開し、自室へと場所を移動した。昼間の日差しの下から薄暗い室内へと瞬間移動したせいでニイナは瞳孔の収縮のため瞬きを繰り返す。

「なん、ですか急に……」
「それは覚えなくていい」
「はい?」
「こっちが俺の香水だ」

 まるで性の臭いで汚くなったように思える服をソファに放り、クローゼットから白いシャツを取り出したローは机の上に置いていた香水を一つ振りかけた。それをニイナ目掛けて放れば、彼女は愛玩動物のように顔を埋める。

「んー、こっちもいい匂いですね!」
「どっちが好みだ」
「こっちですね。男の人の匂いがする」

 うっとりとするように目を細め、円やかな声で安堵の一言を吐く。ローは目の前のニイナを憎く思った。その衝動のまま押し倒してその身全てを暴けたらどんなに楽になれるか。しかし浅はかな情動を理性で飲み込み、色々な理由をつけて何とか自身を律することができた。何故そんな突飛なことをしてしまいそうになるのか。体が自分の意思とは別の何かに動かされているような気持ち悪さがあるというのに、心はそれに従えと促す。その辺の女と、目の前のニイナ。両者の違いを知りたい。そしてそのあとに残された感情を何と呼ぶのだろうか。

「明日、この香水借りてもいいですか?」
「……何故だ」
「男避けです。明日本当はイッカクと出かける予定だったんですがあれじゃ動けないでしょうし。一人だと声かけられることもあるので、あしらうための口実が欲しいんです」

 耐える喉元から唸るように捻り出した言葉を無下にするような、なんの屈託もない笑顔だった。確かにニイナは顔立ちが整っている部類に入る。容姿だって申し分ない。過去の島でだってナンパされるところを見てきたことがある。
 しかしローは今まさに雷が走ったように理解した。彼女が誰かのものになると想像したことはなかった。無論どこの馬の骨とも知れない男にやるつもりもなかったが、心を動かされあまつさえ奪われてしまうことなど考える由もなかった。
 一度そう思ってしまえば心底恐ろしかった。そしてその恐怖の谷へ自身を容易く突き落とすことのできるこの女へ苛立ちが募った。
 そして、それが答えだということに今ようやく気付くことができた。

「……なら明日は俺も出る。今回頑張ったなら褒美が欲しいだろ? ランチでいいか?」
「いいんですか? やった!」

 ローの誘いであり、それが褒賞だと言われればニイナは簡単に浮き足立つ。罠を仕掛けられたのだと思いすらせず、純粋に喜ぶ顔をするニイナを横目にローは策略を練る。この女をどう落とそうかと。

「ならさっさと部屋に戻って明日に備えろ。男の部屋に長居するモンじゃない」
「みんな私を女扱いしないじゃないですか」
「それとこれとは違うだろ。その気なんてなくても男は女を抱けるんだよ」

 性的な女として見るのは簡単だが、クルーとしての肩書を遵守している。彼らはレディーファーストみたいな仰々しいことまではしないものの、気遣っていることくらいローは知っている。よく言えば平等な扱いだ。だが今くらいは女と男という性の違いを言い訳にさせてほしいと願った。
 ローはニイナに背を向けて、朝散らかして行った机を意味もなく片付けていた。そうすればもう自分が相手されないと理解して大人しく部屋に帰って安静にしてくれると思ったからだ。これは最後の忠告のようで、本心からニイナには治療に専念してほしいと思ったからだった。

「……この匂いをつけた女みたいに?」

 それを踏みにじるような、鋭く低い声がローの心臓の隙間を通って行く。射抜かれた衝動を追うように振り返れば、そこには知らない女≠ェいた。肌蹴たように羽織ったシャツから覗く白く柔らかい肌が青ざめている。その手には先程放り投げた服を手に、匂いを辿るように顔を近付けている。嫌悪の表情と冷めた瞳は今まで見たことも、ニイナがそういう表情をすることなど想像したこともなかった。一瞬目の前の女が誰かわからなくなる。まさか、そんな感情があると露ほどにも思ったことはなかった。

「……冗談ですよ。約束忘れないでくださいね」

 なんでもない風を装って笑っていても、余韻は色濃く残る。貼り付けたような笑顔と捨てられるようにソファに投げられた服。乱暴に羽織ったシャツと乱れた歩幅。ドアノブを掴む手がいつもより力んでいたような気がする。
 余裕がないのはお互い様だった。

「……キャプテン?」

 その声はか細いというのに、よく耳にまで届いた。恐らく僅かに開いた扉を背後から手を伸ばして閉ざした音が想像していたよりも大きかったからだろう。ニイナは振り返らない。その声には疑問に隠れてこれ以上踏み込むなという制止も含まれている。ローは勿論それを分かっている。理解してもなお、彼は歩みを止めない。

「純情なフリはもうやめろ。そんな顔をして、もう誤魔化せるなんて思うなよ」
「そんな顔、って?」
「嫉妬に塗れた女の顔だ」

 扉を塞ぐ手はそのままに、反対の手で彼女の顎を掬った。親指で輪郭の骨をなぞるように撫でる。ニイナの呼気が指先に触れ、顎先に到達した親指は今度は唇の境界を馴染ませるようにゆったりと往復した。細く薄い肩から髪の毛と一緒にシャツが落ちる。自分よりも高い体温が放つ熱が、理性を緩く溶かして行く。
 不意に、ニイナが笑った。最初は唇が弧を描き、空気の振動でそれを悟った。次いでそこに声が乗り、喉を震わせたのだ。

「何が可笑しい」
「今更気付いたんですか?」
「……は?」
「私がどれだけ嫉妬に狂っても、貴方は見向きもしなかったじゃないですか」

 僅かに傾けられた頭からさらりと髪の毛が落ち、流し目で背後を見遣るニイナと目が合った。それにローは背中の産毛が逆立つのを感じた。殺気があるわけでもない。ただその瞳はとても暗く、嘲笑と自嘲の混じった青白い顔だった。

「もう疲れたんです。恋に身を焦がされ、嫉妬に平静を乱されることも」

 ニイナが顔を赤くするか図星を指されて不貞腐れるかを考えていたローにとって、その一言は予想していなかった言葉だった。何故ならニイナは確かに他の女への嫉妬を剥き出しにしていたはずだったのに。
 ローは全てが手遅れなのだと、今更ながらに気付いた。

「だからもう結構です。私はクルーで貴方はキャプテン。それで充分じゃないですか」
「……そんなこと俺が°魔キわけないだろ」

 だがしかし、認めるつもりも毛頭なかった。
 まるで怨嗟のような低く苦しみに掠れた声が、再び扉へ向き直ったニイナの頸へ落とされた。もうとっくに彼女が自分に向ける熱量は鎮火されているが、ローはそこへ火種を投入し、再熱させる手間さえ惜しまない。その格好がどれだけ無様であろうと、人の心を掻き乱しておいてあっさり自分だけ離脱するなど到底許せなかった。
 同じ苦しみを味わってほしい。同じ時間を共有してほしい。同じ質量で幸福を分かち合って必要だと寄り添って欲しい。きっとニイナにもそんな時があったのだろう。だがそんな狂いそうな執着にも似た舞台の上で、孤独に踊る虚しい夢から一人で勝手に覚めることなど到底許せなかった。
 どれだけ今更だと、手遅れだと言われようとローは諦めることを知らなかった。

「お前にとっては今更でも、俺にとっては今からだ。今から何度でもお前を口説く」

 一語一句に重量があり、噛み付かれるような鋭さがある。ドアノブを掴んでいた手はいつの間にか胸元で祈るように両手を握っていた。ニイナは項垂れたまま微動だにしない。僅かに揺れる肩は呼吸のせいか、それとも鼓動のせいか。ここに滞在する時間が長くなるほど、ローは理性の鎖が解かれていく音を聞いた。

「こんな情けねェ男に愛想が尽きたって言うなら出て行けばいい。半日の猶予は出来る。その間に俺を諦めさせる言葉でも考えていろ」

 ローは言葉の通り、扉に掛けていた手をずらして木枠の外へと置いた。壁の冷たさで己の熱量を知る。二人の間にはいつの間にか体温で温められた熱気が纏わり付いている。彼の気のせいでなければ、それは二人分だ。
 ニイナは気付いてはいるが、微動だに出来なかった。このままドアノブを捻って扉を開き、廊下へ一歩足を踏み出せばいいだけなのに。諦念の下で捨て切れなかった残滓が鮮やかに芽吹き始める。どれだけ止めることに専念しても、時間は許してはくれなかった。

「出て行かねェなら、今から≠セ」

 もう間合いに入ってしまったのだと知らしめるように、猶予を与えない男は獲物の背後から手を伸ばす。かつて自分が着ていたシャツを羽織り、自分の香りにした香水に包まれている女へ。薄手のシャツは彼の前では役に立たず、ボタンを閉めていなかったことが仇になった。手のひらが肋を撫で、胸元で結ばれていたセンターリボンを解く。ストラップレスの下着はそれだけで拘束力を失い、浮いたその布を押し上げるように隙間から指先が侵入して、肋と膨らみの境目をなぞった。無骨な男の指が女の柔い肌を撫でるアンバランスな感覚にニイナは酷く眩暈がする。
 ローは優越感に目を細めた。もうこの場に留まっていること。抵抗どころか言葉一つ発さないこと。そして、晒された頸が赤く染まっていることにも。

「……まあ、一回で充分そうだがな」

 早鐘を打つ心臓の鼓動をローは指先で感じていた。汗ばみつつある皮膚から乾いた指先を抜き取り、肩を掴んで女の体を無理矢理反転させた。一瞬目が合ったが、すぐにニイナは顔を逸らした。
 何が手遅れだ。そんな顔をしてよく言えたものだな、とローは愉悦に口の端を歪めた。あとは言葉一つで仕留められるが、それだけではまだ足りない。欲を自覚するほどに目の前の女の全てが欲しくなる。まずはガーゼの貼られていない左胸───いわゆる心臓の真上に、ローは噛み付いた。



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