小説 | ナノ
 そろそろ夕方が迫っている時間帯だった。空が昼の陽気を過ぎて白み始め、空気も熱を失いつつある。停泊しているポーラータングの中、船番をしているのは私だけだった。これからペンギンとベポが入れ替わりで船番をしてくれるので、それを待ちながら昨日の日誌をつけていた。天候や船の様子、クルーの仕事のこと、それから細かい不備や備品のことなど。頭を捻らせて思い出しながら記入するのは骨が折れる。本来なら記憶が鮮明なその日のうちに記入するものだが、私はどうしても昨夜のうちに書き上げられなかった。日誌の最後の時間帯、そこへ入れた用事のことを思いながら。
 日付が変わった瞬間から、この船の甲板で宴が催された。少し前に敵戦に勝利したことと、我がキャプテンの誕生日のためだった。島の崖側に位置するため、誰にも知られることなく賑やかにできるのは有り難かった。美味しい料理と美味しいお酒、派手に騒ぐための口実に気分が上向きいつもより騒々しかっただろう。主役であるキャプテンも口先に薄く笑みを溢しながらその宴を楽しんでいたみたいだった。
 日誌に書けるのはそこまでだった。その後はプライベートな話で、思い出すとどうしてもペン先が動かなかった。私とキャプテンは一年前から付き合っている。こちらから付き合ったことを公表したことはないが、いつの間にかクルーは全員知っていた。さりげなくベポに聞くと、キャプテンは分かりやすいと溢した。それが誰が見ても分かりやすい態度なのか、それとも獣の嗅覚なのか───私は深追いをやめた。付き合ったと言えど関係性の進捗は思ったよりも緩やかで、手を繋ぎ、ハグをし、キスをしただけの一年だった。別にお互いが初めての相手というわけでもなく、もう子供ではないのだからその先だって進もうと思えば進めた。だというのにキャプテンはキス以上のスキンシップは一切取らなかった。一応彼の男の矜持のために言っておくと、この一年は目まぐるしく、手を出す暇がなかったのかもしれない。何か調べ物をするとかで数ヶ月不在の期間もあった。だからそう、機会がなかったのだ。不満はないものの、少しだけどうにもならないもどかしさはある。そのもどかしさと宴の熱狂をも溶かす夜が、つい半日前に訪れた。
 まだ僅かに熱を帯びた溜息を吐き出す。その根源は今だ甘く疼き、油断すれば再度芽吹こうとするそれを日誌に集中することで落ち着かせた。昨夜、散々抱かれたのだ。宴の最中、盛況を過ぎたあたりにこっそり腕を掴まれて連れ出された。お互いほろ酔いの手前、気分が高まっていたのも相待って。別に私は私がプレゼント≠ニいう阿呆な考えを持っていたわけじゃないから、ちゃんとプレゼントは用意している。だけど熱に浮かれたのか、押しの強い彼と誕生日の特権という口実に流されて身を委ねた。本当のプレゼントはキスの最中にベッドサイドに放った。それから、身体の隅々を暴かれた。丁寧で過剰な愛撫と巧みに絶頂に押し上げられる手管に私は何度絶頂に追いやられただろう。彼の見たことない顔と、狂わせるほどの甘言。思い出さなくとも体は覚えている。知らないうちに内腿を擦り合わせていた。

「……はぁ」

 邪念を全て吐き出して、香りのしない冷めた珈琲で目を覚ました。今はこの日誌に集中しなくては。ペン先をインク壺に浸し、続きの線を引っ張る。昨日はバラストの不具合の修理を終え、次の島で造船所があれば見てもらう資料の作成。備品のチェックを行い、買い出しリストを作った。明日以降数人の係で買い出しよろしく、と。
 買い出しといえばそろそろ私物も買い足さなくては、と部屋の中のことを思い出すとまたペンが止まってしまう。明け方頃に目が覚めた私は、半ば記憶をなくすように彼のベッドに横たわっていた。私を抱き込むようにして眠るのはキャプテンのいつもの癖で、しかしその腕の中から抜け出しても反応がなかったのは珍しかった。よほど疲れていたのか、それとも私と共寝をするのに慣れたのか。後者ならとても嬉しく思う。そのため後ろめたさを感じながら船長室を抜け出した。だってこんなところ誰にも見られたくないし。その後シャワーを浴びて───鏡に映った自分では見えにくい場所のキスマークは見て見ぬ振りをした───部屋に戻って睡眠の続きを再開した。それで昼食の前に起き、見張りの番を代わりに行こうと身支度を始めるために体を起こすと、目の前に見慣れない高級ショップバッグやプレゼントボックスが転がっていた。酔って衝動買いしたわけでも、夢遊病の病歴があるわけでもない。こんなことをするのは一人だけだろうが、理由が明確にできない。とりあえず中を改めると小綺麗なパーティードレスと装飾品、果ては下着までフルセットで揃えられていた。いつこんなものを着るのだろう。普段着に出来るわけないそれは元に戻し、見なかったフリをして部屋を出たのた
 目の前の仕事に集中するために一度瞳を閉ざし頭を振るが、ダメだった。昨夜の宴のキラキラした光が瞼の裏に焼き付いて、目を開く度にその残像が濃くなりつつある空色を煌めかせた。小さな小窓から見えるその情景があまりにも遠く、郷愁にも似た寂寥を連れてくる。それがどこか薄寒くて、人肌恋しい。物寂しさに引き摺り込まれるように唇を薄く開いた。

「……会いたいな」
「───まだ書いてんのか」

 このがらんどうにも似た寂しさだけが漂う部屋に、背後から唐突に落とされた低い声に動揺した私は滅茶苦茶に取り乱した。跳ねた心臓のように机に両膝をぶつけ、急に伸ばした背筋の筋肉が悲鳴を上げ、咄嗟に吸ったものの迷子になった空気が気管に入って咽せた。せめてもの救いはインク壺を倒さなかったことだった。そんな私の様子を見て噛み締めるような笑い声を漏らし咽せる私のために背中を叩く彼こそが、私の会いたかった人間だった。

「きゅ、うに、能力使って背後に立たないでください!」
「ああ、これからは前に立つことにする」
「そうじゃありません!」

 首だけ捻って背後のキャプテンに憤慨するも、彼はどこ吹く風とばかりにクツクツと喉を震わせながら今だに笑っている。余程大袈裟なほどの驚愕を重ねた私の反応が見れて上機嫌なのだろう。こちらはまだ心臓が忙しなく血を巡らせている。───本当にそれだけの理由かと聞かれないことを、願って。

「で? 交代は?」
「もうすぐです。それまでには仕事も終えていますし、書き終わります」
「ならいい」
「すみません、サボってたわけじゃ……」
「そうじゃねぇよ」

 掠れた笑い声の尾を響かせた後、吐かれた言葉の端に色香が漂っていた。一瞬で彼の雰囲気が変わったのが分かる。金の瞳が瞬きの隙間で細められて、秋波を帯びる。息を呑んだことに気付かれてしまい慌てて机の方を向く。その最中に見てしまった。キャプテンのピアスが、私がプレゼントしたものにすり替わっているのを。昨夜事が始まる前にベッドサイドに投げただけなのに、彼にはしっかりと意図が伝わっていたようだった。
 夜の匂いが鼻腔の奥でする。比例して体温が上がっていく。昨夜そうしたように彼が覆い被さってきて、昨夜掴んでいた腰を辿るようになぞった。

「腰は痛まねぇか?」
「ッ!」
「痛かったら言えよ、俺のせいだからな」

 強張った肩と引き攣った声。わかりやすく熱がぶり返したことを知らせてしまった。低く薄く笑う声と共に人の体温が背中に近付いてくる。腰を往復していた手が前に周り、下腹部を柔く押す。隠すこともしない艶を滲ませて戯れるように私の髪に擦り寄り、耳の裏に口付けを落とした。現実に戻りたくてペンを強く握った。もう日誌は書けないのに、何かに縋らないと自我を保てそうになかった。まるで昨夜縋りついたシーツのようで。
 この人も私も、昨夜の延長線上にいる。

「きゃ、ぷてん……」
「そんな顔をするな。……唆る」

 理性を焼き切る熱に冒されている。ぞわりぞわりと何かが這い寄ってくる。吐いた息は自分が思ったよりも熱かった。もう私一人じゃ止められないことは知っていた。
 目の前にある乾いた航海日誌と文字の羅列が、昨夜突っ伏した薄暗い彼の部屋の枕に見えてくる。石鹸の香りと、鼻に馴染んできた彼の匂い。汗ばんだ二人分の皮膚と冷たくはないシーツ。そこでふと、背後から香水の香りが漂ってきたことに気付いた。気付いてしまった。背中の体温も上昇していることに。

「今日、この後暇だろ?」
「え、えぇ」

 湿度は変わらないものの、唐突な言葉に少しだけ現実に帰ってきた。だけどそれを許さないと言わんばかりに、机の上で握られていた手に大きな手が重なる。刺青を見れば誰かなんてすぐに分かる。自分のものではない体温がゆっくりと指を伸ばし、握り込むように掴んだ。昨夜もこうして背後から手を重ねられた。心臓が跳ねるせいで揺さぶられた強さを下腹部が思い出す。もうペンを持っていられなくて、代わりにその手で熱い顔を覆った。

「飯に行くぞ。もう予約は取ってある」

 告げられたのはこの島で一番豪華で有名なホテルのレストランだった。ハッとして僅かに顔を上げた。

「そんな高いところ……」
「アイツらが誕生日プレゼントだとかで換金しろってこの前奪った宝押し付けてきただろ。思ったより高値で売れたからな」
「でも今日はキャプテンの誕生日なのに、どうして……」
「わからねェか? こう見えて割と浮かれてる」

 言葉の通りニヒルに上げられた口角を見てしまって、すぐに視線を手元に落とした。汗ばんだ己の手の平を覆う浅黒い男の手が目に入ってしまって、行き場のない視線は反対側を向く。その隙間で辛うじて息を吸う。唯一残されたその逃げ場は彼によって意図的に与えられたのだと知らぬままに。

「着ていくドレスがないなんて言わせねェからな」
「あんな素敵なもの……着こなせる自信ないですよ。それに、貰ってばかりで……」
「今日くらい好き勝手させろ」

 空気が僅かに震えた。耳の後ろでその振動を捉える。脳に直接教え込まれるようでもどかしくなる。どう遠回しにしないで、余っている腕で直接触れてほしい。そんな私をまだ焦らすように重ねられた手が緩慢な動作で指の股を割り、側面をなぞる様に侵略する。最後の足掻きのように彼の人差し指を強請るような仕草で撫でた。

「それに、お前だけが貰ってばかりだと勘違いしてもらっちゃ困る」

 そんな私の精一杯さえ嘲笑う様に押さえ込んでいた手が呆気なく離れる。背中の体温も遠くなり、寒気だけが通り過ぎた。代わりにと机に打つかる固い音が手元に落とされた。目線がつられる。金の鍵とそれに付けられたキーホルダーの刻印ですぐに理解した。

「今夜、迎えに行く」

 フッと音もなく彼の気配が消える。代わりに落とされたのは冷めたカーディガンだった。そういえば椅子にかけておいたっけ。床に落ちてしまったのに拾い上げることは叶わない。目線も思考も固まってしまって、動けそうにない。
 レストランもドレスも装飾品も、どれもブラフにすぎない。彼は虎視眈々と待ち構えている。昨夜の延長線上、その続きを。
 呼吸も鼓動も体温も全て私を置き去りにした。突沸させるための一石は、たったそれだけで十分だった。



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