小説 | ナノ
「ねえ、私今日非番なんだけど?」
これで四回目の台詞を吐くも、通話先の向こうにいる後輩は譲らない。なんでこういうところだけ頑固なのだろう。捻くれた性格らしく拗ねて諦めてくれればいいのに。
『知ってます。だから先輩の家の近くだから頼んでるんですって』
「非番の人間を使うほど、うちは人手不足じゃなかったと記憶してるけど?」
わざと大きな音を立てて食器を段ボールへ突っ込む。これで察して欲しいところだが、私の後輩はこれくらいじゃめげない。
『僕と部下はこの前の横領事件の捜査で忙しいんです。他の人は出払っていたり、巡回で遠出しているし。だから近場なのは先輩だけなんです』
「うん、じゃあ数名呼び戻せばいいと思うよ」
『交戦中という連絡もあるので難しいです。どうせ外に出掛ける用事もなくて家でゴロゴロするしかないんでしょう?』
「う、うるせー!」
痛いところをチクチク刺してくる嫌味ったらしいこの後輩が、私は憎い。でも悲しいかな。こうして非番の時には着る必要のない制服に腕を通していく当たり、職業病を患っていると思うしかない。完全に後輩と職業に踊らされている。お見通しなのか後輩は話を続けていく。
『場所も標的も先ほどお話しした通りです。今日中にケリをつけないと明日の出航に間に合わなくなりますよ』
「ンンン、それは助けに来てくれないってことかね、頼りになる後輩クン?」
『なんで僕がそんな疲れることを……おっと失礼、僕は頭脳派であり先輩は脳筋派じゃないですか。役割分担ってやつですよ』
「フォローにもなってないんだよなぁ! 絶対本部に引き抜いてやんないんだからね!」
『先輩以上の方とパイプを作るので結構です。先輩の尻拭いも今日までかと思うと涙が出てしまいます』
「送別の涙じゃないことはわかったよ、クソ野郎!」
叩き切るように投げ置いた受話器に電伝虫が恨めしそうな目を向けてきた。少しだけ晴れた気がして、身を翻せば向こう脛を段ボールにぶつけた。電伝虫の呪いかもしれない。いまこの部屋は段ボールで溢れかえっている。殆どは梱包された殺風景な部屋の中で、常日頃身に纏う必要性の高い───正義の名の下にある制服だけはハンガーにかけられ、唯一すぐに手に取れるようになっている。
何故そういう風景を作り出しているかと言うと、先日昇進を果たした私は明日船に乗り、数日後に本部へ異動になるからだった。狭いワンルーム、水の出が悪い水道管、シンプルで可愛い壁紙。それなりに愛着はあるものの、ようやくこの部屋から解放される。錆び付いて軋む扉を開けると、温い夕方の空気が滑り込んできた。引っ越し先はもっと住みやすい移住区だと聞いた。それまでの辛抱だ。だから憎たらしいエリート後輩の可愛らしいお願いは聞いてやろう。これで最後になるだろうし。
「動くな」
後頭部にワルサーP38を突きつける。相手の得物は大振りとはいえ刀だからこの距離では此方の方が優勢だった。
後輩の情報通り、私の家の近くにあるお気に入りの静かなバーにヤツはいた。カウンターで一人きりの無防備な後ろ姿。馴染みのバーテンダーは私の制服姿を見て察しがついたのだろう、気取らない動きで隅の方に移動した。もうすぐ仲間も駆け付ける。それまでの辛抱。
「……一人で行動するなんざ、褒められたモンじゃねぇな。それとも天下の海軍様は人材不足なのか?」
「無駄口を叩く暇があれば今のうちに娑婆の空気でも吸っていたら?」
気付いていれば、少しは私も動揺したはずだった。普通は一人の海賊相手でも人数は集める。それを知っているというなら、かつても海軍に包囲され抜け出したことがあるということだ。先日階級が上がったばかりで、大振りの得物を持つ者が能力者ではないという決め付けの慢心。そしてこの男の言葉───私一人では役不足だと言うような挑発に溺れる。
男はロックグラスに入った氷を回し、一つ呷る。グラスの底がテーブルに固い音を残す時、ウイスキーの芳醇な香りが私まで届いた。後頭部に銃を突きつけられてその余裕ぶりを見せられて私は更に腹が立つ。だからその右手の動きにばかり気を取られて、左手を追うことを失念していた。
「ROOM=v
半円が私と男を覆う。それ自体に攻撃性はないと判断したものの、私の気を引くには充分だった。
「シャンブルズ=v
「……ッあ!」
気付いた瞬間には銃を持った手を背後に捻り上げられて、体を目の前のテーブルに叩き付けられた。一瞬の形勢逆転。くそったれ。慢心という油を使って後輩の口車に乗せられたに過ぎない私は能力者の前ではただの一般人と大差ない。
遂には捻り上げられた腕を伝う様に銃が零れ落ちた。体格差と能力者というアドバンテージ。もうこれでは私に勝ち目はない。でも、あと少しで仲間が到着する。命がある限り遅滞任務に移行するのが海兵としての務めだ。最後に面くらいは拝んでやろうと後方を睨め上げた。
今思い返せば今日はついてない。昨日深酒しすぎたせいで今朝の目覚めは最悪だったし、パンは焦げたし、休日出勤だし。
そんな言い訳を用意しつつも、結局私は相手を見誤っていただけなのだ。
「……ロー、くん?」
その固有名詞は考えるよりも早く出てきた言葉だった。脳裏に一人の男の子が掠める。郷愁や懐古の情が瞳の奥で薄い煙のように横切った。
その後の記憶は曖昧だった。
──────彼の怪訝そうな切長な瞳が音もなく見開かれたのはどんな感情を原動力にしたのだろう。思考を遮るように扉が乱暴に開かれる音がして、仲間が怒号を上げて駆け付けた所は記憶にある──────
──────どれだけ成長しても、その瞳や髪色は今も褪せずに覚えている。二人で話した取留めのないことはもう思い出せないけど、一瞬だけ笑ってくれた顔は忘れていない──────
──────鋭い舌打ちが発砲音の間に聞こえた。銃口が私なのか彼を狙っていたのかを確かめる前に、いつの間にか外にいた。正確に言うと、空の上。突然の浮遊感と屋根の上に受け身を取り損ねた落下の衝撃に耐えかねて、私は意識を手放した──────
──────今日まで彼のことは忘れていたし、こんなことがなければ思い出さなかっただろう。いや、思い出したくもなかった故郷だ。彼は同郷の唯一の生き残りであり、私の初恋にもならない感情を植え付けた人間だからだった──────
意識の浮上が始まると同時に、瞼が光に透ける。ぼんやりと知らない天井を見上げ、目を擦る。腕に点滴を刺されているのを確認し、海軍基地の医務室かと思って部屋を見回せば、こじんまりとした知らない医務室だった。知らない医療機器や知らない窓。人の気配はなく、閉ざされた扉の外にも靴の音すら落ちていない。曖昧で飛びつつある記憶を掻き集めて漸く結論に至った。
私は後輩から手が空かないから非番であろうと出動を乞われ、海賊がいるバーに突撃した。慢心のため形勢を逆転され、面を見ようと顔を上げたところまでははっきり覚えている。そう、その後だ。大人になってもどこか子供の頃の面影を引き摺っている同郷の男に会ったのだ。確か仲間が駆け付けたかと思ったら何故か空中にいて、驚いて受け身を取れなかった私は屋根の上に落ちたのだ。だから、これはきっと介抱されているのだろう。元同郷であり昔馴染みでもある、海賊の男に。
「……起きたか」
気怠げな眼差しをゆっくりと向ける。靴の音が近付いて来たことは知っていた。その手にコーヒーカップを持ち、感情を持たない仏頂面で何事もなく吐き出した男も、知っている。
トラファルガー・ロー。まだ駆け出しの海賊かもしれない。それか最近は忙しくて億超え以外の手配書を見ていないから気付いていなかったのかもしれないが。
「まさか海軍になっていたとはな……ニイナ」
ああ、名前覚えててくれたんだ。小さい頃の記憶を遡っても名前を呼ばれることは貴重だったかもしれない。
「……貴方は、海賊なんですね」
ここまで介抱されてしまっては海軍として海賊行為を止めなさいなんて言えない。だからこの再会は喜べない。何も言えないで見つめ合う気まずさから目を逸らすと、その先は自然と点滴へと移った。もう一度滑らせて彼の様子を伺うと、近くにあった丸椅子を手繰り寄せて座った。恐らく、長くなるのだろう。
「お前も俺も、代々生まれはフレバンスだ」
「……ええ」
忌まわしき白の記憶。それは世界にとっても、私にとってもだった。
母と生き別れた父は祖父母のいるフレバンスへと私を連れて帰郷した。彼の一家とは祖母の紹介で顔馴染みとなり、特に良くして貰っていたのが記憶にある。海軍である父は内陸とはいえ治安維持の目的で小さな駐屯所勤めだったし、不自由なく生活していた。名もなき奇病が流行り出したのは私が十になる直前だった。父は私のバースデーよりも仕事に没頭し、帰らない日が多かった。彼の両親も忙しかったから少しだけ一緒にいれる時間があったのだが、それもすぐに終わりを告げる。その病気の名前が珀鉛病≠ニいうものだと聞いたのと同時に、彼の妹が発症したのだ。
そこから日を追うごとに病魔の手はあらゆる方向へ伸び、進行の速度を増していく。そうなれば国内で収めることは出来ず、国外にも知れ渡ってしまった。奇異の目で見られるのはまだしも、やがては排除の対象とされてしまうのも時間の問題だった。迫り来る病魔と迫害の戦火に怯える夜は長い。明日の自分はどうなってしまうのだろうと震えていれば、ある日突然父が家に帰って来て私の手を掴んだ。久方ぶりの父に喜ぶ暇もなく、荷造りもそこそこに夜逃げ同然で海軍の手助けを得て亡命した。後に聞いたことだが、王族が亡命するための警護のおこぼれらしい。
私はその後を知らない。ただなんとなく彼の妹はもう助からないだろうと薄情にも思っていたし、フレバンス壊滅のことは紙面上で一度見たら吐いたのでそれ以上は見なかった。生まれ育った国、白い建物、優しいシスター、肩を並べていた友、そして彼のことさえも。
「なら、考えなかったか?」
「何を?」
「自分の体の中にも珀鉛があることを」
一気に血の気が引いた顔で、バネのように飛び起きてしまった。点滴がズレないように彼が腕を押さえるからそれ以上は身動きできなかった。むしろそれが私を少しだけ冷静にした。ただ彼は酷い顔をした私を何も言わずに見つめている。きっと騒めく胸中を治めてから聞いた方がいいと判断したのだろう。そういう賢くて相手のことを思うところは変わらない。
途中で逃げ出した私は珀鉛病のことをよく知らない。ただ小さい頃から周囲にあったあの真珠にも負けない美しい珀鉛が恐ろしいものとされていることが理解できなかったのだ。しかし、その病名にもされているようにやはり珀鉛が原因なのだろう。鉛中毒というものも聞いたことがある。つまり僅かながらも蓄積されていったものが悪影響になるということだろうか。
「え……なん……どう、いうこと……?」
「昔から身近にあった特産品が害だとは思わなかっただろうな。ましてや、ガキの頃なら尚更。でももう難しい話も理解できる年頃だろ、俺もお前も。受け入れろ」
上部は突き放すような声色を装っていても、真意は私の身を案じてくれている。冷たく切れるような瞳でも、奥底には私を心配してくれている。この距離感だってきっと、私を守るような。
ねえ、そうだって信じて良いんだよね?
「幸いお前は二親等前からフレバンスに住み始めたから珀鉛の量は少なかったみたいだな。これから治療を重ねて少しずつ取り除いていけば完治はするだろう。まだ発症はしていないようだが、何か体調に変化があれば言え」
「……え? ち、ちょっと待って……珀鉛病って完治するの!?」
珀鉛病は不治の病のはずだった。だから彼の妹ですら対症療法でずっと苦しんでいた。お隣のおばさんだって、花屋の主人だってそうやって治療できずに死んでいった。それが、治療できるというのだ。まあよく考えてみれば、目の前にいる彼がこうして肌に白点もなく生きていることが事実だと証明していた。そんな当たり前のことくらい分かるだろうと言うように投げやりな視線を向けられる。
「じ、じゃあさ、みんなは無事なの!?」
希望の一筋の光量を、測り間違えた。あまりの眩しさにその瞳が鋭く細くなったのを、見過ごしてしまった。
「アニーやジェシカ、ヨナスは!? シスターや貴方の妹ももちろん無事なんだよね!」
「……お気楽なものだな」
「え?」
細くなった瞳が憎悪の重さでゆったりと瞬きをし、忌々しそうに舌打ちを溢した。身を翻した彼は部屋の隅にある棚へ近付いた。ガラス張りの扉を開け、綺麗に纏められたファイルだらけの中へ手を突っ込む。いくつか引き抜き床にばら撒いた後、奥底に仕舞われていた紙束を取り出す。封じ込めていた記憶の重さが私の膝下へのしかかる。
新聞の切り抜きが主なその紙面は古いのか所々黄ばんでいる。細かい文字は幾つか掠れているものの、私にとって見出しさえ目に入れば十分な情報を得られた。新聞とはそういう風に作られているから、彼もこうして切り抜いているのだろう。
『白い国、フレバンスにて謎の奇病』『伝染性のものか? フレバンスに広がる白い斑』『珀鉛病』『珀鉛の恐ろしさと渦中に住む国民』『珀鉛病は国内蔓延中! 周辺諸国、国境を封鎖』『フレバンス周辺諸国への発砲、鎮圧に向け海軍が動く』『フレバンスの抵抗続く』『政府はフレバンス国内の掃討を決意』『珀鉛病の源を根絶=x
──────ああ。
あの美しかった国が、燃え盛る白黒の炎に舐められて建物が溶かされていく。代々受け継がれていた一大産業が毒物だと誰が思っただろうか。
あの優しかった人々が、珀鉛に体を蝕まれ無惨にも血を流し倒れている。珀鉛に身を侵されるか、反逆者だと罵られ抵抗する間も無く命を奪われるか。どちらにせよ命は潰えるとしても、その選択はできなかった苦しみは計り知れない。
あの華々しかった思い出達が、たった数枚の紙切れに吸われて褪せていく。全ては虚栄だったと。違う国のお伽噺を夢見ていたのだと言われているように。
「思い出ってのは美化されるが、現実はそうでもねェよ」
吐き捨てるような彼の言葉ががらんどうの脳内に木霊する。のうのうと生きていた私の全てが否定されたようで、どうしようもなかった両手で顔を覆うことしか出来なかった。