我ながら、難儀な恋をしていると思う。
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次のプロモーション撮影の為、とあるスタジオで打ち合わせをした帰り道。どうせ同じ方向に帰るのだからと、寿さんの車で送ってもらっていた。グリーンのボディをした柔らかい雰囲気のその車は、寿さんのイメージにとても合っている。折角乗せるのだからと後部座席に座ろうとした私を止めて、寿さんは私を助手席に座らせた。
ふわりと香るシトラスの香りは、きっと寿さんが愛用している香水の匂い。後部座席のブランケット。鍵についたオドロキマンのキーホルダー。どこを切り取ってもそれはこの車が寿さんのものであることを示していた。
「いやー今日もおつかれちゃん」
「お疲れさまでした」
「ほんと、どうなることかと思ったけど、終わって良かったよー」
「そうですね。次も予定は詰まってますし……」
ねー、と寿さんが眉を下げて笑う。
今回の撮影を指揮する監督さんは個性的なこだわりを持っている方で、コンセプトを決めるまでに何時間も費やした。バックで流れる曲を担当させてもらうことになった私も、今回話し合いに参加させていただいたのだけれど。関係者が一同に延期かと呟く中、監督さんのふとした閃きにより、何とか予定時刻より二時間オーバーというところで決着がつき、次に集まれるのがいつになるかわからない、そういった状況にあった寿さんはほっと胸を撫で下ろしたのだった。
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時間も時間だったためもう外は真っ暗になっており、ライトに照らされた寿さんの横顔を助手席から何度か盗み見る。寿さんのパートナーとして作曲活動を続けるようになって、早一年が経とうとしているが、いまだに彼の隣にいることには慣れそうになかった。
「ねえ、そういえば君って初恋のことを覚えてる?」
「……え?」
唐突に投げ掛けられた質問にはてなが浮かぶ。すっとんきょうな声を出した私に、ごめんごめんと寿さんは謝って、それから順序を追って説明してくれた。
今度のインタビューのテーマが初恋であること。自分の初恋なんてもう覚えていないこと。誰かと話せば思い出せるかも、と考えていろんな人に訪ねていること。「ほら、ぼくもう結構歳だから」と寿さんは笑っていたけれど、笑い返していいものなのだろうか。
「ランランに聞いたときにはすごい剣幕で怒られてねえ」
「目に浮かびます」
「ははっ。アイアイは恋自体わからないって云い出して、『ねえ嶺二、具体的に恋ってどうなることなの?』って」
「それ美風くんの真似ですか?」
「どう? 似てるでしょ?」
ちらりと瞳だけをこちらに向けて、悪戯っ子のように目を細めて笑う。その動作にすら心が跳ねる。
本当に難儀な恋心だ。アイドルに、恋をしてしまうなんて。
ぼけっとする私を我に返らせたのは寿さんのおどけた声だった。
「それで、どう?」
「似てましたよ?」
「ちっがーう! 初恋だよ、は・つ・こ・い」
「そちらですか……」
寿さんは視線を前に戻して、どう?どう?と興味津々の様子であった。
初恋が、初めて人を恋しく思うことだと定義されるのならば、私にとってそれは今だと思う。こんなに、胸を締め付けられる思いは二十年間生きてきて初めてのことだった。
俯いて、自分の足元に目線を落とす。ヒールの高いパンプスを履いて、見えないくせにネイルまでして。そうやって自分を精一杯着飾るのも初めてのこと。
「そうですね。私にとっては……今、かもしれません」
「えー! うっそ! 誰、誰?」
「こ、寿さん、前を向いてください!」
私の答えが予想外だったのか、寿さんは運転中にも関わらず助手席の方に身を乗り出してきた。こういうこの人の子供っぽいところにも惹かれている自分がいるのだから、失笑ものだ。
相も変わらず誰?を連呼している寿さんに内緒ですと答えを返すと、唇を尖らせてしまった。
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云えるわけがない。アイドルには恋愛禁止というルールがある。伝えたところで寿さんの迷惑になることなんてわかりきったことだった。私と彼との間には超えることも壊すこともできない高く分厚い壁があるのだ。
作曲家仲間の七海ちゃんの恋人はアイドルだと聞くけれど、彼女は一体この壁をどうやって壊したのだろうか。私には到底、できそうにない。
「ダメなんです。その人は手の届かないところにいる人だから」
「そうなの?」
「はい。ほら、良く云うじゃないですか、初恋は実らないって」
車が赤信号で止まる。クーラーの音だけが響く沈黙が私には痛くてたまらなかった。
ふと、寿さんがこちらを向いた。とても楽しそうな顔で。何事かと口を開くより先に、彼の落ち着いた声が耳をくすぐる。
「じゃあその初恋、ぼくにちょうだい?」
「へ?」
寿さんが発した言葉の意味を咀嚼する前に、爽やかなシトラスの香りが近づく。唇に柔らかな温もりが一瞬当たったかと思うと、すぐに離れていった。目の前には、寿さんの笑顔と、赤から青に変わる信号機。
「初恋は実らない、なんて迷信だよ。名前ちゃん」
どういう意味ですか、といまだに事態が飲み込めていない私を無視して、寿さんが楽しそうに「青信号だ! レッツゴー!」と片腕をあげている。辛うじて、「お腹空いたね。どこか寄ろうか?」という質問にだけ、頷くことができた。
緩やかに発進する車の中、助手席に座る放心状態の私の隣で、運転席の寿さんは楽しそうに鼻唄なんか歌っていたのだった。
ペパーミントの初恋
企画サイト「僕のレディ・プラチナ」さまに提出
13.07.02