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羽宮一虎の憂鬱


※単行本23巻軸




憂鬱だ。何がってそんなの一つに決まってるじゃないか。

「はぁぁぁ…俺ら今度こそ終わりかもしんねぇ」
「へぇ、また喧嘩したんすか」
「またって言うな、今月入ってからは初めてだわ」

ディスプレイ用のケージを掃除しながら深く長い溜め息を吐いた俺に最近入荷した仔猫の身体チェックをしていた千冬から呆れたような視線が飛んでくる。

「どーせ原因一虎くんなんでしょ。今度は何したんすか?記念日でも忘れてパチンコで大負けしたとか?」
「千冬お前すげーな…なんで分かんの」
「うっわ…マジクズだなあんた」

そう言った途端、呆れなんて通り越したと言わんばかりのじとっとした目で俺を見やる目の前の男に「ちげーんだって」とやや遅い弁解を始めてみる。そう、俺は何も遊びで諭吉を何枚も握り締めパチンコへ向かったわけではないのだ。

先日はナマエと付き合って三年目の記念日だった。お互い三十路という人生のターニングポイントを間近に控え、そろそろきちんと責任を取らねばと思っていた俺は彼女にプロポーズなるものをすべく指輪を探しにジュエリーショップへと足を運んだのである。そこで知った。こんなちっぽけな鉄の塊が何万…下手すりゃ何十万とすることを。

質屋のCMでよく見る、給料数ヶ月分の…なんて代物はさすがに今の経済力では無理だと早々に諦めた。こういうものは値段じゃない、大事なのは気持ちだろうと。けれど、あまりに安っちいのも違うかとせめて二桁いくかいかないか程度のものに…そう考えたのだが残念なことに手持ちがあまりなく。

そうなると頼るべきは例のカードしかないのだが、一年近く掛かり最近ようやくリボ払いを完済し終えたばかりの俺は日和っていた。大した額ではなかった筈なのに、これもう永遠に消えないのでは…?と思わされた負債にとんでもなく痛い目を見たのだ。クレジットカードなんてこの世から消えればいい。一時期本気でそう思った。そんなわけで後は察して欲しい。つまり残された道はこの一つしかなかったと。

「さすがに負けた時のこと考えましょうよ」
「分かってねーなぁ、んなこと考えれりゃギャンブルなんかやんねーんだよ」
「なるほど、ただのバカか」
「おーバカだよ俺は、どうせバカですよ」
「うわ拗ねた、面倒くさ」
「はぁ…ほんとやらかしたわ。結局、家で飯食って喧嘩するだけの最悪な記念日になったし、指輪も買えずプロポーズも出来ず…なんなら今月の生活費も渡せなくなっちまってさ。さすがにこれはまずいと思って土下座までしたんだけどダメだったブチギレだった」
「何やってんすかマジで…」
「はぁ…今日の朝も口聞いてくれなかったんだよな…なぁどうすればいいと思う?」
「いや知らねぇわ…許してくれるまで謝り続けるしかないんじゃないですか」

そう冷たく言い放った千冬の背中に向かって「つめてー」ぼやけば「自業自得でしょうが」絶対零度の眼差しでぴしゃりと正論パンチをかまされる。こいつなんか最近カリカリしてんだよなぁ…生理前?ぼそっと呟けばケツに本気の膝蹴りを受けた。アホほど痛かった。一応先輩だぞ俺、敬えや。



時刻は0時を少し過ぎた頃。おそるおそる開けた玄関ドアの向こう側、静まり返った暗闇に目を落としそろりと足を忍ばせる。きっとナマエはもう寝ているのだろう。物音ひとつしないリビングに足を踏み入れ一息ついた。

こんな時間まで無理矢理酒の席に付き合わせた千冬には「付き合うのはいいけど、ちゃんと仲直りしてくださいよ」とお灸を据えられた。分かっている。分かってはいるけれど、何もかも上手くいかないことばかりでむしゃくしゃする。

今日何度目かの深い溜め息を零し、ドアの隙間から寝室を覗けばベッドの中で規則的な寝息を立てるナマエの姿がある。そろそろと近付き顔を覗き込むとあどけない寝顔を晒す、愛しい人。

ナマエとはこの先もずっと一緒にいたいと思っている。けれど正直、俺は結婚というものに向いているのだろうかと漠然とした不安にも襲われる。

自分の育った家庭環境がまともじゃないことくらいは知っている。日常的に振るわれる暴力、根底に染み付いた歪んだ情緒。温かさや安らぎとは無縁の家族ごっこしか身に覚えのない俺に彼女のこれからを背負い幸せにすることが果たして出来るというのだろうか。

もしかしたら自身の父と母のようにうまく営むことが出来ず壊れてしまうかもしれない。俺もいつかあの人みたいに躾だなんだと理由をつけて弱者に暴力を振るう最低な男になるかもしれない。そう思うと恐くて苦しくて哀しくて、呼吸の仕方まで忘れてしまいそうになる。

「っ…」

ナマエの寝顔がぼんやりと霞んでいく。頬を伝って落ちていく涙がダブルサイズの掛け布団に染み込んでいくのをただただ眺めながら漏れ出しそうな嗚咽を堪えていたら布団の中で小さく身動ぎをした彼女がまだ覚醒しきらない瞳を引き摺りベッドサイドに立ち尽くす俺を見上げる。

「……かずくん?帰ったの?」

寝起きで掠れたナマエの声が俺の名前をのろりとなぞる。いつだってどんなに喧嘩をしてたって、その声を瞳を向けられるとカラカラに渇いていた筈の心は潤い満たされる。さっきまでの恐怖や憂いが消えていく。だけど一度零れた涙だけはどうしても止まってくれなかった。

「……っうん」
「…え、泣いてるの?なに、どうしたの」
「ナマエが、俺のこと無視するから」
「ふふ、そっかごめん」

呆れたように、困ったように笑った彼女が「でもかずくんが悪いんだよ」酷く優しい声音で呟き身を起こす。

「お金、使い過ぎたら困るのかずくんでしょ」
「……うん、ごめん」
「ん、今回だけ許してあげる。次からは生活費は使い込まないこと」
「…はい」
「いいよ、仲直りね」

そう言うなりにっと口角を上げて笑ったナマエの穏やかな顔に耐えていた嗚咽がついに堰を切ったように溢れ出して。

「もー泣き虫なんだから」
「だって…」

ぐずぐず、鼻を鳴らす俺の手に小さくて温かい手が触れる。宥めるように柔く握られた手を強く握り返せば「力つよ」だなんて揶揄うように笑ったナマエがまっすぐに俺の目を見てこう言うのだ。

「誕生日おめでとう、かずくん」
「…え?あ、そっか今日……」
「うん、生まれてきてくれてありがとう」

出会えてよかった、なんて。

そんなん…全部、俺の台詞だよ。


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