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暗転 乾青宗


※本編に入りきらなかった出会いのお話
※イヌピー視点 回想




初めて会った日のことをきっと君は覚えていないだろう。消毒液のにおいと何もかもが真っ白に彩られた歪で妙なあの始まりを。俺は今でも忘れられない。無垢な優しさに満ちた手と君の笑顔に救われたこと。



何年前だろう。詳しいことはもうあまり記憶にないが自宅を全壊させたあの火事で左の額から頬にかけ酷い火傷を負った。処方された痛み止めを飲んでも毎夜灼けつくような痛みが走るその場所は整形手術をしない限りは確実に痕が残るだろうと医者は宣い、その言葉に親は目に涙を溜めて静かに泣き崩れた。…しかし俺は今でもその涙が向かう先はおそらく自分ではなかったのだろうと思っている。

全身重度の火傷に蝕まれた華奢な身体。痛々しい包帯だらけのその下を見ることは未だに叶わないがきっと想像以上に酷いのだろう。赤音…俺の姉ちゃん。五つ年上の彼女はいつも朗らかに笑う優しいひとだった。

赤音はなんとか一命を取り留めたものの治す為には莫大な治療費が必要だった。俺と赤音を間違えて助け出したココが汚いことに手を染めるのを見ても、両親が肩を震わせさめざめと泣く姿を見ても何の言葉も掛けられない俺はいつもガラス張りの向こう側にいる姉に会いに行く。

どこにも希望はない、目の前に広がるのはただただ深淵。そんな時はいつも机上の空論を展開する。もしもこうなったのが赤音じゃなかったら…俺だったら。おそらくこれほどまでに彼らが追い詰められることはなかっただろう。日に日に憔悴していく両親や険しいココの顔を思い出して心が死んでいくようだった。

顔半分に負った火傷が疼き痛む度、これ以上酷いだろう彼女は一体どれほどの痛みに耐えているのだろうと漠然と思う。声を出すことも動くことも出来ず、ベッドの上でいろんな器具に繋がれてギリギリ生かされている大好きだった姉。

…赤音は知らないだろう。ガラス一枚隔てた向こう側で残された側の人間がどんな気持ちで自分のことを見ているかなんて。

もう、楽になっちゃえばいいのに。心の中でひそかに咲いた、おおよそ家族に向ける感情ではない仄暗いそれに自分自身驚いた。姉に、家族に、一瞬でもそんな恐ろしいことを考えてしまうなんて。

「…っごめん」

それは一体誰に向けた言葉だったんだろう。もう何もかも分からない。返事をしてくれる相手なんてどこにもいないというのにひたすら謝罪を繰り返しながら床を濡らす自身の涙を見つめていたら。

「…あの、だいじょうぶ、ですか?」

聞こえたのはこの場に似つかわしくない、酷くやさしい声だった。涙を拭うこともせず、のろのろと声がした方に顔を向けるとそこには見知らぬ女の子が立っていた。目が合った途端小さく肩を震わせたその子は何も答えない俺を警戒しているのか、おずおずと近付いてきたかと思うと片方の頬だけ濡らした俺に気遣うような視線を飛ばした。見たところ大して歳は変わらないだろうあどけない顔付きの少女は何を思ったかポケットの中から柔らかそうなハンドタオルを取り出す。

薄ピンク色のそれをそっと包帯が巻かれていない方の俺の目に当てがったかと思えば何故か彼女まで泣き出してしまいそうな顔で「いたいの…?」なんて聞いてくるからずっと、必死で堰き止めていたものが崩壊しそうになる。小さくて温かいその手に縋りつきたくてたまらなくなる。

「…うん、いたい。いたいんだ、ずっと…治らないんだ」

火傷の痕も心も、何もかもずっと痛い。痛くて痛くて仕方がない。ハンドタオルに収まりきらないほどぼろぼろと涙を流す俺を見て焦ったように「大丈夫だよ、先生がちゃんと治してくれるよ」「だから泣かないで、ね?」まるで諭すような声で音で心を掬おうとしてくれた君は幼い子供にするように最後ゆっくりと俺の頭を撫でて「よしよし、もう大丈夫だからね」そう言った。

それは一度どこかで体験したことのある光景だった。今よりももっともっとガキだった頃、悪戯がバレて母親に叱られ大泣きをしている俺のところへ困った顔でやって来た赤音。俺の身体をそっと抱き寄せ頭を撫でて「青宗、よしよし、もう大丈夫だからね」宥めるように放たれた柔い言葉と慈しむような姉のそれにとてもよく似ている気がした。

気付いたらその子の前で声を上げて泣いていた。何が辛いのか、悲しいのかはもはや分からなくなっていた。溢れ出る涙は一向に止まる気配はなく、俺の涙を吸いつくしたハンドタオルはあっという間にびしょ濡れで。当てがっていたそれがもう何の役にも立たないと悟ったらしい彼女は拭うのをやめそっと俺の身体を抱き締めた。ゆったりとしたリズムで背中を叩きながら「大丈夫だよ」「もう痛くないよ」そう繰り返す自分よりも小さな女の子の肩に震える瞼を押し付ける。

怖かった…あんなことを一瞬でも考えてしまった自分が。本当にこのまま赤音がいなくなってしまったらココは、両親はどうなってしまうんだろう…俺は、どうなってしまうんだろう。きっと想像しがたい痛みや苦しみが待っている筈だ。そんなこと少し考えれば分かるだろうにあの一瞬、俺は自分を取り巻くこのすべてから解放されたいと願ってしまった。

小さな俺の頭を手慣れたように撫でる薄い掌も、「青宗」鈴を転がしたようなあの声も、自分とよく似た笑顔もすべて、もう二度と見られなくなったら…そんなの絶対に嫌なのに。


「…ごめん…その、」
「もう大丈夫?」
「…うん」

その子は一頻り自分の肩で嗚咽を漏らしようやく落ち着いた俺を見てほっとしたように笑った。片方だけ異常に濡れてしまった肩を気にも留めずに「じゃあ私お母さんに用があるから、またね」そう言って来た方とは逆側へと駆けていった。年下だろう少女に縋り、ガキみたいに声を上げて泣いてしまった情けない自分を気恥ずかしく思いながらも不思議と気分は晴れていた。腫れてしまっただろう瞼を押さえ笑みをこぼす。

「またね、か…」

それから病院内で彼女と会うことは二度となかった。赤音が死んで、両親は壊れた。俺も徐々に歪んでいった。ココも一人で何かを背負いずぶずぶと闇の中に堕ちていった。俺はそうなることが分かっていて何も出来なかった。何も出来ず、変わっていくすべてをただ見ていることしか出来なかった。

あの日出会った、名前も知らない小さくて温かな少女とはあれっきり。きっとこの先も二度と会うことはないのだろうとそう思っていた。



暴走族に入ろうと思ったのはそれからしばらく経ってからだった。地元のワルい先輩に連れられてやって来たバイク屋。堅気だろう真面目そうな雰囲気を持つ店主のその人を普段悪さばかりしている怖い先輩たちみんなが慕っているのを見て不思議と自身も惹かれていくのを感じていた。

真一郎くんは天真爛漫な人だった。よっぽどバイクが好きなのか、いつもキラキラした目で店に並ぶ何台もの自動車を見ていた。憧れからそっと窺うように見上げた俺に気付くと彼は到底年上とは思えない無邪気な笑顔を浮かべ「かっけーだろ」と自慢げに胸を張るのだ。

平日の昼間、さほど親しくない俺が一人で店にやって来ても特に咎めることはせず「おう、どした青宗」そう言って店先まで出迎えてくれる優しくてかっこいい真一郎くんのことが俺は大好きだった。

そんなある日のことだ。俺は今日も彼の店へと足を運んでいた。鼻歌なんて歌いながらバイクの整備をする真一郎くんを壁に凭れてぼんやり眺める。工具が奏でる甲高い音や時々鼻につく独特な油のにおい。ここにあるすべて、彼が織りなす空間こそが俺にとっての楽園だった。

「真ちゃん」

そんな楽園に突如やって来た来訪者。音を立てて開いた店の扉の向こうから現れたのはランドセルを背負った少女だった。小走りで店内へと入ってきた女の子はバイクを弄る真一郎くんの隣に立つと「お疲れさま」と目尻を下げる。…その声に、顔に、俺は確かに見覚えがあった。そう、彼女はかつてあの病院で一度きりの邂逅を果たしたあの女の子だった。

「おう、なまえか」
「はいこれジュース、差し入れ」
「まじ?さんきゅ、なにお前が買ってくれたん?」
「そうだよ、毎日お母さんのお手伝いして稼いだの」
「ほーやるねぇ」

ふふん、得意げに笑った少女は「じゃあ今日は用事あるから帰るね、また遊び来る」そう告げて店の外へと走り出た。「気をつけて帰れよ」彼女を見送る為出入り口まで歩いて行った真一郎くんはその姿が見えなくなるまで店先に佇んでいたかと思いきや思い出したように戻ってきて「あの子、俺の幼馴染み。弟と同い年でさ、妹みたいなもん」そう言って「可愛いだろ?」と自慢げに続ける。

彼のその笑顔はもうこの世のどこにもいない自身の姉を彷彿とさせた。…そうだった。遅いよ青宗、そう言いながらもいつだって赤音はこんな風に笑って後を追う俺のことをずっと先で足を止め待ってくれていたんだった。

「本当の妹みたい?」
「うん、腹減ったーっつって泣くことしか出来ねぇ時から見てっから。まぁでも、いつか本当の妹になる日がくるかも」
「なんで?どういうこと?」
「俺の弟、あいつに夢中だから」

そうなったらいいなーって俺の願望。続けながら缶ジュースのプルタブを開けた真一郎くんは味わうように中身を含むと「うま」と短く漏らす。パッケージを飾るりんごの爽やかな香りがこちらまで漂ってくるようだった。

「そっか、そうなったらいいね」
「ああ」

ジュースを一気に呷り空になった缶をゴミ箱に投げ捨てながら真一郎くんがとびきり嬉しそうな笑顔で頷いた。



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