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2018年2月22日


喉が渇いて目が覚めた。部屋の中はまだ暗い。きっと夜明けまでもう少しあるのだろう。ベッドから這い出てキッチンへと向かう。入居した時、しつこく本体代は無料だからと勧められたウォーターサーバーのコックを捻れば無色透明の冷水がグラスに満ちた。

ゆっくりとそれを飲み干して働かない頭をじわじわ起こしていく。あれ…今日仕事だったっけ…ていうか何月何日だっけ。アプリに入れている筈のシフトも今日の日時も何故かふわふわと曖昧で思い返そうとすればするほど混乱していく。なんならそのアプリ自体最後に開いたのはいつだったんだろうと朧げな記憶を手繰ったが、私の中のどこにもその記憶は収納されていなかった。

おかしいな…小さく独り言ち、空っぽのグラスを流しに置く。ぼんやりとした頭のまま寝室へと足を向けた時、何故か急に頭を掠めたのは一目見て気に入った高校の制服だった。ブレザーにチェックのリボンとお揃いの柄のプリーツスカート。中学のあの地味なセーラーから打って変わって垢抜けたその装いに同じ進学先を選んだやっちゃんと「着るのが楽しみだね」なんて言い合ったっけ。

10年以上前の、取り立てて記憶に残るような出来事でもないそのやり取りが妙に新しいもののような気がしてしまうのはどうしてだろう。セーラー服を身に纏い今よりもずっと幼い笑顔で「なまえちゃん!」と私の名を呼ぶ親友の彼女と、今思えばだっさいヤンキースタイルを着こなして免許もないのにバイクを乗り回していた…中学生で暴走族なんてやっていた彼らは誰だっけ。

「…あれ?なんで、私…っ」

気付いたら頬を濡らしていた熱い何かがくたくたの私の寝巻きまでもを侵食していった。悲しいわけでもどこか痛いわけでもないのにそれは止めどなく溢れ出てくる。何度も何度も掌で拭いながら、どうして涙なんて出るのかと混乱する私の頭の中についさっきまで目の前で見ていた筈の何もかもが映像となって流れ込んできた。

いつしかやっちゃんが私にとって唯一の友人ではなく、その中の特別な一人になったのも希薄なあの繋がりを結び直したことで得た新たな出会いや関係も。あの場所で、過去で、私が過ごしたかけがえのない時間を…どうしてたった一瞬でも忘れてしまっていたんだろう。

しゃくり上げながらもだんだんとはっきりしてくる意識。…そうだ、ついさっきまで私は過去でもう一度中学三年生のみょうじなまえの人生を歩んでいた。

あの日、真ちゃんが眠る墓地の前で偶然出会ったエマとタケミッチ。自身の兄の墓前で険悪な雰囲気を漂わせる万次郎とイザナ。そんな二人を見てほんの少し眉を下げていたエマと一緒に選んだジュース。半分こしよう、そう言えば表情を緩めた彼女にほっとして踵を返した時だ。バイクに乗った二人組に襲われたのは。

咄嗟に近くにいたエマを庇うように前に出たけど…でも一緒に倒れこんで。何故か消えた感覚すべてを取り戻したのは泣きそうな顔で私を見下ろす万次郎で…そうだ、全部ちゃんと覚えてるのに。

いてもたってもいられず、寝室へ転がり込むように足を踏み入れスマートフォンの画面に触れる。暗闇に包まれる部屋の中、唯一光を放つそのデバイスに表示された見覚えのある西暦と日付に息を呑んだ。

2018年2月22日。それは現代の…本来の私が過ごす時間軸に間違いなかった。



夜が明けてしばらくして、早朝から私は実家に足を向けていた。今はもう使われていない、倉庫と化した元自室内に高々と積まれたダンボールの山を漁ること数時間。ようやく奥底に眠っていたそれを見つけ取り出した私はかつてないほどの達成感を感じていた。

当時使っていた、薄ピンク色のガラケー。10年以上前のものだからか所々塗装が剥げて古めかしい。しかし両手で掲げたガラケーを開いてはたと気付く。これの充電器、どこよ…。

早朝から何故こんなものを探しに実家へ赴いたのか。それは今の状況を把握する為だというのともう一つ、現在使っているスマホに原因があった。ここが現代だと気付いてすぐスマホの中の連絡先を確認した。過去で得た友人の内、誰か一人にでも連絡がつけばあれからどうなったのか容易に分かるのではと思っての行動だった。けれど、そこに私の知る彼らの名前は誰一人として登録されてはいなかった。

そう、2018年の私のスマホの中には母親とやっちゃん、それから職場の連絡先のみという極めて簡素な繋がりだけが残されていた。2005年に戻る前の誰とも関わりのない本来の私を垣間見てがっくりと肩を落とす。もしかしたら全部、自分にとって都合の良い夢だったのではと考えたところで強く首を振った。いや、違う。確かに私はあそこにいた。

頭に浮かんだ、あの頃決して知り合うことのなかっただろう彼らの無邪気な笑顔や、もう二度と会うつもりはなかった幼馴染み二人との邂逅と和解。そして開いた距離を埋めるように過ごした暑い夏と凍える冬の記憶はただの夢なんかで終わらせられるわけもない。

僅か数ヶ月ではあるけれど、彼らと共に過ごしたあの時間は今も私の中にちゃんと残っている。…逆を言うなら今、現代での記憶の方があやふやだった。2018年1月14日、あの日トラックが迫ってきたあの瞬間から今日まで1ヶ月と少し。こちらで過ごしていた筈の“私”の記憶がないのだ。

いろんなことが妙だとは思う。あの時、確かに私は死んだと思った。けれど気が付いたら季節も時間もまるっきり飛び越えて過去にいた。過去で当たり前のように過ぎていく日々。帰る方法なんて検討もつかないし、もしかしたらこのまま12年の時をこの場所で過ごすのかもしれないとまで思っていた。だというのに今度は殴られてぴったり12年後の現代に帰ってきた。

けれど不思議とその辺のことはどうでもよかった。過去だとか未来だとか、そんなことよりも今は彼らに会ってあの日の出来事を確かめたい。

充電の切れた、真っ暗な画面を覗いて溜め息を零す。試しに電源ボタンを長押ししてみる…が起動するわけもない。それもそうだ、12年も経っているのだから。これでは打つ手がない。「…詰んだぁ」失せた気力と共にそのまま後ろに倒れ込んでからようやく、手元で揺れるキーホルダーの存在を認識した。

「…これ、万次郎がくれたやつだ」

12年経って、僅かに錆ついてしまった猫のキーホルダーはほんの少し前までつい眺めてしまうくらいにはお気に入りの物だった。角度を変えれば別の色に光るその目はまだ全然死んでなんていない。どうして12年前の私はこんなに大切なものを目につかない奥底に仕舞い込んでいたのだろう。

使えなくなったガラケーからキーホルダーを取り外し、スマホの方に付け替える。過去でよくそうしていたようにキーホルダー見たさにスマホを掲げれば、まるであの時の気持ちも一緒に蘇ってくるようできゅっと胸が締め付けられた。

万次郎は…エマは、今どうしているのだろう。あんな別れ方をしてしまった後で誰の連絡先も残ってないということは、あの後私と彼らとの間に何かがあったとしか考えられない。だけどいくら自分の記憶を辿ってみても彼らに関する記憶はあの日を最後にぷつりと切れてしまっている。

「…みんなに会いたいな」

12年後の彼らは何をしてるんだろう。あの頃と変わらず笑ってるかな。やりたいことを見つけて幸せに過ごしてるかな。大切な人と一緒に新しい人生を送ってる人もいるのかな…うん、そうだといい。みんなが笑っているといい。



「あら?なまえ、もう帰るの?夕飯食べてくならなんか作るけど」
「いや、いいよ。お母さん今から仕事でしょ?買い物して帰ろうと思ってたから大丈夫」
「そう?…それよりも、あんたももういい歳なんだしいい加減自炊くらいしなさいよ?どうせ買ってばかりなんでしょ」
「…う、ぐうの音も出ません」
「あ、それよりあんた明日夜勤でしょ」
「うん、なんで?」
「はい眠気覚ましに一本あげる。ケースで買ったから。結構効くのよこれ」
「ふーんそうなんだ…私も買ってみようかな」

そう言って母が手渡してきた少しお高めの滋養強壮ドリンクをありがたく受け取って実家を出た。住宅街を染める茜色はもう少しで完全にその色を消してしまうだろう。早朝にやって来たというのに気付けばもう夕方。時間が経つのは本当に早いとあっという間に過ぎていった一日を思い長く息を吐き出した。

結局彼らに繋がるものは何一つ見つけられないまま帰路を行く。実家から今自分が住んでいるアパートまでの数駅、電車に揺られながらふと頭を過った。そういえば圭介のお墓参り、しばらく行けてないなぁ…って。



電灯がぽつぽつ灯り始めた見知った道を歩いて数十分。12年も経ってしまったせいか周りの風景はあの頃と少し変わってしまっていたけれど迷うことなく辿り着いたその場所で私はそっと膝を折る。

「…圭介、12年ぶり」

元気にしてた?目が覚めたら12年も経ってたよ。心の中で冗談交じりに語り掛け両手を合わせて目を閉じる。日の落ちた墓地に人影はなく物音さえ聞こえない。まるでこの世に自分一人きりなのではと思ってしまうこの静寂が途端に私の心をざわりと揺らし問いかけずにはいられなくなる。

2005年で圭介と再会したのも千冬くんと三人で過ごしたのも本当にあったことだよね。私が見てた夢じゃないよね?私…ちゃんとそこにいたよね?

返事はない。当たり前なのに心を覆うこのもやもやを一人消化しきれずぐずぐずしていると背後からゆっくりとこちらに近付いてくる足音。…こんな時間にお墓参りに来る人が他にもいるんだ。少しだけ感傷的になっていた自分から一瞬だけ解放された私はもう一度、強く自身に言い聞かせる。

そうだ、夢なんかじゃない。だってみんなそこにいた。笑って泣いて失って、いろんなものを越えてきた。

ちょうど真後ろで足音が止まる。がさりと聞こえた袋の擦れる音に振り向いた私と目が合ったその人は、彼とよく似た長い髪を揺らし瞠目すると手に持っていた白い袋を滑り落として一歩後ずさった。…その反応はいくらなんでも傷付くんですけど。

「…久しぶりだね」

少年院、いつ出たの?落ちた袋を拾い手渡しながら問うも彼―…一虎はまるで信じられないものでも見たような顔をして何の言葉も発さず未だにじっと私を穴が開きそうなほど見つめてくるので。

「私の顔、なんかついてる?」

もう一度、まっすぐに彼の瞳を覗き込む。するとはっと我に返ったように、けれど何か言いたげに再び私をじっと見た一虎は言いにくそうな表情で「…いや、何もついてねーけど…」と逡巡したのちに「あのさ」と意を決したように声を上げる。

「ん?」
「12年前…あんたが俺に会いに来てくれたこと、覚えてる?」

それは何かを期待しているような、同時に諦めているような、複雑で不思議な思いを孕んだ問いかけだった。最後に会ったあの日よりも随分と柔らかくなった彼の瞳を見つめ返し「覚えてるよ、鑑別所に入ったのなんてあれが最初で最後だし」と困ったように笑う。あの時はちょっと大人げなかったかなぁ…なんて一虎と初めて会った閉鎖的なあの場所での出来事をぼんやり思い出していると突然目の前の男に腕を引かれて。

「っえ?ちょ、なに…どこ行くの?」
「いいから、あんたに会わせたいやつがいるんだよ」

おそらく彼も圭介の墓参りに来たであろうに、墓前に手も合わせず出口へ向かうので慌てて声を掛ける。けれど妙に真剣な顔をして「会わせたいやつがいる」そう宣った一虎にそれ以上何も言えず、されるがまま墓地から連れ出されたのだった。



XJランド。そこは閑静な住宅街の中に構えられたペットショップだった。来客を知らせる軽やかな鈴の音にややあって奥から「いらっしゃいませ」と落ち着いた男性の声がする。シンプルな内装とよく手入れされた室内、ガラスの向こうでのびのび過ごす愛らしい動物を一瞥し「可愛い…」感嘆の声を漏らすもガン無視の一虎は「こっち」強めに私の腕を引いてずんずん奥まで進むとそこで初めて彼の名を呼ぶ。

「千冬」

耳に馴染むその名前は少し前までよく口にしていた。幼馴染みの彼が唯一側においていた、私にとっても可愛い後輩の一人である彼を示す名だった。まっすぐその人にだけ向けられた一虎の視線を思い出したように追いかければこちらに背を向け何やら作業をしていたらしい黒髪の男がゆっくりと振り向く。脱色を繰り返し少し痛んだ陽に透けるようなあの金色はもうないけれど相変わらずのツーブロックヘアが似合う彼が訝し気な顔で一虎を見て。

「一虎くん?今日休みなのにどうしたんすか、まさかまた飯たかりに…え?」

それから私の方に視線を移して先程の一虎同様、信じられないものでも見るように何度も大きなその目を瞬かせる。まるでとても遠い過去でも見ているかのように細めた目にじわり、涙を浮かべて「なまえさん…?」そう名を呼ぶから。

「…うん、千冬くん」
「!…俺のこと、覚えてるんですか」
「?覚えてるよ、当たり前じゃん」

一虎にしろ千冬くんにしろ、さっきからどうしてそんなことばかり聞くのかと首を傾げる。確かに12年前で関わりは途絶えてしまったのだろうけど私そこまで忘れっぽくないと思うし、何ならちょっと前までよく会ってたんだよ。つい昨日2006年から戻ってきたから…なんてことは一虎の前じゃ言えないけど。

じっと二人の顔を見ていると私から視線を逸らしお互いの顔を見合わせた千冬くんと一虎。どちかが頷いたのをきっかけに一虎が出入り口の鍵を締めcloseの札を下げ、千冬くんはいそいそと身に付けていた店のロゴ入りエプロンを外す。

「え、なに…どうしたの急に」
「なまえさん、今から時間ありますか?」
「ん?うん…まぁ、あるっちゃあるけど」
「じゃ、俺なんか適当に食材とか酒とか買ってくわ。千冬ん家でいいだろ?」
「はい、先行ってます。行きましょうなまえさん」
「え?なんで?お店は?もう閉めるの?」

裏口から出て行った一虎の後を追うように店内の電気を消し、店の鍵を締めた千冬くんがぐいぐいと私の腕を引いていく。……デジャヴだ。意味が分からないと眉間に皺を寄せた私を振り返り見て「なまえさん、12年前のこと…いや、2006年2月22日以降のこと覚えてますか?」そう問うてきたので素直に小さく首を振る。すると何かを知っているのか「やっぱり…」呟いた千冬くんがじっと探るような視線を向けてくる。

「なまえさん…もしかしてですけど、戻ってきたんすか?2006年から現代に」

それはもはや問いかけではなく、断定的な強さを孕んだ声だった。タケミッチでそういうことには慣れているだろう彼に誤魔化しはきっと通じない。いやまあ誤魔化すつもりもないけども。

聞かれて困る人はもう周りに誰もいない、きっと話すなら今だろう。ぎゅっと強く握られた手。あの頃から何も変わらないまっすぐな千冬くんの瞳を見つめ返すとその瞳の中はゆらゆらと心許なく揺れていた。…まったくこの子にはいつまで経っても敵わないなぁと深く息を吐き頷いて。

「そう、あの日、2006年2月22日に真ちゃんのお墓の前でバイクに乗った二人組に襲われて。バットで頭を殴られて……目が覚めたらこっちにいたの」

千冬くんが静かに息を呑む音がする。きっと彼は知っている。その後の私を。エマを、万次郎を。

「千冬くん…教えてくんないかな。私は…私たちは、あれからどうなったの」

今度は私がその手を強く握る番だった。握って引き寄せれば至近距離で私の顔をじっと見た千冬くんが一度目を逸らし、また戻すことを繰り返して重い口を開く。

「…とりあえず、家で飯でも食いながら…にしませんか」

ちょっと、長くなりそうなんで。困ったように笑ってそう続けた彼に括りかけていた腹から、ぐぎゅう…情けない声がして。吹き出した千冬くんにつられるようにして二人で目を見合わせて笑った。



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