2008年7月5日
更けていく夜の合間。身を寄せ手を握り合って、私たちは何を言うでもなく共にいた。隣から移ってくる体温に何度も落ちそうになる瞼を押し上げながら「なまえ、眠いの?」「ううん、大丈夫」そんなやり取りを飽きることなく繰り返して。
気付けば雨は止んでいた。聞こえなくなったその音に、ああ寝てしまうところだったととろりと目を開いた私の手背をかさついた万次郎の指が撫でつける。視線をやればうっそりと笑った彼が「もういいから寝ろって」そう言うのだけど緩く首を振って拒否をした。
「なんで。いいからほら、ベッド上がれ」
「…やだ」
「なんで」
「まだ…このまま、一緒がいい」
「…そっか」
乞うた私の手を強く握り、自身の方へと引き寄せた万次郎の肩に頭を預ける。同じ石鹸を使った筈なのに仄かに香るのは彼だけが持つ独特な甘い匂いでそれが余計に眠気を誘うようだった。
ややあってなんとか意識を留めていた私の頭にずしりとのしかかるような重さがやってきた。「重いよ」零してみても返事をしてくれない万次郎は徐々に身体の力を抜いていく。私を枕にするつもりか。どうやら欠伸同様、眠気も移るものらしい。すぐ近くで聞こえる深い呼吸と少しだけ窮屈なその重さがなんだか心地良くて、ゆっくりと目を閉じたなら限界はあっという間にやってきた。
「……ねぇ、万次郎」
「…ん?」
「もう、一人じゃないからね…ずっと…一緒にいる、から」
「!」
「今度こそわたしが、まもる、から…」
「……なまえ?」
私を呼ぶ、ほんの少しだけ震えたようなその声を最後に沈んだ意識。次に目を覚ました時、隣には昇り始めた朝日に照らされて窮屈そうに寝息を立てる彼がいた。繋がれたままの左手と座りっぱなしで痛む身体に笑みをこぼし、ゆっくりと大きく伸びをした後で。
「万次郎、朝だよ起きて」
「…ん゛」
「私今日バイトだからもう少ししたら出るけど、どうする?」
「……」
「もー…仕方ないなぁ、じゃあ出る時起こすかんね?」
「ん」
「ならほらこっち、ベッド使って」
相変わらず寝起きが悪いらしい。肩を揺するも頑なに目を開けず渋い顔のまま首を振った彼の腕に触れる。取って引けば思いの外簡単に動いたその身体がベッドへと沈んだのを確認して部屋を出た私はカチカチに固まった肩を回しながら脱衣室の扉を引いた。
▼
「送ってくれてありがと」
まだ開園前の誰もいない遊園地の門前、自身のバイト先であるそこで唸るバイクから降り立った私は運転席に跨り大きな欠伸を漏らした万次郎を振り返った。
家を出る時間ギリギリまで夢の世界にいた彼は文字通り私によって叩き起こされたことでご機嫌斜めの立て篭もり(毛布の中)状態だったのだけれど「もー知らない!私遅刻するから先行くよ!はいこれ万次郎の服ここ置いとくからね!」と半ば逆ギレ気味に自室を出ようとしたことでようやく観念したらしい。
「…分かった、起きる…起きるから待って、送る」
寝ぼけ眼とガサガサな声を携え、ついに難攻不落なその城を明け渡して今に至る。
「ん、つかバイト終わるの何時?」
「あー…土曜だから多いだろうし…20時は過ぎるかも。どうかした?」
「迎え」
「え、なに来てくれるの?なんで?」
「昨日の今日だし」
「あ、そっか…うん、ありがとう。じゃあ終わったら連絡するね」
「分かった」
そうしてあの独特な排気音と共に去っていく。信号に引っ掛かることもなく颯爽と消えていった万次郎を見送ったのが午前9時過ぎのことだ。案の定客足の多い土曜日は朝から晩までドタバタで、ゆっくり考える暇もなかったけれどよく考えたら私、万次郎の連絡先知らないわ。そのことに気付いたのは就業時間をとうに過ぎ、へとへとの身体でスタッフルームを出た後だった。
「ちゃんと聞いとくんだった…」
迎えに来てくれるとは言っていたものの、何時にどこでという詳しい話をしなかったことが悔やまれる。もし彼の番号が昔と変わっていないのなら最悪連絡は取れるのでは?と安易に思い至ったが電子が全てをこなすこの世の中、退化に向かっている人間の脳が追いつくはずもなく。…はい、さすがに電話番号は覚えてませんでした。
とりあえず一縷の望みをかけて、今朝万次郎に降ろしてもらった正面入り口にでも行ってみるかと足を向けつつ携帯の画面に目を落とす。二件の新着メール。一人はお互いに定期連絡を図っているタケミッチで、なんでも彼は今度の七夕に行われる梵の集会に参加するとかなんとか。暴走族の集会がどんなものなのかはさっぱり分からないけれど気を付けてね、その一言と共にこちらの状況も伝えておくかと昨日の出来事を簡単に纏めてメールを飛ばす。さすがに襲われそうになったことは伏せて、万次郎と再会したことと今日も迎えに来てくれるらしいことをふわっと伝えた。
驚くだろうなぁ、タケミッチ。過去で再会するなり万次郎をぶっ飛ばすのだと息巻いていた泣き虫のヒーロー(アッくん談)の姿を思い出して何故か笑みが浮かんだところでもう一件のメールに目を通す。相手はあの日以降、ほとんど毎日やり取りをしている一くんだった。
「…ん?正面入り口?」
説明も何もなくたった一言、綴られたその文面に首を傾げつつもちょうど向かっていたところだと返事をして携帯を閉じる。閉園後の薄暗い園内を少しだけ駆け足で横断しながらようやく最終チェックが終わったのか、ポツポツと消えていくアトラクションの光を遠目に眺めた。
何故、一くんが突然こんなメールを送ってきたのか…彼の意図するところはさっぱり分からないけれど、その場所にきっと万次郎がいるのだろう。不思議と腑に落ちて、そして思う。初めて会った時から彼はどこか謎めいていた。文面とはいえいくらやり取りを重ねても自身の抱えている感情は一切読ませず、こちらの気持ちだけは簡単に引き出していく。一くんはそんな人だ。だから分かってしまった。きっと二人は私の知らないところで繋がっている。
思い返せば不自然な点はいくつもあった。一くんと出会って数日、まだたったの数日だというのに他の誰よりも頻度の多いやり取りや不思議なくらい合うタイミング。それらを訝しむことがなかったかといえば嘘になる。けれど私は案外、彼のことを友人として好きらしかった。切れ長の目はどうしても冷たそうな印象を与えてしまうけど言葉尻ひとつとっても滲み出る優しさまではきっと隠しきれないから。
ようやく辿り着いた入り口前。締め切られた門の右側、小さく作られた関係者専用の扉を押し開け抜ければやはりそこに彼はいた。
凭れるように停車しているバイクの座面に背中を預け、ぼんやりとどこかを眺めていた。轟くようなあのエンジン音は鳴りを潜め、園内同様、酷くしめやかなそこに一人ぽつんと佇む彼の元へ数時間前も響かせていただろう靴音と共に近付いていく。
コツコツとアスファルトを踏み鳴らす乾いた音。無駄に響くその音に引き戻されたのか、万次郎の色のない瞳がゆらり、こちらへ向けられる。「ごめん、待った?」声を掛けるとのんびりと緩んでいく眦と上がる口角。それはいつかも見た…酷く穏やかで甘い笑顔だった。
「さっきバイト終わってさ、万次郎いつからいたの?」
「んー…忘れたけど結構待った」
「え、ウソごめん」
「まぁウソだけど」
にやり、揶揄うように言ってから口元を緩めた万次郎にしてやられたと思った。じとりと見やれば「怒んなって、俺も着いたのさっき」言いながらバイクに跨りエンジンをかけた彼が私を仰ぐ。
「乗って」
その声に頷いて慣れたように後部座席へと乗り込む。断続的に始まった重厚な駆動音をわざと鳴らすようにハンドルを回し「ちょっとだけ寄り道してもいい?」少しだけ楽しそうに言った万次郎に「いいよ」私はいつだって釣られてしまうのだ。
▼
「ん」
「ありがと」
風に乗ってやってくる潮の匂いを吸い込んで吐いたと同時に渡された冷たいペットボトル。隣を見れば同じものを購入したらしい万次郎がキャップを捻り蓋を開けその中身をあっという間に飲み干した。夜とはいえ気温はまだ高く冷たいものを欲する気持ちはよく分かる。
急く気持ちを抑えるようにゆっくり蓋を回してみるも何故か上手くいかず「あれ、おかしいな、この…」しばらく頑固な蓋野郎相手に奮闘していると「貸して」呆れ顔の彼によっていとも容易く開封されてしまう。
「ほら」
「え、すごい!めっちゃ硬かったでしょ?よく開けられたね」
「は?こんなん開けられねーやついる?」
「ここにいますけど」
「しょぼ」
「なによう」
むすくれながらも開けてもらった手前あまり文句も言えず、乾いた喉を潤すように冷たい緑茶を流し込む。気付けば一気に半分以上まで減ってしまった中身。うっすら沈殿していた茶粕まで呷れば口の中いっぱいに広がる渋味と苦味。身体中に纏わりつくように滲んでいた汗が引いていくような気がしたけれどそれはたったの一瞬で。
「…暑いねぇ」
「だな」
一筋、背中を伝いはじめた汗に気付いて慌てて背筋を伸ばす。家を出る時、どうせバイトだしと適当に選んだ黒のTシャツは汗染みがとても目立つのだ。着心地やデザインはとても気に入っているというのに夏にあるまじきその欠点だけはいただけないと思う。
姿勢は正したまま、空っぽになった容器を暇潰しのように足元のコンクリートへ打ち付けながら暗闇を漂う水面へ視線を飛ばす。万次郎が選んだ寄り道場所、それは2年前にも一度共に訪れたあの工業地帯の見える海沿いだった。あの時と同じく海壁の上に並んで座り、静かに寄せては返す穏やかな波を見つめていたら。
「…これで、よかったのかな」
「え?」
ぽつり、聞こえた小さな声。隣を仰げば万次郎はぼんやりと海面を見つめたまま、心ここにあらずといった表情を浮かべていた。まるで何かが抜け落ちてしまったように朧げな彼の姿を私はよく知っていた。10年後の反社会組織に与する万次郎。何もかも背負い、壊れてしまった彼のことを。
「よかったって、何が?」
「……もう巻き込みたくなかった。泣かせたくなかった。ずっと笑っててほしかったから」
「…万次郎?」
独り言のように落とされるその声はまるで融けるように静かに消えていく。こんなに近くにいるのにまるで遠い場所にいるようで、なんだか急に怖くなる。万次郎がどこかに行ってしまいそうで。また、一人になってしまうような気がして。
渦巻く不安を払拭するように彼の手を握り込む。一人にしないよって、私はずっとここにいるよって、そう言いたかった。
「なまえ」
「うん」
「好き…大好き」
「っうん…私も、大好き」
万次郎は泣いていた。けれど笑ってもいた。涙に濡れた瞳を柔く細め私の唇を優しく奪う。触れては離れて、また触れる。その後でゆっくりと絡み合うようなキスをした。頬に伸びてきた万次郎の手は熱くて、二人の間で漏れる吐息は扇状的で。彼が側にいるだけで満たされるような心地も今だけは少し、逃げ出したくなってしまうような気恥ずかしさも孕んでいた。
それでもただただ嬉しかった。幸せだった。キスの後、何も言わずに私を抱き寄せて名残惜しむように肩に額を押し付けてきた万次郎を見ても、きっと今の自分と同じようにこの余韻に浸っているだけだと思っていた。馬鹿な私は何も気付けなかった。
「バイバイ、なまえ」
自宅の前まで送り届けてくれた彼が“またね”ではなく“さよなら”を選んだのも。目と鼻の先にある玄関を私が先に潜るまで頑なにその場から動こうとしなかったのも。
……ねぇ、万次郎。どうして君はいつもそうやって全部一人で背負おうとしてしまうの。
その日以降、彼は私の前から姿を消した。7月5日、七夕を目前に控えた暑い夜のことだった。
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