あの日の夜空に出発しようか


――リソルに、嫌われたかもしれない。

ただの依頼先のコミュニティで、仲良くなった年下の男の子。生きてきた時間も、住む世界も、なにもかも違うところにいる男の子。生意気で、ニンニクが嫌いで、素直じゃなくて、…そのくせ実は困っている知人を放っておけない、優しい男の子。そんなリソルの優しさは、孤独で形成されていたナマエの世界に一筋の光を齎したのだ。

―…仇討ちの果て、力を得たナマエは幾多の場所から頼られるようになり、ついには勇者の盟友として、勇者姫アンルシアを導く立場にまで上り詰めた。それがナマエの運命だったと言えば聞こえはいい。しかしそこでは躊躇うことも、戸惑うことも、悩むことも許されなかった。
表面は強く、気高く、迷いのない足取りで世界を救う勇者を導く、たった一人の存在として。真実は脆く、泣いてばかりの、ただの幼い少女のままで。
ナマエはいつだって、どうして自分ばかり頼られるのか、分からなかった。一人歩きするナマエの噂話は、ナマエという存在の偉大さばかりを膨らませていく。風船のように、いつか限界がきたそのとき、割れると知らないで空気を吹き込まれてばかり。

ただの少女のままでいたかったナマエは、とっくに捨てられて朽ち果てている。ナマエとまったく同じ時間に死に至り、魂を入れる器としてその身体を与えたナマエのたった一人の友だけが、その捨てられたナマエの存在を知っている。

今、その友はもうナマエの前に現れない。空の向こう、ここからずっと遠い世界で、何十年も先にそこに辿り着く、ナマエのことを待っている。
友の願いを叶え、最後の別れを終えた後ナマエは、本当にたった一人になったのだ。――勇者姫は確かに、自分のことを自らの半身のように思っている。ナマエはそれを知っている。しかしナマエがアンルシアのことを、半身のように思うことは出来ない。アンルシアが勇者姫の戦いとして身を投げている戦場は、ナマエが勇者姫の盟友として身を投げている戦場と、まったく別のところにある。


――友のため。

――勇者姫のため。

――世界のために捧げるわが身を、呪いから守る。


ナマエは、いつだって一人で戦ってきた。友の存在は確かに心の安寧を保ったが、冥王の身体を切り裂く剣技も、傷付いた我が身を癒す呪術も、全て一人で賄ってきた。数多の出会いがナマエにはあったが、ナマエと冥王の戦いについて知っている人物は本当に限られている。そしてその本当に限られている人物は、ナマエを強いと、勇者姫の盟友に相応しいと、人々から支持を集めるに相応しい人物だと認めているせいで、弱い、ごくごく普通の少女である、ナマエの存在を知らない。


孤独だった。

寂しかった。

誰かに、手を差し伸べられるのを待っていた。


――いざ差し伸べられたとき、臆病な体は、反射的にそれを拒んだけれど。


「ナマエ、今日も体調が悪いのかい?」
「……そう見える?」


授業と授業の合間、小休憩の時間にU―スペーディオ前の教室で鉢合わせたミランが、ナマエを見止めるなり険しい顔でそんなことを言うものだから、ナマエは思わず立ち止まって、自分の頬を手で撫でた。熱は平常、顔色もおそらく、普段通り。しかしミランが根拠もなく、そんなことを言うかといえば答えは否。


「そうとしか見えないな。救護室まで付き添おうか?」
「や、それは申し訳ないから断っておくよ」
「…大丈夫なのか?」
「お腹壊したの、引き摺ってるかも」


乾いた笑いがナマエの口から漏れた。「実は昨日、やっぱりお腹壊しちゃって」「…ナマエ」「大丈夫だよ、今日はちゃんとご飯食べたから」「……」ミランが何か言いたげな雰囲気を出しているのを察して、ナマエは乾いた笑いを重ねる。リソルに嫌われたのかもしれない、たった一つ、以前までのナマエなら気にも留めなかったであろう可能性ひとつで、ナマエは自らの精神に綻びが生まれたことを知った。リソルにとってはそれがきまぐれの優しさでも、ナマエがリソルの言葉を優しさだと解釈していたとしても、ナマエの心が一瞬だけ、深い闇のなかで光に呼応し、生きていることを伝えたのだ。エスオーエス、エスオーエス、無情にも電池は切れたけれど、エスオーエス、エスオーエス、声だけは、


「ナマエ。リソルと、何を話したんだ?」
「……特に、何も話していないよ」
「…………そうか」


ミランの声がどこか遠く、寂しそうに聞こえたのはきっと、ナマエの気のせいだ。



**





嫌われたくない。みんなに、リソルに嫌われたくない。けれどこんな臆病者な私を知ったみんなが、リソルが呆れて離れていくのも怖い。みんなが、リソルが、私のことをどう思っているかなんて知らないから、どうすれば初めて出来た仲間が離れていかないのか、どうすれば仲間に呆れられないのか、わからない。ひとりぼっちになってしまったあの日から、一人じゃなくなる日がくるなんて、思ってもみなかったのだから。

嘘。うそです。分かっています。本当は、誰も私に呆れたり、私を嫌ったりしない。今この瞬間、この学園のなかでだけ、私はエテーネの生き残りでも勇者姫の盟友でもない。ただの、学園生活を謳歌する、ひとりの生徒。悩み多き学生。誰もが抱えているような、ありきたりな秘密に毎日頭を悩ませる、ただの女の子。
伝説の転校生だなんて持て囃されているけれど、みんな私のことをフィルター越しに見ないでしょう。ねえナマエ。素直になろうよ。ここにいるひとたちが私のことを、盟友だから、英雄だから、強いからなんて色眼鏡越しに見ることはないのだから。ねえ、遅くないよ。まだ間に合うよ。…きっと間に合うから、もう偽るのをやめようよ。真実を告げて嫌われるより、偽りの言葉で大切な人が離れていくほうがよほど苦しいって分かったでしょう。ねえ、ほら、ナマエ。立ち上がって、大きな声で叫んで。


――信頼してるなら、頼ればいいじゃん。


「…本当、その通りだよ、リソル」


ナマエの手のひらから、剣が滑り落ちていく。同時に崩れ落ちた体を、爪の長い指先が捕らえる。

恐怖の化身と会いまみえるのは二度目だった。最初にその化身と戦ったとき、ナマエの心の中にはまだ、冥王と共に戦った友が住んでいた。――支えを無くした状態で、冥王に似た影と一人で対峙した瞬間に、ナマエのなかの全てが悲鳴を上げたのだ。
調子の悪さはミランのお墨付き。体の怠さに耐えきれず、ナマエは救護室でチェルシーの世話になり、ベッドで小一時間横になっていた。小一時間は精神の疲労により二時間に引き伸ばされ、三時間になった。何度も繰り返し見た悪夢に苛まれ、追い詰められ、息苦しさに目を覚ました時、ナマエは今までにないほど疲れ切った精神から、強力な呪いのバケモノが出てくることを悟ったのだ。

焦れど学園の外に続く門は既に閉じられており、とにかく開けた場所に武器を持って走るしかなかったナマエは、屋上で自らの産み出した呪いと対峙した。はっきりと冥王の顔を、姿を、形を映し出したその呪いのバケモノの名は恐怖の化身といった。一度、戦ったことのある、ナマエが何よりも恐れているものをこの世に再現した、悪意の権化。いつものように結界に閉じ込められたナマエの孤独な戦いを、満月だけが秘かに照らし出す。

学生や教師は寝静まり、閉じられた結界の存在に誰も気が付くことはない。呪いはナマエの体内に流れる、血から多くの魔力を吸い上げ、悪夢と呼応し顕現する。恐怖の化身はそれを生まれたときから知っていた。躊躇いなく掴み上げた細い体の上に、傷付けるための刃を走らせていく。
切り裂かれた腕と、足から吹き出した血が、嫌でも冥府の心臓で弄ばれていた一瞬一瞬をナマエの脳裏に呼び起こす。――そもそも呪いから生まれたバケモノたちは、ナマエの心を殺し、魂ごと消滅させるために現れるのだ。ナマエの身体に巡る魔力から無理矢理にその身体を創り出すのだから、ナマエの何より恐れるものを知っていて当然。自分の一番恐ろしいものが、目の前にこうして現れるのだから、分かりやすくていいじゃないかなどという言葉で誤魔化そうにも通じない。


――冥王は、全て奪っていくのだ。


故郷も、家族も、果てにナマエが縋りついている、記憶を刻んだ命さえも刈り取ってしまおうと。


「……りそ、る」


本当はね、助けてって言いたかったんだよ。でも助けてって言ったら、私のことを話すことになるじゃない?それが恥ずかしかったんだよ。だって私にはこの命以外、もう何も残っていないから。空っぽなんだよ、この器には魂しか入れられないの。だって借り物の器だから。私の本当の魂の在りかは、もうこの世のどこにも存在しないの。ねえ、それでも、頼って良かったのかな。リーダーって頼られる人間じゃないと、務まらないんじゃないかな。…リーダーだけど、頼って良かったのかな。ねえ、わたし、大事なところで間違えたのかな。教えて、バカなわたしに、……リソル。

体中が燃え上がるように熱く、生存本能は残された魔力を止血に回すことで手一杯だ。回らない頭でここに来るはずのない生意気な後輩の顔を思い浮かべたナマエは、ゆるやかに、ゆるやかに、意識の糸を掴んでいた指先の力を抜いていく。

――最後にナマエが見たのは、狂喜に歪んだ冥王の顔だった。


20161114


その日の夜、リソルは寝つきの悪さに頭を悩ませていた。窓から差し込む満月の光が眩しいと、閉めてしまったカーテンのおかげで部屋は真っ暗な闇の中だ。
最近はフウキの活動もあり、加えていつも通り授業もあり。ベッドに入ればすぐに眠ってしまうリソルだったが、…どうしてか、今日この夜だけは妙な胸騒ぎで眠れなかったのだ。理由は分からず、ベッドから動き出す理由もなく、目を開け眠気がやってくるのを待つしかないリソルはふと、腕を伸ばした。広くない部屋のなか、ベッドの傍に立てかけてある愛用の槍の柄に触れた指先が、リソルをどこかに駆り立てようとする。


「…脳筋なセンパイたちに影響、受けすぎでしょ」


首を振り、槍から手を離す。寝返りを打ち、見つめた壁の向こうは見透かせない。今夜、誰が、どこで、なにをしていても、分からないこの場所にいることが、リソルを妙に不安にさせた。自分の部屋だけが世界の中心から、ぽっかりと浮き上がっているような。目が覚めたら、何かが変わっているのに、それを知る事が出来ないような。


ナマエは今、何を考えているのだろうか。