To dearest heart
- 惚れる -
ひそひそと耳打ちしあう声が、セナの耳に入っていた。教団の内部に見たこともない、異種族の人間が足を踏み入れているだけでも噂になっているのに、そんな不審人物を連れていたのが神官であるエステラで、尚且つその異種族のおそらく女であるその人物は、総主教オルストフにも面会済みである。噂が巡るのは早いだろうとセナも推測し、多少は腹を決めていた。今から立ち入ろうとする場所で微かに自分のことを仄めかす内容の噂話をしている人物がいたとしても、気にしない。この場所で自分が異分子なのは当たり前、何よりエステラを、オルストフと名乗ったこの教団の総主教を、絶対的に信頼のおける存在として認めてしまうにも早い。いついかなる時も気を抜かず、許さず、未知なる世界での歩は全て、慎重に進めなければとセナは自分を戒める。
扉を開き、セナは会議室に踏み込む。誰が来たのかと次々に振り向く竜族たちがセナをじろじろと見――…言葉を探すように視線を彷徨わせ、誰からともなく再び視線を逸らしていく。セナに直接、何を言う者が居るわけではない。
――そして、訪れたのだ。心臓を奪い去られてしまうような、時の止まるその一瞬が。
「…あ、」
綺麗な髪の色だ、というのが一番最初にセナが抱いた感想だった。
艶のある美しい深紅の髪が、この世界にあるどの炎の煌めきよりも美しいと思った。髪が揺れ、正面からセナを見据えた金色の竜の瞳に、射抜かれ殺されてもいいと思った。それが俗にいう一目惚れだということを、セナは後に知る事になる。
微かに漏れた声は誰にも聞こえず、訝し気な目線だけがセナを捉えたまま、動かない。認識されていると脳が知るたび、心臓が壊れそうなほどに大きな音を立てて鳴り響く。
触れたら壊れてしまいそうな気がした。今までに見たどの花よりも、そのひとは繊細な色でもってセナの瞳に映り込んだ。
あの人は、どんな声で話すのだろうか。
あの人は、どんな顔で笑うのだろうか。
あの人は、どんな風に感情を表現するのだろうか。
「……いやいやいや、どうしたの私…」
ぶんぶんと首を振ったセナは扉の前、会議室の隅の壁に、隠れるように身を預けた。深紅の髪を持った竜族の男は既にセナから目を逸らし、傍にいた二人組と何事か話しながら、時折こちらを伺っている。表情からその会話の内容が、如何してこの場所に異種族が居るのか、という議論であることは十中八九、間違いないだろうとセナは思う。外れていたとしても穏やかな内容でないことは確かな表情だ。
エステラと似たような服は、その場にいる他の竜族達が身に着けていないものだった。つまりあれはそれなりに上位の神官が着る服であり、彼はエステラと同位の神官なのだろう。エステラが彼と仲が良いなら、少しぐらい会話のチャンスがあったりするかもしれない。
「綺麗な髪ですね、って言ったら怒るかな」
彼の人となりが分からなければどうすることも出来ないのだが、心は微かに弾んでいる。こんな感情を抱くのは初めてで、セナは緊張で満たされていた体から少しだけ力が抜けていくのを感じていた。竜たちに囲まれたセナが、これからどうなるのか、誰にも分からない。
それでも、これは別に恋でもなんでもないと、心の中で言い訳を重ねるセナの心が浮き足立ちつつあるのは確かである。後、自分のことをトカゲの骨呼ばわりされて恋心が消滅しそうになるなど思いもしないセナは、自分にはまったく存在しない色素の含まれた、美しい髪を見つめて、オルストフが会議室に姿を現すのを待っていた。
20161030