君はずるいひと
やっぱり勉強が楽しくても、女の子だったら少しぐらいスカートを短くしてみたいと思うのだ。ネクタイだって緩めたいと思うし、髪の毛だって明るくしてみたい。…学校ではそれが出来なかったから私は外へ遊びに出かけたとき、その欲求を思う存分満たすことにしていた。遊びに行くといっても当然、一人だ。聡明はそもそもエリート高だし、休日も勉強をしている生徒は少なくない。私の場合勉強はそこそこ、上手いやり方を知っていたのもあるだろうけれど、息抜きと勉強のバランスの取り方が良かったんだと思う。先生達からは品行方正な女子生徒として通っていたし、クラスの副委員長も任されていた。
勉強は好き。遊ぶのも好き。ヒーローとして活動する、大人になる前にはじけておきたい。――欲求は全て満たしてしまいたいタイプだった。だからこの日も短いスカートを履いて街で見かけた好みの上着を羽織って、お化粧をしてバスに乗ったのだ。いつもの駅前で降りたあと、普段は使わない電車にも乗って、大きな街の駅ビルで服を見てお小遣いと照らし合わせて肩を落として、しょうがないから今度使う参考本でも買おうと本屋に入って―――雄英の入試問題対策、背表紙の赤いその本に手を伸ばしたところで知らない人の手に自分の手がぶつかった。あ、あ、とお互いに小さく声を発して目が合う。残り一冊のその最新版入試問題対策の本に、私と同じタイミングで手を伸ばしたその人を私はよくよく知っていた。だって彼は、
「すまない、…君もあれを?」
「………ええ、まあ」
「そんな風には見えな…いや失礼、だが俺もあの本が気になっていてな。しかし残りは一冊…ううむ」
どうしたものか、と顎に手をあててちらりと横目で私を見やる、そのきっちりと分けられた髪型も、四角い瞳も四角いメガネも、狭い本と本の棚の間で主張する、服の上からでも分かる鍛え上げられたその体も、私はなにもかも知っていた。――同じクラスの、飯田天哉、くん。普段なら飯田君、と気軽に話しかけられるものの今日、今この姿で同じことは出来そうにない。何より飯田君本人が私を私と気がついていないのに、自分からネタばらしをする必要もない。よって私は今すぐこの場から離れるべきであり、彼が考え込んでいるあいだに逃げ出してしまうべきだった。
……どうしてもそれが出来なかったのは、問題対策の本が欲しかったからだ。雄英を受ける以上、念を入れすぎることはないと思っている。しかしどうしたものか、飯田君がそもそもこんな場所に顔を出すなんて。規則にうるさくて風紀委員も顔負けの取締まりっぷりで、今の私と普段の私を結びつけたら飯田君は私を聡明の生徒として恥ずかしくないのかだとか、スカートが短いだとか、お説教の言葉を並べるだろう。それはなんとしても避けたい。でも本は欲しい。ううん、ううん…
「君も雄英を受けるのか?」
「っ、はい。まあ、一応」
「ならば飯田家の人間としてこれは紳士的に譲…いやしかし…」
「……私、どうしてもこの本が欲しいんです」
「それは俺も同じだ!……ん?」
「う、っ!?」
勢いよくこちらを向いた飯田君が、眉間に皺を寄せてじっと私の顔を見ている。「…あの、なにか?」「いや…どこかで会ったことがあるような気がしたんだ。恐らく気のせいだと思うのだが」気のせいだと思う、なんて言いながら飯田君は一歩、私の方に歩を詰める。思わず一歩後下がった私は嫌な汗を感じて呻いてしまう。――飯田君は案外、鈍感そうに見えてこういうときだけ鋭いタイプだ。よく人を見ているし、観察している。
まさか君、と小さく漏らされた声がその言葉の続きを紡ぐ前に私は腕を伸ばした。「もしや苗字く、」「違う違うの飯田君このことは内密にお願い本当、おねがい!」支離滅裂、否定したかったはずなのに名前を呼んでしまっているから飯田君の言葉を肯定しているのと同じ――頭の中をぐるぐると言葉が巡ったけれど腕は自然と動いていた。ポケットから取り出した愛用のハンカチを持った右手は、左手が飯田君の口を開放したと同時に彼の口にハンカチをそのまま突っ込む。あああの本欲しかった!と後悔だけそのまま、私は踵を返して飯田君の横をすり抜けて駆け出した。もがもが、と飯田君が戸惑った声を(ハンカチを口に入れたまま)上げていたかもしれない。私が気がついたのは飛び乗込んだ電車のガラスに映る自分の髪が、風でぼさぼさになっていたということぐらいだった。
**
「おはよう、苗字くん」
「…飯田君」
そして今。登校してきたばかりの、本当に今鞄を机に置いたばかりの私の目の前に立ちはだかっているのは飯田君だ。昨日は巻いていた髪もいつも通りに一つ結び、制服も彼と同じようにきっちり着こなした私は気まずくなって自分の机なのに座れずにいた。「昨日は、」「〜〜っ」やっぱり、やっぱりそれだよね飯田君!どうしよう何か言い訳をする?あれは双子の姉ですとか妹ですとか、いやでも私いつか委員会作業のときに一人っ子だって話をして、飯田君にはお兄さんがいる話を聞いて、
「――結局、あの本を買ったんだが」
へ、と口から声にならなかったものが空中に吐き出された。「雄英の、問題対策本だ」「そ、それは分かるけど!」「…内容が去年のものより随分変わっていた。問題の傾向を読むのにも、よりレベルアップしたものに取り組むのにも、随分役立つと思う」落ち着いた声で私を見下ろす飯田君の四角い瞳は、私を捉えて離さない。まあなんだ、つまり、と言葉を途切れさせた飯田君がポケットからなにかを取り出して、差し出してくる。……あ、昨日口に突っ込んじゃった私のハンカチ。
「僕…俺は人の私服の趣味にまで口出しするつもりはない。あれは苗字君の趣味なのだろう?」
「……聡明の生徒とは思えない、でしょう」
「昨日の君は聡明中学の苗字名前ではなく、休日を楽しむ苗字名前だった」
「………」
「…つまりだな、君にあの本を貸したい。君が雄英を目指すと聞いて、少し嬉しかったんだ。なかなか進路を明白にしないと先生も仰っていた。君は雄英を目指せる能力があるしな。だからその、」
「飯田君、もういいよ、いいから!」
飯田君の手からひったくったハンカチを広げて顔を隠す。「最後に言わせてくれ。…スカートは少し短過ぎだ」「う、」「…走るときは注意した方がいい」――ちょっとの嬉しさが恐ろしいまでの恥ずかしさに塗りつぶされていって、私の顔はきっと真っ赤になっている。「…本、今日持ってる?」「ああ。放課後、時間はあるか?」「…ん」頷くと、図書館に行こう、と飯田君が口元を少しだけ緩めた。もう一度頷くと飯田君はそれじゃあ後で、と手を振って自分の席へ戻っていく。
最後の微笑が多分、一番ずるいと思うのだ。ああもう、どうしてこんなことになったんだろう。ハンカチで口を覆って、密かに鼻から息を吸い込んでみる……ふわりと鼻腔をくすぐるのは、私の家で使っているのとはまったく違う洗剤の香り。清潔感溢れるミントの香りは、飯田君のイメージそのものだ。もう、もう。……ずるいよ飯田君!
君はずるいひと
(2015/06/03)