「くだらない」



たった数年。されど数年。

付き合っていた彼と別れた。結婚を前提に考えていた。年齢もそろそろいい感じだし、ずっと上手くやっていけそうだという不確かな自信に満ち溢れていた。私は彼が好きだったし、彼も私のことを好きだと思っていた。尽くせるだけ、彼に尽くしたと思う。

けれど、愛を囁きあった夜はもう遠い場所にあるのだ。私はぼんやりと視界を霞ませたまま、フォークに絡んだパスタを見つめていた。トマトとひき肉がたっぷりと、よく煮込まれたソースが絡むミートソーススパゲティ。「それで?」目の前の南沢さんの顔は霞んだまま。


「振られたんです」
「へえ」
「……驚いたり、どんな顔をするか迷ったりしないんですね」
「そりゃあ興味ないし」
「………」
「機嫌悪くした?」
「…いえ、そんなことないです。むしろ気楽です」
「気楽って顔じゃないけどな」


すうっと周囲の景色が鮮やかに写る。焦点を合わせて目の前の南沢さんを見つめると、ほら食えよと目の前のパスタを示された。「ここのパスタは美味いから」「…そうなんですか」いただきます、と小さく呟いて絡めた麺を口へ運ぶ。ふんわりと、トマトの風味が口いっぱいに広がっていく。同時にじわり、と視界が再び滲んだ。

振られた。そう、振られたのだ。彼は浮気をしていて、相手は私なんかよりも断然綺麗な、所謂美女に分類されるとてもセクシーな女上司。夜のオフィスで、居残りをしていた彼を手伝おうと必死に自分の残業を切り上げて…扉を開いた先に憧れていた美女と、大好きな彼がキスをしているのを見てしまった。二人は私に気がつかなかったし、監視カメラの目線すら気にしていないようだった。愛している、私もよ、こうやってキスが出来るのが嬉しい、ねえ今度はいつ会える、なるべく早くあいつと別れるから―――…がらがらと、何かが崩れていく音が聞こえたのだ。それは積み重ねてきた年月が、全て無に返される音だったのかもしれない。

自分のディスクに仕舞おうとしていた書類が手から滑り落ちた。四つの目が私を凝視していた。ごめんなさい、と呟いた気がする。小さい声だったはずなのに、三人しか人間のいないオフィスと静まり返ったその空間に、声は酷く大きく響いたようだった。名前、と彼が私を呼んだけれど私の頭の中はぐちゃぐちゃだったし、何も考えたくないと訴えていた。

どうして、なんで、をいくつか繰り返したあとにもう一度出てきた言葉はごめんなさい、だった。彼も、彼女も何も言わなかった。しばらくして彼女ははだけたスーツを直しながら、彼に言葉を促した。……彼は、私のことをもうずっと好きだと思わないままにからっぽの言葉を私に与えていたと白状したあと、私に用済みだと言い放った。そうして目の前で彼女の胸元を掴んで引き寄せて、私にいたずらに与えていたものとは大きく異なるキスを彼女に与えたのだ。彼女はとても嬉しそうに、勝ち誇った顔で私を見据えた。心臓が今にも壊れそうなぐらい、ばくばくと音を立てていた。

それがつい一昨日のこと。残る出勤日が木曜日と金曜日だったから、サプリメントで必死に残りの日数を乗り切ったのだけど、それももう遠い日のことのように感じてしまうのが嫌だった。でも考えてみれば、彼の浮気は当然のことだったのかもしれない。私には不釣り合いなぐらいに顔が整っていて、気さくな性格で優しくて…私なんかと付き合っていることそのものがおかしいことだったの、かも。


「釣り合ってないって影で言われてるの、知ってました」
「……」
「あの人と、彼が、お似合いだって言われてるのも知ってました」
「……へえ」
「でも彼が私以上に好きになったやつはいない、って言ったから信じていたんです」
「……………」
「…全部、嘘だったみたいですけどね」


自分の口元が笑っているのに気がついて、少し驚いた。でももう全て終わってしまったこと。壊れてしまったガラス玉を、元の形に完璧に再現するなんて無理なのだ。そもそも接着剤もなにもないし、破片が残っている気配もない。私が抱えているのはガラス玉が綺麗だったころの記憶だけだ。もうがらくたにしか見えない、きらきらとした思い出を捨てる方法を私は知らない。

ふうん、と南沢さんが呟くのが聞こえた。「それで?」「……それで、って」あまりにも簡単に、軽い気持ちで聞いていますと言わんばかりの表情で南沢さんが私を見つめる。頬杖を付いた彼の目の前には、バジルソースのスパゲティのお皿があった。ぐるぐる、緑色が私の視界を歪ませていく。


「別に、なんにもないんです」
「へえ。職場でも?」
「彼は私に話しかけないし、…私も彼に話しかけないです」
「その浮気相手の美人は?」
「彼にべったりなせいで、みんな私達が別れたことを知ってます。…私が振られたことも」
「ふうん」
「南沢さん、興味ないでしょう」
「そんなことない」
「くだらないって思ってる、そんな顔してる」
「……ま、バレてるならしょうがないか」


くだらないと思ってるよ、とにこやかに笑った彼はいつも通りだった。飄々としていてつかみどころがなくて、それでいて女の子の扱いを心得ていて、とても綺麗な顔をしている。ああ、彼みたいだなあとぼんやり考えた私は最低なんだろう。結局のところ、誰にでも彼の面影を重ねているあたりに自分の未練が伺える。馬鹿な女だね、ああ、パスタが冷めちゃってるよ。


「くだらない」



(2014/08/13)

冷めてる彼のセリフ1:確かに恋だった