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先程いた場所とは反対側のデッキで、ピカチュウの姿はなんなく見つけることができた。――が、様子がおかしいのだ。きょろきょろと挙動不審に周囲を見渡して、何度もごしごしと顔を擦っている……ように見える。
どうしたんだろう、と駆け寄るのを躊躇っているとイーブイが先に駆け出していた。どうしたの、とでも言わんばかりにイーブイが顔をピカチュウに寄せる。ちらりとこちらを向いたピカチュウが、恥じらうように首を振った。そしてじいっと私の手元を見つめる。
はっとして私は手に握っていたリボンを持ち上げた。まさか、いや…まさか。ピカチュウはトキワの森から出てきたばかりで、要するに世間知らずなわけで、且つ引っ込み思案で大人しくて……いやいや、まさか。でも、ピカチュウが両手で頬を何度も擦っている姿は恋する乙女そのもので―――……
「……どうしよう」
頭を抱えずにはいられない。そりゃ勿論、船に乗っているこの一泊の間は出来る限りのことはしてやりたいと思うけど……「初恋って、実らないんじゃなかったっけ」ぼんやりと思い出すのは"向こう"のジンクス。この世界ではどうなんだろう、それ。
(そういえば、私って恋とかしたことあったっけ)
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ピカチュウは、私がリボンを結ぶことを拒まなかった。「ピカチュウ、できたよ」可愛くなった!と言うとふらふらとピカチュウは動き出して、ぼうっとしたままガラスに映る自らとリボンを眺めていた。可愛らしいリボンはピカチュウによく似合っていて、イーブイが楽しそうにピカチュウの周りをぐるぐると走る。
「ポケモンも、…恋をするんだ」
純粋に良いなあ、とピカチュウを眺めながら思う。ピカチュウに好意を寄せられたポケモンが羨ましいと思うし、同時にピカチュウを羨ましいと思う。はしゃぐイーブイだってそうだ。私にはないものを、イーブイもピカチュウも持っている。
食堂の窓から見下ろす海は、きらきらと太陽の光を反射させて光っていた。太陽の光も海の色も、まるで向こうと変わらないのになあと思う。……一人になって、強くそれを意識させられた気がする。グリーンさんたちと居た時にはあまり考えることのなかった"向こう"のことを鮮明に思い出していた。
自分のことでいつだって手一杯で、他人のことを考える余裕なんて私にはなかったから。だからこっちに来てから、いつだって心には空いたスペースができていた。そのスペースを無自覚のうちにレッドさんや……グリーンさんで埋めていたのかもしれない。もしかして、それは私の初めての恋だったりしたのかもしれない。今となっては気持ちがうやむやなままで、まったく分からないけれど。だから私はピカチュウの気持ちが分からない。
コマーシャルで流れるドラマの宣伝。本屋さんで見かける可愛らしいポップ。
恋は素敵なものだと常にインプットされていた気がする。同級生が嬉しそうに、好きな男の子のことについて話していた記憶もある。私もそういえば聞かれていたっけ。好きな人はいる、いないんなら紹介しようか――…耳元に小さく声が響いた。私にそう言ってきたのは誰だったっけ。名前も顔も思い出せないかつてのクラスメイトのなかに、私の友達は一人もいない。正確に言えば私が友達だと言い切る自信のある人間がいない。
広く浅い付き合いで、目立たないように。自分のことだけ考えて。
トラックが目の前に迫っていた光景は、常に私の瞼の裏にある。目を閉じるだけで恐怖と諦めが湧き上がってくるあの光景。あの時私は確かに死んでしまう運命だったんだろう。それが何の因果かこんな世界に来てしまって、――幸せな時間を過ごして、それから……「ああ、もう!」急に大声を出した私に驚いたのか、ピカチュウとイーブイが揃って耳をぴくりと動かして振り向いた。「っ、ごめんごめん!ちょっと恥ずかしい思い出がね」両手をひらひらと振りながら二匹に笑顔を浮かべてみせた。考えるのをやめよう。今はピカチュウを応援せねば。
「ねえ、ピカチュウ。そのリボンを誰かに見せたいんじゃない?」
はっとしたように顔を上げたピカチュウは、すぐに目を逸らして俯いた。「私に出来る限りのことはしたい。…この船に乗っていられるのは一日なんだよ」友達になるのは早い方がいいと思う、と言い切って目の前のトレイに残っていたパンを口に詰め込んだ。咀嚼し終える頃には上目遣いでピカチュウが私を見上げていた。
しばらくもじもじとしていたピカチュウがゆっくりと、前足を上げた。指し示された方向は私が座っていたのとは逆方向の窓際で、人がまばらに座っていた。ふと目に入ったのは先程ぶつかった金銀ライバルで、マニューラがきのみにかじりつくところだった。それをそっと見なかったことにする。流石に――いや、流石にないと思いたい。
主要人物は主要人物を呼ぶ。これは多分、どこの世界でも共通だと思う。グリーンさんやレッドさんに追いかけられるわけにはいかないのだ。「あの右側の、大きな帽子の女の人のデンリュウ?」期待を込めて振り返るが、ふるふるとピカチュウが首を振る。「じゃあその隣の、おじいさんのサンダース」同じ電気タイプだし、と付け加えて振り向くもののピカチュウは再び首を振った。違うらしい。
「じゃあその隣の――……赤い髪の毛の男の子の、マニューラ?」
二度あることは三度ある。再びピカチュウが首を振ってくれることを期待して振り向くと、顔を真っ赤にしたピカチュウが俯いていて――しばらくして小さくこくりと首を上下に動かした。まさかだった。
恋をしたきみ
(2014/05/06)