56
走る。ただただひたすら走る。
アブソルは姿をいつの間にか消してしまっていた。それに気がつかないまま、ただただひたすらに走る私。何の因果だろう、どうして私はまたスピアーに追われているのか。
ここに来る前まではスピアーが嫌いなわけではなかったし(むしろ虫タイプの方ではかなり好きだった)、今だってスピアーを嫌悪しているわけではない。ただ…一度怖いと思ってしまって、そうしたらいつの間にか恐怖が骨に染み付いてしまっていた。怖い。ひたすらに怖くて怖くて仕方がない。もう、目の前を霞ませたくない。
―――あの時は、運良く助けて貰えたけれども。
今は誰の助けもない。ああ、まだハナダでグリーンさんとレッドさんはポケモンセンターのホテルでぐっすりと眠っているんだろうか。私は今、助けて欲しいと思っている。自分から逃げ出したくせに、都合の良い事ばかりを考えている。――悪い予感にばかり、囚われているからかもしれない。
「……っ、たす、け……!」
あ、息が続かない。道だって分からない。ただただ感覚で走るだけだ。声を出して、今の状態で大声で叫んで助けを求める体力が勿体無いとすら感じてしまう。……ああ、どうして走っているの?倒れ伏せてしまえば、もしかしたら楽になれるのかもしれないよ?――頭の中で誰かの声が響いた。確かにそれを、私はずっと望んでいた、はずだ。
グリーンさんに助けられたそれは、楽になれるチャンスを逃したことと同義だったのかもしれない。けれどもこの世界に来て私は確かに救われた。心の奥底に封じ込めていた欲求を叶えてくれる人がここにいた。――悩みを打ち明けられる存在が欲しくて、心から頼れる人が欲しくて、心から笑うことの出来る場所が欲しくて……救ってくれる人が欲しかったのだ。ずっとそれを望んでいた。与えられなかったものをひたすらに求めていて、夢のようなこの世界はそれらを全て、当たり前のように平等に頒布していた。
でも、私はどう足掻いたって異分子だ。
(だから、この森は…スピアー達は私を排除しようとしているのかもしれない)
ここで倒れたらグリーンさんにそりゃもう迷惑を掛けるだろう。レッドさんは怒るだろう。リーフちゃんは責任を感じてしまうだろう。イーブイは…きっと涙を流してくれる。みんなは優しいから、私にひたすら懺悔を繰り返してくれるんだ。確信を持ってしまうのは、嘘偽りで接された気がしないから。この世界で出会った人は皆、仮面を被っていなかった。(とても優しい世界この世界は、都合の良さだけで形成されているみたい。沢山の蜜を啜ったけれども)……嫌だ、なあ。そんなことはさせたくない。そんなことをさせるぐらいならもういっそ、私は!
**
「……ああクソ、眠れねえよ……!」
こんなに落ち着かないのは久しぶりだ。――確かに色々とあったけれども、流石に眠れないのは久しぶりだった。窓の外からはうす明るい光が差し込んでいて、もう朝なのだと実感させられた。ふと、トキワの方向に目をやるけれどもオツキミ山に遮られ見えない。と、ごそごそと何かが動く音が聞こえた。レッドが寝返りでもしてんのかな、なんて思っていると頭上にばしりと衝撃が走る。
「あのさあ、」
「っうお!?」
「……グリーン、何回も何回も寝返り打ち過ぎ」
俺も眠れなかったんだけど…!と不機嫌を露わにした顔で枕を俺の頭に叩きつけてきたのはやはりレッドだった。思わず驚いてしまったけれど、流石にこれは俺が悪い。「いや、その…」しょうがねえじゃねえか、なんか落ち着かなかったんだよ!……そう、何か嫌なものを見落としているというか、何かやらなければいけないのに、それをふとした一瞬で忘れてしまったかのような不愉快感が。そう、それがずっと胸の奥に残っている。
「あーあー、…今何時?うわ、まだ五時半…寝ようかな」
「寝とけ寝とけ、二度寝しとけ。そのまま置いてってや…おいどこ行くんだよ」
「え、ナマエのとこで二度寝しようと思って」
「は!?やめろ馬鹿!」
「なんで?一人より二人の方があったかいじゃん」
「いやそういう問題じゃねえよ!」
「大丈夫、やましいことはしないし」
「嘘だ」
「じゃあグリーンも来る?」
「…………」
思わず黙り込んでしまったら、レッドがこのむっつり、なんて言い出したから思わず頭をはたいていた。お前に言われたくねえよこのむっつりスケベめ。言いだしっぺはどっちだまったく。……まあ、ともあれ少し口実が出来たことにほっとしている自分がいた。ナマエの顔を見ていなくて不安になっていたのだ。
枕を抱えてレッドと共に部屋を出て、数歩歩けばナマエが寝泊りしている部屋だ。鍵はカードキーで、いざという時のためにとお互いに交換した予備の鍵を迷う事なく取り出したレッドに少し呆れる。緊急事態とはなんだったのか。「え、ナマエの寝顔を見れるんだから緊急事態で良いんじゃない?」お前はいつの間にそんな迷いがなくなったんだレッド。
「んじゃ開けるよー」
気の抜けた声、それからレッドの寝癖の付いた頭の上。その声に反応してぴかあ…半分夢の世界にいるピカチュウが鳴いた声に合わせて、扉がゆっくりと開いていく。――まず感じたのは言い様のない不安だった。次いで、少しぼんやりとしていたレッドの目がしっかりと開くのが見えた。不安が予感に変わり、確信へと変わる。
まず、入口がやけに整頓されていた。ベッドはまるで来た時のように綺麗に整頓されていて、壁のハンガーに掛けられていたナマエの上着が消えていた。簡単な机の上に私物は一切無くて、開いた窓から風が吹き込むだけの部屋。イーブイもいない。そう、その部屋はまるで、
――ナマエの存在そのものが消え去ってしまった、そんな風に思わせた。
例えば彼女が消えてしまったと仮定した世界は
(2013/12/07)