これは何物にも代え難い幸福
――藤田さんに、別れを告げる夢を見た。
あの赤い満月の夜、藤田さんのところに戻らなかった私はチャーリーさんの手を取って、彼に背中を向けたのだ。今まで見せたこともないような…悲しい笑顔の藤田さんに背中を向けて、私はチャーリーさんに帰りたい、と言った。涙を流しながら帰りたい、と。
出会ったときの恐ろしさを、知っていくたびに惹かれていくその不器用な優しさを、私だけに見せてくれる儚い笑顔を、全て振り切る夢だった。振り返りたい気持ちを唇に噛んで、流した血を涙の変わりに。いいの、と聞いたチャーリーさんに頷いた夢の中の私はどんな考えの末にその決断を下したんだろうと考えた。…こんなに優しい人の手のひらを、振り払ってしまう勇気があるなんて。
目を覚ましたとき私の体は指の先まで全て冷たく冷え切っていて、そこが布団の中だと認識するまでに数秒ほど必要だった。どくんどくん、と心臓が嫌な音を響かせている。ぶるり、と思わず身震いするほどに寒いのは外で雪が降っているせいではないとは思うけれど、自分が何に怯えていたのか、どうしても思い出すことができなかった。ひどく恐ろしい夢を見た、という感覚だけが体中にべっとりと染み付いた汗と一緒に残っていた。そろそろと起き上がって隣を覗き見る。
どくんどくんと、嫌な音を響かせていた心臓が静かに落ち着いていくのを感じた。吐き出した安堵は空中に白く霧散して、伸ばした指は確かに五郎さんの寝巻の裾を掴んだ。良かった、これは現実だと頭の中で冷静な自分の声が響く。静かに寝息を立てる、五郎さんの横顔に引き寄せられるように思わず体を寄せていた。気配に反応したのだろう、ぴくり、と五郎さんの肩が動いて目が開く。
「……どうした」
「…あ、ごめんなさい。疲れているのに起こしてしまって…」
「構わんが、まだ随分早い時間だろう」
悪い夢でも見たか、と言いながら優しく微笑む横顔に思わず手を伸ばした。不思議そうな顔をする五郎さんの頬に、そっと指先を滑らせる。微かな温もりにもう一度現実を噛み締めて、もう一度、もう一度と五郎さんの頬に触れる。暖かい。生きている。これは恐ろしい夢の続きじゃない。五郎さんは、私の目の前から消えたりしないし私も五郎さんの目の前から消えることはない。大丈夫、大丈夫。
「本当に、悪い夢を見たらしいな」
「………あれは、あれは夢です」
「どんな夢を見た」
「…あんまり思い出せませんけど、五郎さんと、二度と会えなくなる、みたいで」
微かに滲む視界を、夢だろう、と言いながら優しく拭ってくれる指先を頬に触れていた指で絡め取った。「…ごめんなさい、怖くて、しょうがなくて」「……構わん」五郎さんの腕をそのまま、胸に引き寄せて抱きしめる。寒さか恐ろしさか、がくがくと震える指に力を入れると、優しく引き寄せられて大きな温もりに包まれた。五郎さん、と呟いた声は彼の胸元に消えていく。
守ってやると言っただろう、と囁く声に小さく頷いて目を閉じた。どんなものからも五郎さんは私を守ると誓ってくれて、その誓いは今も常に果たされている。恐ろしい夢から守るように、私を包んでそうして優しく彼は笑うのだ。だから私はきっと、また夢を見るんだろう。何物にも代え難い幸福な気持ちで目を閉じたから、今度はきっと幸せな夢を。
これは何物にも代え難い幸福
(2015/02/18)
藤田さんお誕生日おめでとうございます!