儚き散りゆく


父は武家様に奉公に出ていた。母が死んでから男手一人、私を育ててくれた大切な父だ。そんな父が珍しく、忘れ物をしてしまったのだ。父のためならあまり外を出歩くなと言われていても、出歩く他はないと思う。

料理屋で父と二人、店を切り盛りする友人も私と似たような境遇に有る。このご時世、片親はそれほど珍しくないものだ。父が母が、と楽しそうに私の目の前で笑う近所の幼子の頭を撫でながら強く思う。「それでお姉ちゃん、どこへ行くの?」「父様がお昼を忘れてしまって。これから届けに行くところなのよ」「ふうん…帰ってきたら遊んでくれる?」右手に独楽を、左手に縄を持った幼子が私に問う。頷くと、花が咲いたようにぱあっと明るく輝く顔。

包みを持ち替え、しゃがんでいた腰を伸ばす。またね、またね!小さい手のひらがぶんぶんと振られる。急く心をなんとか宥めすかして、私は口元を緩めて幼子に手を振り返した。なるべく早足にならないように、落ち着いた所作を落ち着いた所作を、と自分に言い聞かせて歩き出す。視界にちらつく桜色の花弁が、風に凪いだあの美しい髪を彷彿とさせた。長く、美しく艶やかで、儚い桜色のそれは指先に触れたとき、酷く柔らかかったのを覚えている。―――触れたら、消えてしまいそうだった。





あの日は月の綺麗な夜だった。頭巾を被り、木にもたれ掛かったその男の人は苦しそうな表情をしていた。友人との他愛ない話をもっと早く切り上げていれば、或いはもっと話が盛り上がっていたら、その人を見ることはなかっただろう。思わず大丈夫ですか、と声を掛けずにはいられなくなるほど、苦しそうな表情だった。こんな時間に娘が殿方に声を掛けるなんて、と自分の事ながら驚いたものだ。もっと驚いたのは振り返ったその人が、忌々しいと言わんばかりに私を睨みつけたことだったかもしれない。

夜桜がひらりと舞い上がり、それに煽られるように男の人の着物が揺れた。隙間から見えたのは滴る血で、睨みつけられているのも忘れた私は思わず手を伸ばしていた。触るな、とよく通る声が響いて私の手は払いのけられた。払い除けられた瞬間、私はその人の頭巾の隙間からちらりと覗くものを見てしまった。見てしまったからには、益々放っておけなくなった。
額の鉢巻を取ることに躊躇することはなかったように思う。前髪の合間から生えている、私の額にあるものを見てその人は目を丸くした。無言ですぐに鉢巻を結び直すと、小さな声が人間風情の真似を、と吐き捨てた。

…私は私なりに、江戸で父様と上手く暮らしている。故郷はもう無いし、新たな住処を見つけたとしても焼き払われてしまうことだってある。私達は人に膝を折るしかないのだ。ならば多少の危険は伴えど、平和な街で身分を隠して暮らした方が勉強は出来るし食べるものにだって困らないと母様は私に言っていた。一種の考えとして、それは有りだと思ったからこそ私達は江戸に来たのだ。別に共存しているつもりはないし、心を許したわけではない。…ある程度の線引きの上で交流を持つ人はおれど。向こうも私達を人と思っているでしょう。

淡々と話せばその人は、目を細めて何も言わなくなった。ただ忌々しげな目線は揺らぐことがなかった。それでも取り出して引き裂いた手ぬぐいを、黙って受け入れてくれたからこういった考えの鬼がいるということも一応は知っておいてくれるということなのだと、良いように解釈しておくことにする。風に揺らいだ髪が指先に触れたのもこの時だった。柔らかかった。消えてしまいそうだった。漠然とそんな予感が胸中を支配して締め付けた。
…私は自分の家が近いことを話した。父親が帰るのが少し遅くなることも。夕飯の仕込みが少し多くなってしまったと嘘を吐いて、その人の腕を引いて家に帰った。

椀に汁物を、皿に魚を。小鉢に煮付けと、小皿に香の物を。そんなに豪華ではないけれど、これも何かの縁だろう、と。武器を持っているし、怪我をしているということは乱闘に巻き込まれたということだし……何故かちらりと脳裏を掠めた、道行く人が話す箱根峠の山賊の話は頭からそっと追い出した。
その人は状況を飲み込めないという困惑した顔になっていた。忌々しげな目線は訝しげな目線に変わり、鋭く私を見据えている。それでも私が椀に口を付けるのを見て、その人も渋々といったように香の物に手を伸ばした。何の会話もない静かな食卓だった。





「……悪くなかった、ってもう一回、言ってくれてもいいよ」


風呂敷包を取り落とすことはなかった。ただ静かに私は呟いて、それは街の声にかき消された。あれが箱根峠の、奉行所を爆破、吉原に潜んでいた、鬼族―――…聞こえていたはずの声は、やがて完全に聞こえなくなる。全て食べ終わったあとに、小さく悪くなかった、と呟いてくれた声はやはり耳元に残っていた。静かな夜の来客との食事は、私の心に何かを残していた。今にも消えてしまいそうな、……死んでしまいそうな姿に恋い焦がれていたのだと私はようやく知ることになる。今ここで鉢巻を取れば、私はあの隣に並ぶことが出来るかしら。もう焼かれてしまったであろう腕には、あの手ぬぐいの一部が巻きつけられているのかしら。ねえシグラギさん、シグラギさん。


「…せめて、名前ぐらい自分の口から名乗って欲しかったよ」



儚き散りゆく



(2015/08/04)

鬼族さんルートください