君を攫って逃げ出した

今日は珍しく朝から体調が良かったから、ホームルームを受けたいと久しぶりに教室に顔を出した。歓迎してくれるクラスメイトに囲まれ、頬が緩む。……はず、だった。


(ナマエさんがいない)


もうどの部活の朝練も終わっている時間だというのに、ナマエさんの姿は見当たらなかった。この間の自分の発言――『うらやましい』を取り消したくて、彼女が保健室にもう一度来てくれる事を心の隅で望んでいた自分。ところが先生によれば、丁度自分が眠っている時間にナマエさんが来たというではないか。どうしても彼女と話がしたくなって「調子が良いから」と言い張り教室に出てきたものの、肝心のナマエさんが見当たらないのでは意味が無い。

もしかして、今日は休みなのだろうか?ぼんやりと机に座り、そして自分の席が一番後ろの窓際でナマエさんはその前の席だったという事に今更気が付く。保健室が普段の居場所だから気がつかなかったけれど、彼女と自分にはこんな接点があったのだと知って少し嬉しくなった。

ただずっと、見つめていただけの存在。

校庭で一番輝いていた彼女。自分には出来ない事をあんなに楽しそうに、本当に嬉しそうに。羨ましいという気持ちが一番強くて、自分のクラスの体育の授業がいつだか知っているのを良い事に窓からずっと、見つめていたのだ。
ナマエさんがゴールを決めて嬉しそうにしていたら僕も嬉しくなるし、点を取られて悔しそうにしていたら応援したくなる。窓際に座り、サーナイトがいるのも忘れて「頑張れ」と呟いた声がやけに大きく保健室に響いた気がしたのだ。


自分に無いものを持っている彼女に、強く強く憧れた。


まるで彼女は童話に出てくる王子様みたいで、それに憧れる自分はお姫様みたいだと思う。立場としては、それが本当にしっくり来る気がした。いつか魔法使いのおばあさんが現れて、僕と彼女を対等にしてくれる夢を見るのだ。そしてダンスではなく、出来うる事ならば―――ポケモンバトルをしてみたい。彼女の事が知りたい。彼女の中での自分の存在を、ただの病弱なクラスメイトにしておきたくないという強い感情。

だからこれをきっかけに、少しでも会話を交わせる仲になれればと―――……


「…………あ」


がらり。教室の扉が開いて、顔を出したのは――多分、ナマエさん。いや、ナマエさんなのだ。彼女の存在を認識した瞬間、しんと静まる教室。ジャージの袖から覗く素肌に巻きつけられた包帯が強く目を引いた。彼女の顔は無表情で、そんな彼女の顔を見るのは初めてだった。普段はあんなに明るい笑顔で太陽みたいな女の子なのに…何があったのか、自分だけが知らないらしい。不安に駆られて思わず隣のユウキくんを見る。黙って目を伏せたままの彼が、小さく呟いた。「気にするな」襲いかかってきたのは強烈な疎外感。気にするなと言った友人が信じられない。どうして?目を見開くしか出来ない僕の目の前を通り、ナマエさんは自分の席に(つまり僕の目の前の席に)鞄を置いた。その背中には暗い影が見えるような気がする。

どうしよう、彼女をこのままこんな――しんとした教室で、誰もが動きを止めた教室でナマエさんだけが静かに小さな音を立てて動いている。それが何故だか危機感を煽った。このまま先生を待っていてはいけない気がするのだ。がたん!大きな音を立てて椅子から立ち上がった。教室中の視線が集まるのが分かる。


「ナマエさん」


ゆっくりと机の横に移動しながら、彼女の背中に声をかけた。ゆっくりと振り向いたナマエさんの目は自信を砕かれたかのような何かを失った目。その目にうっすらと滲んで光に反射した"それ"を見つけてしまう。気がついているのは自分だけ。ならばどうすべきか?


「行こう?」


問いかけは口先だけ。手を伸ばして彼女の包帯が巻かれていない手首を握った。普段あんなに自分より大きな男子生徒を投げ飛ばしているとは思えない、普通の女の子の手首を。彼女の瞳が揺れるのが分かる。でも選択肢なんて与えてあげない。その手を引いて、静かに歩き出す。教室の扉を開いて、そして閉じた。



君を攫って逃げ出した

(君を傷つける目線から、君を守りたくて)

(2013/05/02)