揺蕩う心臓
「この都は随分と広そうです。手分けして、情報を集めませんか?」
――オーフィーヌの海底、息の出来る、神秘の海の最果ての都、ルシュカ。
着くなり感嘆の声を上げて、美しい水の都に溜息を漏らしていたエステラが、真面目な顔に切り替え、情報収集で別行動を取りたいと言い出したのは酒場の前でだった。ナマエとトビアスに異論はなく、顔を見合わせた二人は頷き、エステラに向き直る。
「…異論はない」
「じゃあ、二時間後に集まろうか。集合場所は?」
「あの上の方に見える、サンゴの前でなど如何でしょう」
「うん、そうしよう。エステラ、それでいい?」
トビアスと共にさくさくと予定を決めたナマエが決定を委ねるべく、エステラの言葉を促す。するとエステラがああ、ええと、と言葉を濁し、困ったように笑った。少し考えるそぶりを見せた後、エステラが伺うようにナマエを見つめる。
「…僭越ながらナマエさん。トビアスと、行動を共にして頂けませんか?」
「えっ」
「どういうことだ、エステラ」
「それはその…トビアス、あなたが心配なんです」
「はあ?」
思い切り眉を潜めたトビアスが、視線を惑わせるエステラを睨む。心配される筋合いはない、と不機嫌を言葉の上で露わにするトビアスの横で、ナマエはようやくエステラの言おうとしていることを理解した。――理解した瞬間、ナマエの頬が爆発したかのような熱を放つ。つまりエステラは、気を利かそうとしているのだ。ナマエとトビアスを二人きりにしようと。
確かにルシュカのような美しい街を、トビアスと二人でゆっくり歩けたらそれは一生の思い出になるだろうとナマエは思う。もちろん三人で歩いても、一人でゆっくり歩いても、忘れられない思い出になることは間違いないだろう。けれどトビアスと二人きりとなれば、大きく話は変わってくる。
領界調査で多忙なトビアスと二人きりで言葉を交わした回数を思い返し、数えてみたナマエはその回数が、片手の指の数で足りてしまうことを知り思わず溜息を吐きたくなる。しかもそれもほんの数分であったりする。――エステラが上手くトビアスを説得してくれれば実質、初めてトビアスと二人きりで、ゆっくりと話をすることが出来るのかもしれない。期待に胸を膨らませたナマエは黙って、まるで姉弟のようなやり取りを交わす二人を見守る。
「心配?どういう意味だ、エステラ」
「…普段はあなたの部下の方が、あなたのストッパーになっている。真面目なあなたはたまにその生真面目さ故に、冷静になれなくなる時があるでしょう」
「………」
「付き合いの長い私より、解放者であるナマエさんが一緒に居た方が少し、冷静になりやすいかと思ったのです。ここは栄えているとはいえ未知の領界。何が起こるかなんて分かりませんから」
「……一理あるが、納得はいかない」
「あら、ナマエさんと行動するのは嫌なのですか?」
「なっ!?」
トビアスより一枚上手だったエステラの言葉に、トビアスが言葉を詰まらせたのを見て、ナマエの心臓が嫌な音を立てる。「…そ、そうなの?」「そんなはずは!」恐る恐る問いかけると、即座に否定の言葉が返ってくる。ほっと息を吐き出すと、では決まりですね、とエステラが場を締め括った。この流れの中で、トビアスに決定権は無いようだった。
「では、二時間後。あのサンゴの前で」
「うん、またあとで。トビアス、よろしくね」
「……気を利かせてやるから二人で楽しんで来いと、言えばそこで終わりだろう」
「…トビアス?」
「あ、ああ……いえ、なんでもありません。同行致します、解放者様」
トビアスがナマエに頭を下げる。拳を合わせた一礼に心臓を跳ねさせたナマエは、よく聞こえなかった言葉を気にしないことにした。トビアスとエステラの間に存在する、多感な幼少期を共に過ごしてきたことにより育まれてきたその関係に、飛び入りの異種族が関わることはきっと、竜族を救うことよりも難しい。トビアスがエステラに向けた言葉を知りたいと思っても、追及することは許されないのだ。
**
建物の間を舞うように泳ぐ、極彩色の魚の群れが目の前を横切っていく。
ナマエから一歩離れて、トビアスが歩いている。まるで従者のようなその立ち位置にナマエも影響されてしまい、律儀に聞き込みを行っていた。話しかけるたび、竜族ではないナマエの姿に目を見開かれ、その背後に体格のいい竜族の男が控えているものだから、更に目を見開かれる。せめてトビアスがエステラであれば、このように驚かれなかっただろうか。いや、そもそもこの場にいるのが自分ではなくエステラであれば、驚かれることは無いであろうとナマエは思う。驚かれるたび、竜族に生まれなかった自分を呪う。竜族でない、今の自分であるからこその様々な出会いを経て、今ここに解放者として立っていることを知っているくせに、好いた人との間に存在する決して乗り越えることの出来ない、大きな壁の前で足踏みしている。
「トビアス、本当に嫌なら嫌だって、言って良かったんだよ」
「…どういう意味でしょうか」
「いい気分はしてないだろうなって、今ずっと考えてるの。異種族の女が竜族を従えて、この街の情報を集めてるなんて。トビアスだって、じろじろ見られてるでしょう」
「そうでしょうか」
「私が、そういう風に思うだけ?」
「……いえ、何とも」
濁すような言葉に思わず、動いていた足が止まる。足を止めたナマエに合わせ、トビアスも静かに足を止めた。臭い物に蓋をするように、嫌なものからトビアスが目を逸らしているのであれば、私はやはり彼と二人でいる権利を持ち合わせないのではないかと、ナマエの思考は悪い方へ悪い方へ、どんどん転がり落ちていく。
結局、解放者とエステラに見初められることが無ければナマエはトビアスの中で、ただのトカゲの骨として終わっていたであろう存在だ。多少腕が立ち、多少頭が回り、多少戦いの場に慣れているだけの、それだけの者。解放者、の三文字で繋がっているこの関係は、いつ終わってもおかしくない。――だからこそ、終わる前にせめて何か一つでも、トビアスの心に残る記憶を刻みたいと思うのは傲慢なのだろうか。
「私と一緒にいるのが嫌じゃないなら、…隣を歩いてもいいかなあ」
「それこそ、解放者様の気にする周囲の目線とやらが、強くなる気が致しますが」
「うん。だからトビアスが嫌だと思うなら、このまま歩き出して、一人で約束の時間まで情報を集めて欲しい。私もそうするし、エステラには私が迷子になったって言うよ」
振り向き、選んで、とトビアスを促すナマエが笑うのを見て、トビアスは一歩、足を踏み出した。次の瞬間ナマエの笑みが崩れ、くしゃりと歪んだのをトビアスは見た。本人は今だ、笑っているつもりなのだろうと思えどナマエは感情がすぐ顔に出ることを、トビアスはちゃんと知っていた。付き合いがそこまで浅いつもりはない。
ナマエの隣で足を止めると、ぱちぱちと瞬いた目がトビアスの横顔を食い入るように見つめた。えっ、嫌じゃないの。不愉快でしょう。隣にきてくれるの。私が、行くのではなくて?トビアスが、隣に来てくれるの?視線と表情だけで、ナマエはトビアス質問攻めにする。
「嫌だと言った覚えは、一度も」
「…それ、優しいだけならトビアスすごく、ひどいよ?」
「優しさや哀れみで貴方の隣に立ったと思われている。そう受け止められたいのか」
「そ、んなことは!ない、よ!?」
「ならば、このまま歩き出しましょう。貴方が言わない限り、"言えないと思っている"限り、オレは何も言えるはずがない」
やけに強いトビアスの視線が、ためらいから生まれたナマエの言葉を打ち抜いていく。トビアスの言葉の意味を咀嚼し、上手く呑み込めないナマエは期待してはいけない、期待してはいけないと必死に自分を戒める。どんな口説き文句よりも、その言葉は甘い誘惑だった。自分への戒めの言葉は尽き、確信を帯びた期待がこんこんと溢れ、心臓を満たす。
見えないように揺らした手は、無言のうちに攫われていた。絡んだ指先から自分のものではない体温が、伝わってくる感覚に脳が痺れた。時間よ止まれという願いが神に届くことは無くとも、自分の抱く恋情は隣に立つトビアスに伝わっている。ナマエは、それだけで十分だった。
20161012
「それで、トビアス。…ナマエさんと二人きりで、何か進展は?」
「……………………特には」
「何かあったのですね、良かった!ナマエさんは水の領界の入り口であなたと再会するまで、それはもう不安そうで…楽園へ向かうまで、何度トビアスの名を聞いたでしょう。これで私も報われるというものです。で?」
「いやエステラ、あのな、」
「手ぐらいはそろそろ、繋いでも良いと思うのですが」
「っ!?」
「……ナマエさんがぼうっと、右手を見つめているのはそういう?」
「………誤解だ!」
「あら恥ずかしがらないでくださいトビアス。私、とても嬉しいです!」
「くっ、エステラ!誤解だと、」
「ナマエさんが解放者である役目を終えてくれた時、貴方がナマエさんの手を取ってくれるって、私、信じていますよ」