トビアスと別れる
――殺せるはずが、ないではないか。
目の前で座り込んだフィナの、揺れる瞳に足がすくんだ。トビアスは怒りに我を忘れ、ナマエのことなんて眼中にない。…それを知っているからこそ、ここで足をすくませてはならないことも、ナマエはよく理解していた。今のトビアスが何よりも重要視しているのは教団。ナドラガ神。――総主教オルストフの意志。
ヒューザの声がどこか遠くで響いている。殺せるはずがないと思いながら、指先は剣の柄を握り締める。抜いた鞘は魔物を滅することはあれどいままで、私利私欲の関係で人の形をしたものを切ったことはなかった。どうしたらいいのか、ナマエには分からない。
ナマエにとって今一番大切なのは、居たい場所は教団の傍であった。ところが旧知の友はそこから去り、此方へ来いという。姿を現した兄はそこにいては、いけないと忠告する。
それでも教団に、エステラの傍に、――トビアスの傍に。居たいと願い続けてきた、これは罰か何かだろうか。異種族はやはり交わるなと、希望を持つなと、神が告げているのか。…ナドラガの神が邪神であるという言葉は恐らく嘘ではないのだろう。合点のいくところがいくつもあった。薄々感じ取ってもいた。…ならばこの感情は、邪神に引き裂かれるということ。きっともう、救い上げられないとしても。
―――それでも。
「ナマエ!」
手から剣が滑り落ちていく。安堵したヒューザの表情が視界に映る。フィナだけがナマエの顔を見て、痛々しいものを見るように眉を潜めた。自分がどんな顔をしているのか、ナマエは知りたいとも思わない。
エステラが自分を呼んでいた。ナダイアから裏切り者と宣言され、トビアスは自分の方を見向きもしない。振り向かないことを理解していてなお、ナマエは開かれた扉の方へ進むトビアスの方を――…ナマエの名を呼び、手を伸ばすエステラを無理矢理連れていくトビアスの背を、見つめることしか出来ない。心の奥で大切にしていた感情が、ぼろぼろに崩れて体中から抜け落ちていく。
「…うらぎりもの、かあ」
「ナマエさん」
「………嫌われちゃった」
駆け寄ってくるヒューザの足音も、目の前で自分を覗き込んで、泣きそうな顔をする神獣の声も、なにもかも耳に入らない。少女の姿をした神獣を、殺してしまえば愛する人がこの手に出来たというのだろうか。…きっとそれも不幸になるだけの、未来が待っているきがする。けれどそれをしなかったことで、今ここにある未来だった場所へ辿り着いたというのであれば、結局彼と私は幸せになれないのではないか。――希望は最初から、無かったのではないか。交わした言葉も共有した景色も、全てが無に還すというのか。
大好きな人に必要とされない、そんな自分は果たして必要なのか。この世界に存在する、理由は一体どこにあるのか。落とした剣を拾えないナマエは、ずっとその場に佇んでいる。