神様だって怖くない
「え、あ、エステラっ!」
「ナマエさん、お待ちしておりました。オルストフ様が…」
「トビアスは?帰ってきたって聞いたけど、怪我は?体調は?また死にそうだったり、」
「…大丈夫ですから落ち着いて、ナマエさん」
宥める優しいエステラの声にナマエは、ようやく自分の荒い息に気が付き慌てて呼吸を整える。必死に走ってきたのであろうその姿に、エステラは苦笑いを隠せなかった。それもこれも前回の氷の領界でのトビアスの怪我が酷かった故だ。闇の領界に着いて行きたいと駄々をこねる解放者を宥めるのに、エステラとナダイア、オルストフがどれだけ骨を折ったか当のトビアスは知らない。ただ漠然と自分の力が信じられていないのか、と思うだけである様子のトビアスはやはり真面目な男であるせいで、周囲――ナマエのことも解放者の面しか見えていないように思えるのだ。上手く行くといいんだが、とトビアスの背中を目で追うことしか出来ないナマエの背を見てナダイアが呟いたのを聞いているエステラは、本当にそうだと頷いた。不安そうに瞳を揺らがせる、解放者の少女はエステラの次の言葉を、今か今かと待ち構えている。
「トビアスは向かいの自室で、オルストフ様の命により薬の調合を」
「……薬?どこか、悪くなったの?」
「そのあたりも含め、オルストフ様がお話してくださいますから、落ち着いて」
「…オルストフ様のところに行く前に、」
「ナマエさんの性格なら、トビアスの部屋の前で引き返してしまうと思いますよ」
「……うん」
オルストフの命令がトビアスにとって絶対のものであることを、ナマエはよく知っている。自分の好いたあの竜族の男は、自らの主に絶対的な忠誠を捧げていて、それが揺らぐことはないのだ。時折振り向いてくれるその眼差しが存在するだけで、今のナマエは満たされる。――彼の真っ直ぐな、真摯な姿にどこまでもどこまでも、惹かれてしまう。
オルストフと話を終え、闇の領界へと向かうべくルーラストーンで氷の領界へ飛ぼうとしたナマエはやはりと静かに石を鞄に戻し、トビアスの部屋へ続く廊下を歩き出した。唸る声に一瞬だけ氷の領界からトビアスが戻ってきたときのあの、恐怖を思い出すもののその唸る声が苦しむものではなく、悩むものであることを認識し微かに息を吐く。
毒に侵される闇の世界に光を齎す、薬の調合は随分と難航しているようだった。扉越しに微かに聞こえるのは恋しき竜の悩む声。増殖する毒に打ち勝つ薬を創り出すための作業がたとえどれほど難しいものでも、トビアスはやはり真摯にオルストフの命に従い、解放者であるナマエの力となるべく、力を尽くしてくれるのだろう。部下に次々と指示を飛ばし研究を急ぐその声を聞いているだけで、扉越しの向こう側にある――真剣なトビアスの表情が、ナマエには見えた気がしていた。きっと一人だけ休むこともせず、ひたすらに、ただ。
「……好きだなあ、やっぱり」
扉に触れた手がどことなく熱く、捧げた額は恋しき人の声を脳に刻み込むべく動く。…今のナマエに出来ることは、闇の領界へ発つことだ。兄弟の言葉に引っ掛かりを覚えているのは確か、それでも生きて帰りたいと必死に武器を握る力は、この世界を救うため。この世界を救いたいのは、恋しき人に認めてもらうため。そのためならきっとナマエは、神にだって戦いを挑めるのだ。
20160526