僕のやさしいフェアリーテイル
あの生き地獄に違いない時間のことを思い出すだけでリュカは全身から血の気が引き、心臓がえぐり取られるような感覚に襲われる。恐らくヘンリーもそうであろう。同じように一国の王という立場に就いた今なら、尚更。今の生活とあの時間を過ごしていた間の生活の差が、時折ふとリュカを心から不安にさせるのだ。かつて自分が奴隷であったことは一部の人間と魔物しか知りえないが、自分とヘンリーを奴隷の立場に追いやったあの魔物の面影が、父を目の前で無残にも焼いたあの炎が、自分たちの手で討ち果たしたゲマのあの笑い声が今もどこかで響いている気がするのだ。
眠れない。リュカは目を閉じまどろむことはあれど、浅い眠りで夢を見ることばかりで、夢のない深い眠りに落ちることがない。手には常に杖を握り締め、不安そうに足にすり寄る愛おしいキラーパンサーの頭を撫でながら、その毛皮の温もりを感じながらなお、リュカは眠ることができない。子供たちの寝顔を眺め、妻の寝顔を眺め、安心しろと。これが現実なのだと、自分は今間違いなく幸せなのだと、言い聞かせても眠りの気配はリュカの元を訪れない。奴隷であった時間に植え付けられた恐怖は、体中に根を張り一生消えることはないのだろう。
自分の中にずっと残るこの恐怖を誰よりも理解し、欲しい言葉ですべてを和らげてくれる人間をリュカは一人だけ知っていた。
子供達を起こさないようにベッドを抜け出し、寝室からテラスへ。ゆるりと起き上がったゲレゲレが、テラスの柵にもたれたリュカの足元に座り込んだ。愛おしいその獣に寄り添うように座り込んだリュカはゲレゲレの背を撫でながら、星が散りばめられた夜空を見上げる。
彼女はサンチョと共に、父パパスに仕えていた。若くして魔法の腕が達者な、所謂天才と呼ばれる部類に入るであろう彼女はもともと、グランバニアの宮廷魔術師だったという。最年少ながら魔法の才能に恵まれ、父パパスを心から尊敬し、母マーサに可愛がられていたという彼女――ナマエはリュカの初恋の相手だった。初恋というのも違うだろうか。あったのは純粋に強い憧れと、この人がずっと傍にいてくれたらという幼い願い。
そういえば今の自分はあの頃の彼女よりも年齢を重ねてしまったのかと、リュカは時の流れる速さに驚く。戦う父を背後から援護し、死角からの攻撃を広範囲魔法で迎撃。戦いの最中は常に冷静そのもので、父はそんな彼女をいつも魔法使いとしての役割を理解し、動いてくれると褒めていた。戦っている時の姿が嘘のように、褒められた時のナマエはへにゃりと顔を崩しありがとうございます、と頬を赤らめていた。幼心にかわいい、と強く感じたのを今もよく覚えている。この人と一緒にいられたら、とも。
感情は緩やかに、しかし確実にナマエへと心を寄せさせた。幼いリュカは夜が好きだった。不意に恐ろしいことが起きそうな気がして、目が冴えてしまう、そんな夜さえも。パパスが深い眠りにつき、気を紛らわすこともできず、眠れないと訴えたリュカをナマエはにこやかに自分のベッドへ迎え入れた。そうして天空からやってきた勇者と、仲間達の冒険のお伽噺を語ってくれた。大切なものを失い、心を閉ざしてしまった勇者が"導かれし者"と呼ばれる七人の仲間と出会い、自分の大切なものを奪い去った魔王と、自分と同じように愛するものを失い狂気に走った魔王と戦う、古い、ふるいお伽噺。ナマエは導かれし者の中でも、愛する奥さんと子供のために自分の店を持つ武器屋の男の話が好きなのだとよく話していた。
『あのねリュカ、リュカもいつか自分と一生を添い遂げてくれる女の人と出会うのよ。そしてきっと、二人の幸せを見届けるための天使がやってくる。この武器屋の男は家族の素晴らしさを知っていたから、自分の知識が魔王を討ち果たすための役に立つなら、それが愛する人を守ることに繋がるのだと知っていたから、愛する家族のために一人、力ではなくありったけの知識で勇者と共に旅をするの。旅の中で得た知識でこの男は、後に伝説の大商人と呼ばれるまでになったそうよ。愛は人を強くするの。』
パパス様もリュカとマーサ様のためなら、きっとなんだって出来ちゃうのね。
微笑んだナマエの目尻にうっすらと浮かぶ涙を、幼いリュカは見なかったことにしたのだ。ナマエは自分の知らない父の顔を、母の顔を知っていた。今思えば恐らくナマエは、母の状況を知っていたのだろう。勇者がどこにいるかも分からず、天空の剣だけを運ぶ日々。ナマエは父と母を再び巡り合わせたいのだと、自分に言い聞かせていた。目を閉じたリュカが聞いているとも知らずに、父と母が再び幸せを取り戻せることを願っていた。パパス様とマーサ様と、リュカが幸せに暮らせるのなら部下としてこれほどの喜びはないわと、サンチョと共にナマエはリュカに笑いかけた。
父を追い、囚われたヘンリーとリュカとゲレゲレの元にナマエが駆け付けた時には既に全てが終わっていた。無残に残された父の姿に心を乱したナマエは、ゲマに一人、戦いを挑んだ。しかし一対一の決闘の申し出を、ゲマが受けることはなかった。ナマエを葬ろうと動き出すジャミとゴンズの横顔を、リュカは今でも鮮明に思い出せる。
天才と呼ばれたグランバニアの若き宮廷魔術師は、心を乱したままジャミとゴンズを同時に相手にすることになった。どうしても冷静さを欠いたその思考は自らを葬り去ろうとするゲマの呪文の詠唱に気付けなかったのだ。リュカの泣き叫ぶ声が響き渡ると同時に、ナマエはゲマの指先から放たれた黒い光に包まれて、存在ごとこの世界から消えてしまった。人間だというのに随分な魔法力だ、とゲマが満足気に嗤った声が耳元にこびりつき、消えない夜は未だに無い。あまりにもあっけない最後に、残ったのは虚しさ。そして、もしかしたらどこかで生きているかもしれないという、幼い自分の希望のない願いだけ。
それでもナマエが自分に与えた、優しい言葉を思い返せば耳元で響くゲマの声が遠ざかってゆく気がするのだ。ナマエがお伽噺と共に教えてくれた、一生を添い遂げる女性と出会った。子供が生まれ、仇討ちを果たし、母を救いに行き、戦いが終わった後は家族を幸せにしなければならない、そう強く思うようになった。今の自分を見たときに、ナマエが心から微笑んで、リュカは強くなったわねと言ってくれるように。捨てきれない希望がどこかで彼女に、届いて救われているように。優しいその声のひとつひとつに、自分が強くなったことを証明して欲しいと祈りながら、リュカはそっと目を閉じた。
頬を撫でた夜風が、彼女の指先を思い出させた。
僕のやさしいフェアリーテイル
(2016/04/26)
企画サイト、「わたしの英雄」様に提出させて頂きます。二度目の参加です!今回も素敵なお題ばかりでさんざん悩んだのですが、フェアリーテイルっていいなあ…ようせいのしっぽ…と思い、検索をかけて、フェアリーテイルにお伽噺という意味があるのを知って一人全力で盛り上がった結果5主が完成しました。5主は本当に強いなあと思います。好きです。思い出深い主人公です。