魂に刻む
・ナドラガ教団というより、オルストフ様が最低
抱いてくれ、と彼女は乞うた。一度でいいから、抱きしめてくれと。
望まれるまま、腕を差し出した。自ら望んだくせに彼女は、暫し躊躇った末にーー今にも泣きそうな赤子のような表情で、胸のなかに飛び込んできた。我が儘言ってごめん、ありがとう、あのねトビアス、あのね…次第に小さくなっていく声は、自分の胸元に吸い込まれていく。認識できない、掠れたそれはたった一人の少女のもの。
解放者である彼女に、ずっと敬意を払ってきたつもりだ。最初こそ無礼な態度を取ったことは認めよう。しかし、彼女を解放者と認めてからは最大限彼女の手足として、役に立てるよう自分に出来ることを考え、実行してきたつもりだ。それは総教主様のためであり、ナドラガ教団のためであり、竜族のためだった。
ーーいつ、゛彼女゛のためになったというのだろう。
自らの信じる存在が白を黒と言うのなら、自分も白を黒と言い張る覚悟は出来ていたつもりだった。いや、実際には出来ていた。覚悟が揺らいだのは間違いなく彼女の存在を感じるようになってからだ。常に笑みを絶やさず、何かあるたびにくるくると表情は移り変わる。ずっと炎に焼かれる空のもと、彼女だけが様々な色を持っていた。白い肌。質の違う髪。角のない頭。小柄な背丈。そして勇ある戦士にも引けをとらない、努力の果てに得た強さ。戦いの時のその瞳に、射抜かれた瞬間彼女の壮絶な人生の一端を知った気がして心臓が震えた。特別ななにかを、確かに感じていた。
彼女は解放者だった。それを感じ取ったのだろうと過去の私は結論付けた。今考えるとそれは一番始まりの…どこの骨とも知れない人間だと認識していた少女を、ナマエという一つの個体として認めた瞬間だったのかもしれない。認め、その役に立とうとするうちに特別な存在のひとつへと成っていったのは…竜族の救世主を手助けしたとして、称えられたいだけではなかった。氷の領界へ旅立つ時も、闇の領界へ旅立つ時も。そこから帰ってきたときも。不安そうな表情が自分と目をあわせるだけで、燦然と輝き光を取り戻す。別れの時は寂しそうに、再会の時は心から喜んでいると体全体で表現する。初めてだったから、特別になるのが早かったのかもしれないとは思う。
「トビアス、どうしてこうなっちゃったのかな」
「私には、…よく、分かりません」
「私も…私もわかんないなあ。なんで、こうなった、かな」
お願いだから生きてよ、と縋るように呟かれる。彼女の指が頬をなぞり、青緑色の返り血がその手首から滴り落ちた。地面に投げ出された剣は以前、解放者様ーーナマエ様が。とても大切なものなのだと、優しく抱きすくめていたものだったはずだ。刃は血に濡れ、飾り紐は千切れ、それでも欠けることはなき剣。
彼女をずっと、剣のようだと思っていた。折れることはない、鍛え上げられた剣。まっすぐなそれが竜族の行く先を示すのだろうと考えていた。実際は。…実際に彼女は解放者であったけれど、同時に一人の少女であった。それを総主教様は理解した上で、私を切り捨てたのだろう。彼女が私を追いかけると知って。
よく仕事をしてくれた、がんばってくれた、もう用済みだと。切り捨てられて凶悪な魔物の生息するエリアから、存在しないものを取ってこいと。言われた瞬間に思い出したのは今腕のなかに閉じこめている小さな少女のことだった。トビアス、トビアスと自分の名を呼ぶその声が好きだと気がついた時には、おそらく手遅れだったのだろう。おびただしい量の血が衣服に付くのも構わないと、必死に回復呪文の詠唱を行うナマエを抱く腕に力を込めた。
「トビアスお願い、お願いだから死なないで、わたし…っ!」
「…いいんです、解放者様」
「やだ、やだよ!助けに来たから!帰れないなら、私とアストルティアに帰ろう!?」
「その言葉だけで十分、救われますから」
「こんな時まで解放者様解放者様って、言わないで!」
激昂に、視界が広がった。今にも死にそうな顔をしているのは、どちらなのか。分からないぐらいにぐちゃぐちゃの、ナマエの表情は好きだと、切に訴えるそれだった。それだけで十分に満たされた気持ちを得られるのは、私も恐らくナマエのことを好いているからだろうと思う。ーー死に際の存在に、好きだなどと。言われて喜んでほしくないのだ。もう助からない自分と彼女は違う存在になる。もう二度と会うことはなく、救われるにはこの感情が、空気に溶けて無になるしかない。
それでも一度だけ。一度だけ許されるのであれば。愛していますと囁いて、一生を共にする契りを交わしたかったと。どこでもいい、この世界でも、あなたの世界でも。二人でいられる場所にいって、幸せを得たかったのだと告白をしたい。…してしまえば何か、変わっただろうか。後悔だけが浮かぶなかで、行かないでと自分を呼ぶ愛しい少女の声が遠く、遠くなってゆく。二度と会えないとしても私は、貴方の記憶を魂に刻みつけ漂って参りましょう。
(2016.01.03)