秘めやかに眠れ
――もし解放者様が現れた場合は、なるべく危険から遠ざけなければならない。
教団の、特に神官達は総主教から定期的にそれを告げられていた…らしい。勇者の盟友、この世界では解放者となったナマエの脳の中で先程まで一緒だったエステラの言葉が蘇っていた。つまり今から自分の体は来たるべき時が来るまで危険から限りなく遠い場所へ連れて行かれるのであろうと、察せないほど疎くはない。現在ナマエの目の前を歩いているのはエステラではなく、トビアスだった。エステラには別の仕事があるのだとか、なんとか。トビアスもナマエを教団の部屋に案内した後は、暫く待機してから氷の領界へ向かうという。安全を確保してからようやく、ナマエは氷の領界へ踏み出すことが出来るらしい。
廊下を暫く歩いたところで、トビアスがぴたりと足を止めた。ナマエもそれに倣い足を止める。――神官達と同じ二階の部屋で、他の部屋のものとは装飾の違う、特別美しい扉。その先は特別な存在のために誂えられた部屋なのだろう。本当どうしてこんなことに、と思わず吐き出しそうになった溜息を飲み込んだナマエは、扉が開くのをじっと待った。やがておもむろに美しい鍵を取り出したトビアスが鍵穴にそれを差し込み、回す。
「どうぞ、解放者様」
「……ありがとう」
「礼には及びません」
当たり前のようにドアを開けてもらうことに罪悪感を感じるナマエは、解放者である前に元々は普通の村娘だった。…勇者であれど王族であるアンルシアなら、こういったことは当たり前に受け止めてしまうのだろうとぼんやり考えながらナマエは室内に足を踏み入れる。…靴の裏がふわりとした柔らかな絨毯の感触を捉えた。「…わあ」思わず口元が緩んでしまったのは、慣れない土地を歩き通しで酷く疲れたせいだとナマエの脚が訴えている。
「お気に召しましたか」
「もちろん!…でも本当に、ここを借りていいの?」
「ええ。後で教団内の施設を案内しましょう」
「…あ、ありがとう」
誘惑に負けて早速用意されたベッド(当然、ふかふかでふわふわだ)に腰掛けたナマエの顔が少しだけ熱を持ったのは、自分を見つめ、喋りながら薄く微笑んだトビアスがやけに魅力的に見えたからだった。
同時にトビアスも異種族人だからと遠ざけてよく見なかった、ナマエのほっとしたと言わんばかりのその表情に魅せられていた。ナマエの瞳が親鳥を求める雛のように不安に揺れていたことに、トビアスはようやく気が付いた。そしてそれは恐らく、トビアス以外の竜族には気が付かれていなかった。盟友として過ごすうちに、ナマエは信頼の置ける相手の前以外で隙を見せることがなくなっていたのだ。今この瞬間だけは孤独と不安が、疲れと気苦労によりコントロールが効かなくなって、表情に出たのであろうことをなんとなく、トビアスは察してしまう。…彼女は自分とよく似ている、とトビアスは思う。
「…解放者様、少し休まれていてください」
「え、施設を案内してくれるんじゃないの?」
「随分お疲れのようです。食事の後に致しましょう。私も氷の領界へ向かう準備がありますので、食事の前に解放者様を呼びに参ります」
「ねえトビアス、私も少し休んだら一緒に氷の領界へ行きたいんだけど」
「…それは私の独断で決められることではありませんので」
「……だよねえ」
どこか力無く、それでも笑顔を作ることが出来るそれだけは、自分と似ていないことをトビアスは知る。…知った瞬間に湧き上がった、潰えぬ欲求のようなものはトビアスの心を大きく揺らした。――エステラが試練を乗り越えた時も、自らが試練を乗り越えた時も、氷の領界への道を開いた時も、教団に戻り大勢から解放者だと認識された瞬間も。ナマエは笑みを作っていたけれど、その表情にはどこか力が無かった。やはり異種族だという扱いを受け、不安と孤独に苛まれていれば本来の表情も隠れてしまうだろうと。解放者様ではなく、目の前の少女の素の表情をもっと、見たいという欲求がむくむくと膨らんで脳内を占拠しそうになっている。
もしも自分が彼女の望みを叶えられたなら。…一瞬だけ浮かんだその考えを、目を閉じそっと振り払ったトビアスは、もう一度膝を折ってナマエの目の前に頭を垂れた。夜、たった一人でこの世界に来た解放者の少女は、隠れて涙を流すだろうか。随分急いていただけに、足止めを歯痒く思い夜を過ごすだろうか。それとも、
「解放者様」
「ど、どうしたのトビアス。頭上げてよ」
「解放者様の望みを叶えることが出来ず、申し訳ありません」
「それは…しょうがないと、思うし」
「先の非礼もあります。足りないとは思いますが…解放者様さえよろしければ、」
「…よろしければ?」
「些細なことでも。頼って貰えれば出来る範囲で力になりましょう」
ぱちぱちと目を瞬かせた解放者の少女が、数秒置いて大きく目を見開いたのが見えた。――それが確かに彼女の"素"の一部であることにトビアスが気が付くと同時に、ナマエの表情が柔らかく崩れた。小さく呟かれたありがとうの言葉に、添えられていた微笑がほんの少し熱を持っていた事実に、今はどちらも気が付かない。
(2015/10/23)