ぼくはあなたに振り回されてばかりだ


――多分、あの子は天使だったんだ。

ぼんやりと考えながら目の前のヒトカゲの頭を撫で回す。ヒトカゲは気持ち良さそうに目を細めていて、それを見ていると釣られて口元が緩んだ。…ヒトカゲも、天使だ。でもあの子みたいに神秘的ではない気がする。もっと身近な存在だ。

あの子は私にとって、とても遠い存在だ。だから多分、ヒトカゲにああ天使だなあ、と思う感覚とあの子を天使だなあ、と思う感覚は大きく異なっているんだと思う。あの子というのは黒髪で、少し節目がちでミステリアスな雰囲気を持っていて、それでいてとても強い少年トレーナーのことだ。連れていたピカチュウ一匹に、私の自慢のポケモン達はみんななぎ倒されてしまった。チャンピオンロードでの苦い思い出は、数年経てば感慨深い思い出へと変わっている。

酷く強くて、同時にとても美しい戦い方をする天使だった。バトルが終わった後のピカチュウに声をかけるその時だけ口元を緩ませていた気がする。あの微笑みは敗北の屈辱も、絶望も、全て忘れさせてしまうぐらいに綺麗だった。


―――そう、私は天使に恋をしたのだ。


「……おい、ボーッとしてくれんなよ」
「っ、え?あ、おはよう」
「間抜け顔で挨拶されてもな…もう昼時だっての」


いつの間にリビングに入ってきていたんだろう。昨日言ってた天使ってやつか、と呆れたように肩をすくめて私の目の前を通り過ぎていったグリーンはコーヒー、とすれ違いざまに一言残した。頷いて目の前のポットを少し揺らすと、まだお湯には余裕があることが確認できた。いつの間にか私の手元からいなくなっていたヒトカゲが覚束無い足取りでグリーンのカップを運んできたから受け取って、インスタントのコーヒーを入れてやる準備をする。私はさっき起きたばかりだけど、どうやらもうお昼が近いらしい。


「でもグリーン、本当に天使みたいだったんだってば。綺麗で、強くて」
「もう聞き飽きたっての…第一実際居るわけないだろ天使なんざ」
「本物の天使じゃなくて人間だけど!ほんとに綺麗だったんだよ」
「……何、じゃあそいつが今目の前に現れたらお前は俺と別れるってか」
「そりゃあ………ううん、分からないかもしれない」
「嘘でもそんなことないって言っとけそこは」
「ごめん私嘘がつけない性格だから」


はいコーヒー、と差し出したカップの中で揺れる液体は普段より少し濃い色をしている気がした。カップを受け取ったグリーンは冷蔵庫から取り出したのであろう、氷をカップにそのまま放り込んでカラカラと揺らした。「…ほんとに、分かんない」「……」不機嫌そうなグリーンは、私の向かい側のソファーに腰を下ろす。カップに口を付けた後、ヒトカゲがぴょこぴょこと走っていってグリーンの膝の上に飛び乗った。グリーンは睨むように私を見ている。


「怖い顔しないでよ、ほらスマイルスマイル」
「出来るか。第一俺たちが付き合って何年だと思ってんだよ…」


確かに私は今グリーンと付き合っているけれど、それは断る理由がなかったからずるずるとそうなってしまっただけだ。嫌ではないし、グリーンのことは好きだけれど。でも、あの子のことも好きだと思っている自分がいた。そのことはずっと自分だけの秘密だったのに、昨日の夜アルコールに負けて…グリーンにぺらぺらと喋ってしまったのが悪かったんだろうなあ……不機嫌を隠そうともしないグリーンに、私は喜ぶべきなのだろうか。グリーンに対する好きの気持ちと、あの子に対する好きの気持ちはまったく違うのに。

「その子の事を考えるとね、ふわふわした気分になるんだよ。また会いたいなとか、またバトルしたいなとか、あの赤い目を覗き込んでみたいなとか、あの黒髪に触れてみたいだとか」グリーンは私の言葉を、遮らないままただこちらを不機嫌そうに見据えていた。だってほら、少女漫画とかではこういうのを恋って言うんでしょ?これが恋なら、私は今目の前にあの子が現れて、グリーンから私を奪ってやるとか言うんだったらほいほい付いて行っちゃうかもしれない。例え話だけどね。会ったのはもう何年も前だし、あの子は私のことなんて、きっと覚えてないでしょうけれど。

どう言えばいいんだろう。「……あの子はきっと私なんかに恋をしないよ」言葉を探しながら、静かに頷いた。「なんだろうね……恋みたいだけど、恋にとても近いものだけど、あの子は天使だからきっとしょうがないの。誰だって自分よりも存在が上のものに憧れるんじゃない?ああ、うん……憧れかなあ。でも憧れみたいけど、これは恋だと思うの。分不相応な恋だよ、きっと。叶わないって知ってるから焦がれてるのかなあ」

あの子に抱くのは、きっとずっと"恋"だ。「でもね、グリーンには私、もっと違う"好き"を向けてるつもりだよ。上手く言えないけど……随分違う"好き"、だと思う。傍にいて当たり前みたいなところがあるし、もう一緒にいるのが当たり前だからかな…一緒じゃないのが考えられないぐらいだもの」あの子に抱くふわふわした感情とは違う、もっと別の何かの名前を私は上手く言い表せられない。

上手く言い表せられないけれど、でも、知っている。


「あ、分かった!」
「…なんだよ、長々一人で語っといて」
「私、今あの子が目の前にいてもグリーンから離れられないって分かった!」
「………はあ?」
「じゃあこれって恋より上のもの?恋の上位互換ってことは愛かなあ」
「っぶ!?」
「そっか、あの子には恋でグリーンには愛だ!はースッキリした!」


あれ、どうしたのグリーン。どうしてむせてるの?って、あああ!カーペットにコーヒーこぼしてる!こないだ買ったばかりなのに!



ぼくはあなたに振り回されてばかりだ



(2014/06/08)

とても久しぶりな緑さん。リハビリがてら