さいしょから、はじめる
からんからん、と氷が耳に優しい音色を立てる。
閉じていた目をそっと開いて、目の前の丸い黄色とピンク色が閉じ込められたカクテルを見つめた。グラスに反射する着飾った女は、随分とみじめな顔をしていて辛気臭い雰囲気を漂わせていた。口元に微笑ぐらい浮かべていれば、彼女を見つめる周囲のうちの一人でも彼女に声をかけられただろう。明らかに面倒を背負っているのが分かる、彼女ことナマエはカウンターの隅で再び目を伏せてグラスを揺らしていた。カクテルは最初に比べて、あまり減っていない。
待ち人は既に約束の時間を一時間と30分も過ぎているのに現れない。ここまで来ると私のなかにある苛立ちや悲しみは、諦めと代わってしまっていた。要するに多分、私との約束なんて忘れてしまっているんだろう。だというのにこちらから誘いをかけた分、こちらから約束を放棄するわけにはいかない。閉店に近い時間まで待っていた証拠は、個人的に欲しい。指先のリングの宝石に反射した光をじっと見つめて、ナマエは憂いを孕んだ溜め息を吐いた。その姿はやけに妖艶で、周囲の目を少しばかり集めていた。当然、ナマエ自身にそんなつもりはない。彼女の頭の中は狭いながらも快適な部屋のベッドのことと、最近タマゴから孵ったばかりのヤヤコマのこと、それから現れない待ち人のことだった。
明日博士に会ったらきっと、気まずくなるんだろうな。彼は忘れていた、ごめんよと言うだろう。――会えないだろうけれど。今日でなければ意味はないのに。普段とは違う、着飾った私は今日だけなのに。あの人はやっぱり、私に愛想を尽かしたんだろうな。……再度溜め息を零してから今度こそ口をつけたカクテルは、甘くて少しだけレモンの風味がした。もう少し酸っぱくしてもいいかしら。マドラーでレモンをつつくようにして潰しながら、再び漏れそうになった溜め息をぐっと堪えて飲み込んだ。まったく、恋が甘いだなんて誰が言ったんだろう。甘酸っぱい?この、カクテルみたいに?冗談じゃない。苦い汁を飲んでばかりだ。ああ、嫌な気分になってばかり!
……大嫌いだ、あの人なんか。調子の良いことばかり言って、結局は自分が一番なんだ!散々私をたぶらかしておいて、…好きにさせておいて、いざとなったらやっぱり逃げ出すんだ。そうだろうと思っていたもの、…今までだってそうだったもの。特別なんて、やっぱりこの世には存在しない。キリキリと心臓が悲鳴を上げる。すり潰されてしまいそうだ。視界がじんわりと滲んできて、…それでもまあ、流石にいきなり泣き出すようなことはしない。それにそもそも、私はこういった場所で泣くことができない。ああ、早く閉店の時間にならないかしら。それとももう諦めて、家に帰ることにした方がいい?
**
――結局、私が外に出たのは閉店前のぎりぎりの時間で。
お酒に強いせいもあるけれど、あれぐらいのアルコールじゃあ気分は浮つきもしないことを思い知らされた。ああ、今夜はなんて虚しい夜だったんだろう。眩しいネオンのせいで星なんて見えるはずもなく、ぼんやりとした気分のまま階段を下りた私はどこかにタクシーが停まっていないか周囲を見渡した。生憎、そんなに都合良くは停まっていてくれないらしい。ついでに言うなら、今日の私はとことんついていないようだった。タクシーの代わりに視界に映った、もじゃもじゃの髪の毛に思わず眉を潜める。彼は私を見るなり、へにゃりとだらしなく顔を緩ませた。どうしてそんなに呑気なんだろう。
「やっと出てきた」
「…こんな時間にこんな場所で、博士は何をしているんですか」
「いやあ、僕はこういった場所が苦手だから。すぐに出てくるだろうと思って待っていたんだ」
「………」
「ああ!こういう場合は先に君を褒めるべきだね。良く似合っているよ、それ」
へらへらと笑いながら、きっとそれは心にもない言葉なんだろう。ありがとうございます、と小さく返すとそこでやっとプラターヌ博士は緩めていた口元を真一文字に結び直した。「本音ではない、なんて思っているんだろうね」「…ええ、まあ」「実際、大当たりだから僕は返答に困ってしまう。でも似合っている事実は変わらない。僕が似合わないと言い張っているだけさ」ゆっくりと、言葉を区切るように。夜に溶けていく言葉はさらさらとどこかに飛んでいった。印象に残らない言葉はいらない。
「くだらない言葉も、言い訳も要りません。私もしません。……お互いの家に帰りましょう」
「……ナマエ、僕はそういうわけにはいかないんだ」
「私はそうしたいと思っています。あなたはここで、私となんて会わなかった。約束を破ったまま、それっきり。それでいいでしょう?」
「よくない。君が良いとしても、僕は納得がいかない」
「何の成果も得られなかったと報告します。博士の研究の秘密は守ります」
「そういう意味じゃないって、昨日も言った」
「…博士、私はこの話をするために今日、この格好でここまで来たんですよ」
「僕がしたい話は今、ここで誰にも聞かれていないうちに、君に話さなければいけないことだ」
決別の言葉はどうやら、耳に入れて貰えないようだった。「博士、私は博士から聞くことなんて何もないんです。一研究員が一人、田舎に返った。それでいいでしょう?」元々はといえば、あなたにやましい気持ちを抱いた私が、私にやましい気持ちを抱かせたあなたが悪いんです。あなたの敵を、あなたの研究を横取りしようとしたスパイを、正体を明かしてもなお引きとめようとするなんて。
潔く警察に突き出せと言えば、話し合いたいだなんて言い出すし。……理由を聞けば君を愛しているからだなんて言い出すし。この人は研究者として、自分の研究を守ろうと思わないのかしら。「博士」「…なんだい」「私がまだ、あなたを博士と呼んでいるのはどうしてだと思いますか?…あなたをとても、尊敬しているんです」私はあなたが好きなんです、でもその気持ちはいけないものだから、封じ込めるために博士と呼んでいるんです。
ねえどうして、どうして私を警察に突き出さなかったんですか。どうして逃げるチャンスを与えたんですか。「僕はね、君が今日、必ず僕の前に現れてくれると信じていたんだ」私の言葉の一切を無視して、博士は真っ直ぐに私を見据えた。「ナマエ、君のしようとしたことは最低だ。僕の長年の苦労を美味しい部分だけ取って行こうとしたのだからね。裏切られた時のショックはとても大きかったよ。僕は君を部下として信頼していた。けれど今、その長年の研究成果と君への気持ちを天秤にかけてみたところどうやら、僕は君を研究と同じぐらいに、…いやもしかしたらそれ以上に愛しているみたいなんだ。ナマエ、君と出会うために僕は長年研究を重ねてきたのだとしたら、それはとても素敵だと思わないかい?」
優しい言葉は、今度は夜に溶けていかなかった。すうっと心の奥に入り込んで、じんわりと視界を滲ませる。微笑が、とても愛おしい。「要するにナマエ、多分、君が思う以上に僕は君のことが好きだったようなんだ。今日、君から別れの言葉を聞いたら僕は引き止められないだろうと思ったから…君の用意した場所には行けなかった。失いそうになってより一層、君への気持ちが強まったのかもしれない。それに裏切られたと知っても、この気持ちは揺らいでくれなくてね。君さえ首を縦に振ってくれるのなら、今までのことを無しにしないかい。そうして最初からやり直そうよ。僕はもう少し長く、君を傍に置いておきたい」
さいしょから、はじめる
(2014/05/23)