ナマエはグレイグと出会う前から、ホメロスの存在を知っていたし、それはまた逆も然りだった。元々母親同士の姉妹仲は良好だったし、城を出たホメロスの母親とも、家族間交流は盛んだった。ナマエもよくおばさま、とホメロスの母親を慕い、城で過ごしていた時の話を聞いたものだ。しかし悲しいかな、ナマエとホメロスの間にはほとんど交流は無いに等しかった。一番大きな理由は年齢差。次に、ホメロス自身の性格。年下を構うことが苦手、…というわけではなかったかもしれないが、幼いナマエにとってホメロスは、つっけんどんな、嫌な態度の従兄というイメージしかなかった。ホメロス自身もソルティコでの修行を終えた後で、秀でている故に旧友のグレイグと比べられることが多くなり、伸び悩んでいた時期だということもあったからかもしれない。
ある意味鈍感なグレイグは、そんなホメロスに気付くことなくナマエに慕われるようになったし、ナマエもグレイグとホメロスの仲が良いことを知らぬままグレイグと仲良くなった。グレイグとのんびり昼食のサンドイッチを食んでいたら、ホメロスが何故お前がここにと細い目をいつもより見開いて、ナマエとグレイグを交互に見た時の表情といったら。しかも当時六歳だったナマエはホメロスのことを、『ホメロスくん』と呼んでいた。ホメロスくんだ、めずらしいね。呑気な顔でサンドイッチを頬張りながらそんな声を掛けたナマエに、グレイグの腹筋が耐えられるはずはなかった。溜息をつき、頭を抱え、その呼び方をなんとかしろ、とぼやいたホメロスの声はグレイグの笑い声に掻き消され、ナマエは首を傾げていた。平和だった、穏やかなあの春の午後に戻ることはもう、二度とない。
「戻りたいのかしら」
王は少し外を歩きたいと、お付きの騎士を連れて外に出ていた。
一人で過ごすには広すぎる王のテントのなかで、答えのない問いを投げたナマエは、ふと取り出した銀色のカギを手に立ち尽くしていた。今はもう残っていない、デルカダール城の一室のカギ。ナマエだけが持つことを許されていた、ホメロスの部屋の合鍵だ。自分の部屋のカギは崩壊から逃げるうちに失ってしまったのに、このカギだけは手元に残っていた。もう使うこともないであろう、ホメロスもきっと捨てたであろうカギを、捨てる勇気はまだ、ないらしい。過去に戻ることも、切り捨てて前に進むことも出来ぬまま、ナマエは過ぎ去る時の流れを眺めている。
もし、幸せだったあの頃に戻れるのなら、もっとホメロスと仲良くしようと努力したかもしれない。ホメロスともっと仲良くやれていれば、この裏切りは防げたのかもしれない。
…考え始めてはキリがないと、ナマエはひとり、静かに首を振った。そもそも、従兄妹にしては十分、ナマエとホメロスは仲の良い…良いというよりは、多く時間を共有した方だろう。ホメロスがナマエと話している時に機嫌良くいるのは珍しかったかもしれないが、そもそもナマエが多くを失ったとき、絶望の淵に立たされたナマエに手を差し伸べたのはホメロスが一番最初だった。その事実だけでナマエは十分だと思っていたのだ。そう、今の今までは。
「…やっぱり、見送るのは嫌ね」
従兄さんは帰ってこなかった。…――グレイグまで帰ってこなかったら、どうしよう。
考えたナマエの脳裏に蘇ったのはやはり、ホメロスの何も考えずに眠って起きろ、それを何度か繰り返せ、だった。どれほどの不安に襲われようともきっとナマエは今夜も、ホメロスの言葉を思い返し、瞼の裏に恐怖を閉じ込め、何も考えずに眠るということを考えながら眠ろうとするのだろう。そして朝を迎えるたび、グレイグの無事を神に祈るのだ。帰ってこなかったひとの言うことなんて、信用できるはずがないのに。それしか、縋るものを、言葉を知らない、持たないのだ。真に哀れなのは誰なのだろう。
「王がもうじき戻られます」
「ええ、分かりました」
「…考え事ですか」
「すこし」
テントを覗き込んだ、王の近衛に返したナマエは微笑みで全てを隠そうとする。見送るのは怖いと告げたナマエに、安く見るなと一蹴した男のことを、考えていることを隠そうとする。
「ナマエさん」
「はい?」
「ホメロス様はきっと生きています、戻ってきますよ」
――何も知らされずにいたら、自分も素直にその言葉をありがとうと受け取れたのだろう。
ナマエは込み上げる嗚咽を飲み干し、そうよね、とその言葉に希望を抱く、妹の姿を装った。…同時に、ある意味これはきっかけなのではという考えが脳裏を過った。二十六にもなったというのに、まだ従兄に縋っているのではダメだという神からのお達しなのではと、ナマエはふと考えた。
さようならを告げる時が、訪れたようだった。
20170927