王の眼前で意思をひとつも揺らがさず、崩壊し、絶望に染まった世界を再び光の元に取り戻したいと告げた少年は、紛れもなくこの世界に唯一残された、本物の光だった。
人々の心の拠り所として一筋の光であったグレイグは心を決め、太陽として世界を照らす少年の盾になると誓った。
一緒に行きたい気持ちが無かったと言えば嘘になる。しかしナマエは送り出すことを選んだ。一緒に行きたい、なんて口が裂けても言えるはずがなかった。
闇を祓う旅の先で、グレイグは従兄さんに再び巡り合うだろう。その時、彼の人の口から果たして何が語られるのか。想像に難しいそれに思いを馳せながら、ナマエは王の傍らに立ち、勇者と英雄の旅立ちを見送った。グレイグの隣に立つのは、もうホメロスではないのだと、その時現実を突きつけられた気がした。
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グレイグの共をしたがると思っていた、と王は言った。メイド長が王を置いていくなんて出来ませんと、返した時の自分の顔が、どんなものだったかナマエは知らない。
グレイグのいなくなったグレイグのテントは、ナマエ一人で使うには少し、広すぎるようだった。元々ナマエのベッドがあるのは他のメイド達が使っているテントなのだが、何かと支えの必要な英雄のために、ナマエは王の世話と仕事をする時以外はグレイグのテントで過ごしていた。ナマエは大樹が落ちたあの日から、自分一人の時間を作るのが恐ろしくなっていたのかもしれない。何かをしていなければ考えすぎてしまい、心を闇に呑まれていく錯覚を覚える気がしていた。そしてグレイグが旅立った今、ナマエの中にはその時が訪れていた。考えるのはどうしたって、勇者の背後を突いたという、従兄のこと。
城の内部で惚れた腫れたの恋愛事情が巻き起こるのは別段珍しいことではない。メイドと騎士の恋愛事情なんて探せばいくらでも出てくるものだし、実際ナマエとホメロスに血の繋がりが出来たのも、元はと言えばそこに辿り着くのだ。ナマエの母の姉は元々騎士団の世話をするメイドだったが、そこでホメロスの父親と出会っている。交流を重ねるうちにそこには愛が生まれ、結晶が成されたのだと。姉が神の前で誓いを立てた日の美しさは、今でも忘れられないとナマエの母親はナマエに、一度話してくれたことがあった。私達も式を挙げたかったのだけれどと、寂しそうに笑った母親の顔を、ナマエはきっと忘れない。ナマエの父親もホメロスの父親と同じように騎士団に属していたが、ナマエの母親と愛し合った後、腹の中にナマエを残し遠征の最中魔物に破れ命を落としたと聞いている。
見送るのが嫌?何を言っているんだ、お前は
帰ってこないかもしれない、って
随分と安く見られたものだな
…そういうつもりじゃ、
何も考えずに眠って起きろ、それを何度か繰り返せ
「なんで、……思い出すんだろう」
従兄は、ホメロスは主である王を、国を裏切り魔に身を落とした反逆者だ。切り離せない過去であれど、決別しなければならないと思う。ナマエはデルカダール王の従者である立場としても、身内としても、ホメロスの裏切りを決して、許すことはできない。――大樹が落ち、生き残った人間で身を寄せ合う現状がなければ、逆賊の身内として裁かれることになっただろうし、そうなれば当然、ただでは済まされなかっただろう。黙っていることを選択した、グレイグと王の恩恵でなんとか首の皮が繋がっているものの、ホメロスの裏切りが露見すればナマエは一瞬で多くの人間から恨まれ、刃を突き付けられることになるだろうと思っていた。…大樹が落ちた、その影響でどれほど多くの人間がその命を散らしたのか。どれだけの人が、大事な人を失ったのか。元凶に至るきっかけを作った人間を知った時、人はそれを恨まずにいられるだろうか。その人間に一番近い存在へ、怨念を綴らずにいられるだろうか。
ホメロスのことを思い出したくない、何もかも忘れてしまいたい、いっそ恨みたい――…思えど、思えど、脳は相反して優しい記憶を蘇らせ、瞼の裏に映し出す。今なお忘れることのない、十六年前の手の温もりを思い出させる。ナマエに残されたたった一人の家族、それがホメロスだったのだ。にいさん、どうして。…わたしも、捨てたの。
いつもグレイグが座っていた椅子に、ナマエはゆっくりと腰を下ろした。安心を求めて、暖炉の火を見つめた。
十の頃、当時二十だったホメロスがナマエの身元を引き受けたあの日、ナマエはもう眠ると言うホメロスの服の裾を掴み、暖炉の前から離れなかった。ナマエのことを疎ましいと言っていたホメロスがその日だけは、ナマエの抵抗を受け入れたのだ。並んでぱちぱちと爆ぜる暖炉の火を見つめていたとき、ナマエは深い、ふかい安心を得た。
ホメロスは、従兄は心の拠り所だったのだと、ナマエはその夜改めて認識させられていた。
20170926