08少女は怪物と闇へ消えました



四国会議に出席するデルカダール王の付き添いの一人として、ナマエは祖母、母親共にユグノアに滞在していた。その時何度か耳にしたのは、ユグノア王子が世界を救う光であると、まことしやかに囁かれる噂だった。


母さま、わたし、姫さまの付き添いで王子さまを見たの

あら、ずるいじゃないナマエったら。――王子様は、どんな瞳をしていたの?

…どこまでも広がる青空のひとみだった

ナマエったら詩人ね、――私も早く王子様のご尊顔を見たいものだわ


四王の会議が終わった後には、王族や貴族たちの大晩餐会が控えている。既にその支度を終えてしまっている従者達はこれからの仕事に備え、交互に休息を取っていた。ナマエは自分と同じ柄の少し大きな皿に、同じまかない料理のグラタンを乗せて、くすくすと笑った母親の横顔はナマエが、守りたいと思うものの一つだった。

上級使用人である母親と、その上級使用人達の長である祖母。従者として、一からスタートしたナマエは、仕事のほとんどを母親や祖母から学ぶことがなかった。故にナマエはいつだって常に上を目指したし、尊敬する母や祖母から仕事を教わることのできる立場へ上り詰めたいと必死だった。幼心に母や祖母から認められたいという承認欲求があったことはもちろんだが、それ以上にナマエを動かしていたのは、母や祖母と時間を共有したいという子供らしい感情が主だった。従者の仕事を栄えある仕事だと胸を張って生きている祖母と母を見て育ったナマエは縋ることを考える代わりに、同じ立場に立ちたい、そのために"従者として"強くなりたいと望んだのだ。

手が届くのはまだ先かもしれなかったが、ふとした合間に過ごす親子の時間は、自分が上級使用人になればもう少しは増えるのかもしれない。そうすればもっとこういった、些細な会話を楽しむ時間ができる――…そんなことを考えながら母親の隣で、ホワイトソースたっぷりのグラタンをスプーンにすくい、千切ったパンに乗せ、ふうふうと息を吹きかけて口に運び入れたナマエの耳に、遠くで響いた誰かの叫び声が音となって飛び込んできた。口のなかで生クリームとバターの織り成すホワイトソースの繊細な味わいを堪能する暇もなく、本能的な危機感にさっと立ち上がった母親が皿をテーブルに置いたのを見、ナマエは慌ててパンを呑み込んだ。喉に残った感触をグラスの水で胃に流し込み、ナマエは母親と顔を合わせ、休憩室を飛び出していく。


――耳を劈く叫び声

――剣と"何か"が衝突する音、呪文の詠唱のこえ

――地の底から響くような、"ヒト"のものではない声

――廊下に残された、誰かの血痕

――争いのおと、戦いのおと、死のにおい、


―――…平原をうろついているものとは明らかに違う、大きな身体の魔物


目にしたものが信じられず、固まって動けなくなったナマエの腕はいつの間にか母親に引かれていた。わけもわからぬまま騒ぎの中を駆け抜けていくナマエはしかしぼんやりと、母親もおそらく朧げな記憶でしか走っていないことを悟っていた。勝手知ったるデルカダール城ならともかく、滞在して数日のユグノア城を全て把握できているはずがない。
しかしそれでもナマエは母親に腕を引かれるまま、走る以外の選択肢を知らなかった。困惑で揺れる視界のなかで、一瞬大きなツノを携えた毛皮の魔物と視線がかち合った。恐ろしい速さで呪文の詠唱を終えた魔物がナマエとナマエの母親に放った氷魔法は、ユグノア城の廊下を一部、氷漬けにした。自分が生きているのかすら、一瞬不安になったナマエの意識を繋ぎ止めていたのは、母親が掴んだ手首から伝わる、微かな温度ただひとつだけ。

無我夢中で走り、走り、走り―――…ナマエとナマエの母親は、ユグノア城に構えられた来賓用の部屋、デルカダール王のために用意された一室の前でいつになく厳しい顔をした、ナマエの祖母と合流した。自分よりも弱い者を、愛おしい者を守らねばならぬという意識は、母から子へと受け継がれたものだったらしい。躊躇いなく王族のために用意された部屋の扉を開き、娘と孫を部屋の中に押し込んだ祖母はここにいなさい、と一言言い残して扉を閉じ、外から鍵を掛けた。不安でただただ視線を揺らし、言葉を探すナマエの耳には、掠れた喉で息を吸う音が聞こえていた。

母さま、私たち、どうなるの

問い掛けを投げる前に、母親は再びナマエの腕を引いた。使用人のために用意されたものとは根本から規格が違う、広いひろい部屋の最奥へ迷いなく歩を進めていく母親はやがて、王族用の大きな衣装箪笥の前で足を止めた。扉を開くと隅の方に、デルカダール王の予備のマントが掛けられている。


――いい、絶対に何があっても、声を出してはだめよ


諭す声は厳しく、強く耳に残った。頷くことができず、母さま、と一言その名を呼んだナマエに構わず、母親はナマエをクローゼットの中に押し込んだ。扉が閉じ、ナマエの世界が闇に包まれると同時、部屋の外で何かの衝突音と、誰かの断末魔が響いた。それは氷の塊が床を貫いた音のように思えたし、断末魔はいつも静かな祖母のものによく似ていた。
喉からひゅう、ひゅうと抗えぬ恐怖が微かな音を伴って吐き出される。なのにナマエは扉と扉の隙間からも漏れる、微かな光に吸い寄せられ、"それ"を見ようとしてしまう。
大きな爆発音が響き、ばりばりと何かを破る音が響いた。目を凝らした先に見えたのは、美しい装飾の施された、扉が破られていく光景。ナマエと目の合った毛むくじゃらの、ツノのある魔物がその手に掴んでいるのは、祖母。
光の一部を、何かが遮った。それがおそらく母の腕であろうことを、ぼんやりとナマエは理解した。愉しそうに口元を歪めた魔物が、"祖母であったモノ"から手を離し、こちらに標的を定めたのが見えた。

死ぬのなら、共に死にたいと、クローゼットの扉を叩いた音は掻き消された。

大人の力で抑えられた扉は開くことなく、ただただ、残酷な現実だけが目の前に突き付けられる。まず、ゆっくりと、ナマエとナマエを守ろうとする母親を煽るように、魔物は一歩一歩、ゆっくりとその距離を詰め、静かな動きでクローゼットの前に立つナマエの母親に腕を伸ばした。ナマエの視界を遮る光が揺れ、扉を抑えていた力が一瞬でふっと魔法のように消える。扉から転がり出たナマエは魔物の手に捕まれ、上空に持ち上げられた母親が、自分に向かって腕を伸ばすその顔のまま、魔物の大きく開いた口から吹き出された炎で焼かれるところを見てしまった。







それは一瞬のはずだというのに、恐ろしく長い時間に思えた。魔物が開いた手のひらのなかから、真っ黒になった何かがナマエの前に音を立てて落ちてきた。
かあさま、と呼ぼうとした。ナマエの中で時が止まり、様々な負の感情がせめぎあい、津波となってナマエを呑み込んだ。誰かに助けを求めるという考えすら浮かぶはずもなく、ナマエは自らの死を悟った。恐怖で声も、何も出ない。

魔物の腕が目の前に迫っていた。ナマエの小さな身体が掴まれ、微かに持ち上げられた。どうせ死ぬのなら大切な人たちにもっとたくさんのことを伝えておけばよかったと、霞む視界のなかに走馬燈を捕らえた瞬間、――白金の影が流れるような絹の髪を伴い、揺れた。声にならぬ声がナマエの頭上から降り注ぎ、ナマエの身体を掴んでいた腕が、ナマエを解放し床に落ちた。


「…ナマエ、か?」


空中に溶ける青い光の粒子のなかに見たのは、従兄の驚きに見開かれた瞳の金水晶。


20170929