日曜日の愚者
しんと静まり返った廊下を静かに、なるべく音を立てぬように歩く。目当ての部屋の前で足を止め、深く息を吸い込めば夜風が喉を通り、涼やかな空気を全身に巡らせていく。
襖を引き、失礼します、と小さく声を掛け名前はするりと部屋に身を入れた。その仕草に躊躇いはない。後ろ手で襖を閉じれば、煙草のにおいが名前の鼻孔をくすぐった。同時にいつも聞いている、はあ、という深い、呆れ混じりの溜息。名前の頬は意図せぬうちに緩んでいく。テレビ画面の向こうでは可愛らしい偶像が『恋する乙女は無敵』だのなんだのと歌っているのは、案外外れているわけではないのだろうと改めて実感する今日この頃。


「土方さん、お疲れ様です」
「…あのなあ、年頃の娘がこんな時間にこんな男所帯のしかも男の部屋に、」
「お夜食をお持ちしました」
「……おー、」


半ば諦めたように窘めの言葉を切り、後ろ頭をぽりぽりと書いた土方に名前は笑みを湛えて紅葉柄の風呂敷包みを差し出す。

真選組の屯所近くの定食屋、名前はそこで働く田舎から上京してきた娘だった。名前がその定食屋に新人として入ったとき、まず一番に出会ったのが常連として定食屋に足を運ぶ真選組の面々だった。一人ひとりと挙げていればキリがないほど個性の強い面々だが、その中でも最初に名前の中で一番強く印象に残ったのは、副長である土方だった。女将が大きな中華鍋で仕上げた炒飯にマヨネーズをこれでもかというほどに絞り出す姿に名前は引いた。そして都会に恐怖を覚えた。

都会の人間は皆飯にマヨネーズをかけるのかと誤った認識を覚えそうになった名前だったがしかし、常連として頻繁に足を運ぶ真選組の面々と話す機会が増えるにつれ、その誤解は解けていった。土方が特にマヨネーズを好んでいるということを把握してから、名前は気遣いで土方に定食を出す際はマヨネーズをチューブ一本添えることにした。おそらく、それが土方とよく話すようになった一番最初のきっかけだったのだ。マヨネーズをこんもりと持った白飯だったものを、食うか、と差し出された。仕事中なので、と逃げたことを今なお覚えている。

一方的に名前をマヨラー同志と認識したのか否か、土方は定食屋に足を運んだ際はカウンターに座り、箸を動かしながらなんでもない話を名前に聞かせた。混雑している時間を避けて定食屋にやってくる土方の話を、名前はカウンター越し、漬物用の野菜を切りながら聞いていた。時に質問を投げれば、少し時間を置いて返答があった。そんな時間を重ねてゆくうちに、名前は警察官としてではない、休息の合間に見せる表情の土方十四郎に惹かれていった。意識をしてから自覚までは早く、自覚してからは行動も早かった。自分に出来ることはなんだろうと考えながら土方の定食用の味噌汁をよそっていた時だ。最近夜まで遅くて、んで夜作業してっと腹減ってしょーがねえんだよなあ、というぼやき声に半ば反射的、お夜食作りましょうか、と返してしまった。いつもより長い沈黙があり、カウンター越しに覗き込んだ土方は珍しく目をぱちくりとさせており、名前の中で愛おしさが募った。他の誰も知らない、自分だけが知っている、鬼の副長の"隙"に優越感を覚えた。


「今日のお夜食はヒレ肉のカツと、あっさり刻みちりめんと大葉のおにぎりです」
「そういや、今日の昼遅くなったから名前んとこでヒレカツ食ったって言ってたな」
「ああ、沖田くん」
「めっちゃ美味かったってすげー自慢されたわ。まさか食えるとはな」
「お忙しいと伺っていたので、精力をつけて貰おうと」
「………俺以外に言うなよ、誤解を招く」
「へ、誤解?」
「気にすんな、まあ多分招かねえよ」


丑三つ時の迫る午後十時、差し入れられる夜食が楽しみになっているなど土方は口が裂けても言えないが、悪ィな、と一言添えてその風呂敷を受け取った瞬間に名前がぱっと花が咲いたような笑みを浮かべるものだから、時折ぽろりと零しそうになってしまうのは秘密だ。

筆を置き、書物を机の端に寄せ、風呂敷を置けば名前が視線だけで早く風呂敷を解けと急かしてくる。毎度、この瞬間風呂敷を解きたくないと思うのは何の警戒心も抱いていないのか、確信犯なのか、分からないがこの自分に好意を寄せる娘を部屋から帰したくない自分がいるからだ。風呂敷を解き、中から出てくる弁当箱の蓋を開け、いただきますと手を合わせた後、箸を手に取り口を付ければ、少ない中身はすぐに消え去る。ごちそうさんと手を合わせれば、弁当箱に蓋をし再び風呂敷で包まねばならない。風呂敷で包んだ後は、後ろで大人しくじっと座り、自分が食べるさまを静かに見つめる名前を振り返り、押し倒すではなく屯所の外へと送り出さねばならない。

こんな通い妻みたいな行動、他に知れたらどんな噂を呼ぶのか、名前は理解しているのか、理解していないのか。土方はわかっていないような素振りを見せる名前が、実は全て理解した上でやっているのではないかと常、思う。寄せられる好意にすぐ応えられるような人間ではないと見透かされた上で、着実に胃袋から掴まれている。夜食ってのもほんと、確信犯じゃねェのかよ。心の声は外に漏れることなく、名前を振り仰いだ土方に当の名前はきょとんと首を傾げるばかり。今日こそは名前の警戒心を上げてやるという意味でも敢えて押し倒しでもして、無理やり事に及ぶふりをして、名前の中にある警鐘を鳴らしてやろうかと思えども、――嫌われるのが、この静かな時間が失われるのは嫌だと。関係性を揺るがすのが、変えるのが、変える可能性がある行動を起こすのが怖いと、結局何も出来ないまま、今日も差し出された餌に口を付けるのだ。


「いただきます」
「はい、どうぞ」


――私はいつでも、と背後で静かな声が呟いた気がした。


201807108/ユリ棺