眠りの国で息をすること

「たまに、海の底に還りたくなるよね」


ヒューザはその声に重くなっていた瞼を上げた。思っていた以上に疲れていたこと、自分がまどろんでいたことを、名前の声で認識した。視線だけを動かして仰いだ名前の横顔はまるで、この夜の静寂のように穏やかだ。
揺らめき、小さく爆ぜる炎を共に眺めていたはずの名前が唐突にそんなことを言った理由は分からないが、名前はどうやらまだ眠らないらしい。暖かな炎の熱は空気を伝って、寄り添い座るヒューザと名前を夜の奥へ閉じ込めようとしている。


「…なんだ、それ。海の底?」
「そう、海の底。どんどん沈んで、沈んで、やっと辿り着ける…光も届かないような」
「辿り着く前に息が切れるだろ」
「でも、目を閉じたら女王様の優しい歌声が聞こえてくるの」


目を閉じて、かえりたくならない、と少し掠れた声でヒューザに問うた名前から視線を外したヒューザは、目の前で揺れる炎の根を見つめた。ぱちぱち、爆ぜる小さな花が水の中で見る泡を思い起こさせたのは、名前の言葉の影響故だろう。
炎を前に座っているうちに、自分はこんなにも眠くなっているのに――…別々に旅をしていることは分かっている。旅人一人ひとりに様々な冒険の記録があることも、わかっている。しかしたったそれだけ、些細なところで地力の差というものは垣間見えるものだ。名前の言葉選びがレーンの村で共に過ごしていた時のものとはまったく違う質を持っていることに、気付けないほど鈍くはない。…そしてあの日を境に、"まったく違う名前"になってしまったのであろうことも。しかし今の名前の言葉はむしろ、レーンの村で共に育った名前のものに近いような気がした。――詳しく言えば"レーンの村で共に育った名前が様々な経験を積んだ後、言いそうな言葉"だとヒューザは思った。この手で一度殺めた家族にも等しい友の面影は、生き返った友の話を人伝に聞くたび、会って声を聞くたび、こうして言葉を交わすたび、ヒューザの胸の内をかき乱していく。……かえりたくならない、帰りたくならない。


「お前、帰りたいのか」
「…たまに、そう思う」
「帰ればいいだろ、いつだって。じいさんも、アーシクも、ルベカも待ってる」
「わかってるくにせ意地悪だね、ヒューザは」
「なにが」
「…帰れないよ」


二度と帰れない、とでも言いたげな響きを孕んだその声は、ただ単に成すべき事が多々あるからだとか、今請けている仕事を放棄できないだとか、多くの人に頼りにされているからだとか――…そういった理由を一番に据えているわけではないようだった。ああやっぱりな、とヒューザは思う。やっぱりこいつはもう、"レーンの村が故郷である名前"ではないのだ。身体は海へと還りたがるが、心は身体に刻まれた記憶をほとんど、知らないまま。孤児院へ戻ろうと、アーシクと話そうと、ルベカに出迎えられようとも、――…身体はそれを欲そうとも、心は身体のように喜べず、苦しい思いをするのだろう。そしてその感情を抱くことに罪悪感を覚えるのだろう。自分でそれをわかっているくせに、歌声の沈む海へ還りたいという。
本当はどこで生まれた誰なのか、ヒューザは"今の名前"のことを、真実の多くをほとんど知らないことを、もどかしいと思っている。決して知り得ないのだろうが、いつか話してくれるのではないかと心のどこかで期待している。…なんでって、オレとお前は、


「……一緒に還ってやろうか」
「どこに?」
「海の底とやらにだ」
「らしくないね」
「うるせえよ」


気恥ずかしさが無かったかと言えばそれは嘘になる。――…それでも名前がおかしそうに、目を細めて口元を緩めるなら、些細なことに成ってしまうのだ。名前が望む"かえりたい"ところがどこでも、望まれればきっと手を取り、共に沈んでいくのだろうとヒューザは思う。それは友を殺した罪悪感からきているのか、今目の前で微笑う名前への愛おしさからなのか。これも些細なことだと言うのであれば不透明な感情に名前を付けぬまま、このまま、寄り添い海の底にもみえる夜のなかで、ふたり、目を閉じるだけだ。


20180306/ユリ柩


個人的には水の領界のあのシーンのときか、もしくはヒューザと二人で森の中のイメージです。かえりたいけどかえれない、そんな10主がどうしてもほっとけないヒューザ。3が終わったあと手を取り合ってくれたらいいなあとか思いながら書きました…本当にあの、素晴らしいものをありがとうございます…双子ちゃんを拝みトビアス様を拝み、呼吸が楽しいです(土下座)久しぶりに更新するきっかけもくださってありがとうございます…;;;めちゃめちゃ拙いヒューザですみません…!