おかえり、マイハニー
解放者をエジャルナに入れるなとの命令が下されていることを、セレーノが知ったのは奈落の門を通り、エジャルナの地下に出たところでだった。
門兵はセレーノを一度は槍で制し、エジャルナに入れるなとの命を受けているとは言ったが、素知らぬふりをするようで、セレーノが門を通ることを止めはしなかった。それは圧倒的な実力差を知っているからであり、教団に出入りしていた"解放者"ではなく"セレーノ"を知っていたからであり、エジャルナを通ってアペカの村まで、通っていることを知っていたからであるだろう。
教団からは完全に敵として、認識されてしまったようだった。街の各所に配置された教団関係者からの視線は厳しく、しかし実力行使で街から追い出されることはない。拠点としていた街そのものが、セレーノの敵に回ったかのようだった。エステラに会いたい気持ちを必死に抑え、逃げるようにエジャルナを出たセレーノはアペカの村への道を、ゆっくり、ゆっくりと歩き始める。沈んだ気分はしばらく、浮き上がって来ぬようだった。ギダを心配させるような顔をしてはならないと思いつつも、教団と道を違えたショックは大きい。
――けれどあの時、フィナさんにとどめを刺していたら、私はギダさんに顔向け出来なくなっただろう。
一つ、旅に区切りが付くたびセレーノはアペカの、ギダに会いに行く。セレーノが解放者であることを知っているギダは、セレーノの旅の話に耳を傾け、セレーノの言葉を通じてその景色に思いを馳せる。セレーノにとってギダと過ごす穏やかな時間は、戦いの多いこの旅のなかで、一番心の安らぐ時だった。…フィナを手に掛けたらその瞬間、セレーノはギダの元へ帰る権利を無くすような気がしたのだ。フィナ―ー神獣カシャルの口から語られたこの世界の神についての逸話がたとえ真実でも嘘でも。今こうして、教団と道を違えたことが正解でも、不正解でも。血に濡れた手でギダと手を取り合うことは、出来ないと思うのだ。穢れた身を好きな人の前に晒すことなど、出来るはずもない。
それでもやはり後悔の念に苛まれてしまうのは、エステラのことがあったからだった。トビアスに腕を引かれ、呆然と――それでも振り向いたまま何度もセレーノの名を呼び、抗おうとしたエステラの表情がセレーノにはどうしたって忘れられない。いつだって一番親身になって、異世界からやってきたセレーノと共に居てくれたのはエステラだった。ようやく心を許せるようになり、頼るようになっていたのに。
**
アペカの村はいつも通りだった。熱で空が歪み、炎の花が岩の隙間から顔を覗かせ、マグマの吹き出す音と子供達の笑い声が重なり合う。
拙い足取りのまま、セレーノはギダの家への道を歩く。細道ですれ違った妙齢の竜族の女が、セレーノに声を掛けようとし――…セレーノの沈んだ表情を見て、やめた。それに気が付いたセレーノは、小さな気遣いに心の中で頭を下げる。
ギダの家の扉にこの時間は、鍵が掛かっていないことをセレーノは知っていた。しかし律儀に扉の前で拳を作り、扉を叩くことに意味があることも知っていた。コンコン、コン。三回、決まったリズムで扉をノックすると、二階の窓が開く音がした。顔を上げるとギダが、いつもの笑みをたたえてセレーノを見下ろしている。
「…ただいま、ギダさん」
「おかえり。…上がって」
家主の許しを得ずとも、扉を開いたって構わないと言われているのだが、セレーノはたった一言、ギダからこの扉の前で、おかえりと言って貰える瞬間がたまらなく好きだった。自分にはまだこの領界で、待ってくれている人がいる。そう思うだけで心は奮い立ち、少しでも前を向ける気がする。この事実は教団と別れの道を歩むことになった今、更なる意味をもってセレーノの心に炎として燈る。
扉を開くと、大好きな香りがセレーノを包み込んだ。――大好きな香り。ギダの家の、心から安心するこの優しい香り。どこか懐かしく、どこか遠い場所を思い起こさせる。壁に掛けられたハープが目に入るだけで、ギダの奏でる旋律がセレーノの耳の奥に蘇る。
階段を上り、居間を覗き込むとギダがテーブルの上に食事を並べているところだった。底の深い器からはふわりと湯気が昇り、ガラスの器には美しくカットされた灼熱の地の果実。今日この時間に来る、と言うわけではないのにいつも、ギダはセレーノが来るたび必ず、二人分の食事を準備している。セレーノがこの家に置いて使っている、セレーノの食器に食事を盛って。どうして分かったんですかと問えば、今日、君が来るような気がして、と返ってくる。ギダの食事が、セレーノは好きだ。
「スープを作ったんだ。まずは食事にしよう」
「…うん」
セレーノの表情が沈んでいることに、ギダは気が付いてそう言ったに違いない。もしくはおかえりと言ったときに、セレーノの表情に気が付いていたかもしれない。
促されるまま椅子に座ったセレーノは、正面にギダが座るのを待った。目の前の器はセレーノが、アストルティアから持ち込んだため、ギダの家の雰囲気に合わないと最初は思っていた。それがどうだろう、使い続けるうちにこんなにもこの家に馴染んでしまった。――アペカの村に異種族の自分が、馴染んでしまったのと同じように。
やがて小さなカゴを手に、ギダがセレーノの正面に座った。テーブルの真ん中に置かれたカゴには、楕円形の焼き立てパンが二つ。手を合わせたギダにならい、セレーノも手を合わせて小さくいただきます、と呟きスプーンに手を伸ばす。掬い上げたスープを一口、飲み込んでからスプーンを置き、手を伸ばしてカゴから小さいほうのパンを取る。一口千切って、口に入れようとして、
「セレーノ、一体何があったの」
――安堵から視界が滲み、顔を歪めていたことを知った。
目元に浮かんだ涙は直ぐに熱で、空気の中に溶けていく。それでもギダは立ち上がり、セレーノの元へ歩いて来る。大丈夫、だいじょうぶ、口ではそう繰り返すセレーノの頭に、少しだけ躊躇った手が伸ばされる。髪に触れた手は暖かく、慈しみを以って頭を撫でる。
大丈夫であるはずがなかった。心を強く持たなければならない場面を乗り越えはした。確かに自分は強いと、強くあらねばならないという自覚がある。それでもエステラが何度も振り向き、自分の名を呼ぶあの声が耳の奥から消えてくれない。
「ギダさん、わたし、解放者じゃなくなったの」
「…どうして?」
「ナドラガ教団と、別の道を行くことになって。…エジャルナに、入れなくなって」
「………」
「もし今日ここに、わたしを迎えてくれる家が無かったらどうしよう。そう思ってたから、…ギダさんが私を変わらず迎え入れてくれて、それで、たぶん」
――安心して、わたしはまだここにいて良いんだって思えて、嬉しくなったの。
言葉にならない嗚咽となったそれすらも、ギダはきっと掬い上げた。「セレーノ、だいじょうぶ」幼子に言い聞かせるような優しい声は、喉を通る度に心を温める。エステラとの別れ、あの身を切るような辛さが少しだけ和らいでいく気がした。…私はアペカの村にいる。エステラさんは、教団の本部にいる。同じ、炎の領界にいる。遠いけれど、同じ景色を見ている。
「…まだ、戦いは」
「続きます…きっと」
「そっか。なら、いつまでも君がここに帰ってくるのを、食事を作って待ってるよ」
「……ありがとう、ギダさん」
だいすきです、と小さく呟けばセレーノの頭を撫でていた手が止まった。滲んだ視界の向こう側で、不意打ちはずるいよ、と少し赤い顔のギダが優しく微笑んでいる。ギダがここで笑っている限り、ギダが未来を照らしてくれる限り、セレーノは立ち止まることはあれど、前に進むことを躊躇わない。――だから待っていて、ギダさん。あなたのところに帰る日を。あなたと共に手を取り合い、歩み出すその日が訪れることを。
20161012
めちゃめちゃギダセレちゃんに夢を見てしまいます現実…ずっとこんな感じの話を書きたい!とぼんやりしていた(アペカが返る場所→アペカ嫁入りルート前提ギダセレ)のですが、此度水の領界をクリアしたことでその欲求がめきめき膨れ上がり…つらいことがあってもアペカに帰る場所があるセレーノちゃんに夢をみてます…というのがうまいぐあいにエステラちゃんとの別れと重なりお話もどきになったのでぜひとも!ぜひとも献上させてください!トビアス様をありがとうございました…最高でした泣きました…水クリア後に読ませていただいたので幸せほのぼのに更に泣きもう…偽物なギダセレちゃんで本当にすみません!;;そるふぇさんのほのぼのが大好きなので、目指せほのぼのしてみましたがあれっシリアスなのでは…???ギダセレちゃんはぜひともこう、既に同棲してるというかセレーノちゃんはティアの家とアペカの家を往復したりしてたらいいなとか!あえてギダさん呼びにしました…結婚してからギダくんになって、呼び方にちょっと照れてたらかわいいとか、いやむしろ水あたり闇あたりからくんでもすごい尊いです…うわっ語彙のない文章が長い ありがとうございました!ギダセレちゃんすき…