銀色の夜
「結婚するの」
「……誰と?」
「テリー、あなたの知らない人だよ」
泣きそうな顔で笑った名前を、どうしてだか引き止める術を持っていなかった。向かい合って座るいつものテーブルの上、鮮やかな色彩が徐々に失われてゆく。名前、嘘だろ、誰に言わされてる?小さく、鋭く。切り裂くように問う。それでも名前は静かに笑って、愛してるわ、としか返さない。
愛してる、俺を。名前は俺を愛している。俺だって、名前を愛している。じゃあなぜ俺はこいつを守ってやれない?――「さよなら、テリー」「っ、」待て、と言いたかった。引き止めたかった。立ち上がった俺の足は、縫い付けられたかのように動かない。
背を向けて歩き出した名前がやがて、緩やかな動きで消えていく。足先、指先――…黒い霧になって、空気に溶ける名前の体。止める術を知らない、止めることができない、守れない、行かせてしまう。……誰のところに?俺じゃない、男のところに?あいつが、
*
「あれ、テリー?どうしたの、こんな時間に」
「……まだ起きてたのか」
「ちょっと手直しに時間掛かっちゃって」
何事もなかったかのように扉を閉め、名前の隣まで歩いていく。ロッキングチェアを微かに揺らしながら、名前は針と糸で服のほつれを繕っていた。暖炉の柔らかな光に照らされる名前は暗闇に溶けて消えてしまうような……そんな錯覚をちらつかせる。跳ね起きた瞬間の寒気。冷え切った廊下の空気。窓の外では白い雪片が舞い、風に煽られて消えていく。――それが名前に重なった。心臓がどくどくと響き、らしくないことばかり考える本能は腕を伸ばし、(小さなピンクッションに、名前が針を刺したのをしっかりと確認してから)その指先を掴んで、握った。
「テリー?」
「……」
答えられるか。お前を失う夢を見て、動揺しているだなんて言えるか。悟られたくもない。…結果、だんまりを決め込んだ俺に名前が小さく笑う声が聞こえた。目線を無理矢理暖炉で燃える炎に移した俺を、名前が珍しいものでも見るような顔で見つめているのは分かっていた。素直じゃないとでも言いたげな目線が、首筋に刺さっているのがなんとなくでも分かってしまうのは付き合いの長さ故だろうか。――最初から、こんなにも長い付き合いを予測しただろうか。
「……悪い夢でも見たの?」
「別に。…それより悪いな、いつも手間だろ」
「裁縫は好きだもの。…テリーのこともね」
「なんだそれ」
「不安そうな目、してるよ」
名前がロッキングチェアから降りる音がした。俺に指先を握らせたまま、名前は俺の隣に座り込む。俺と同じように暖炉の火を覗き込んだ名前が、指先をしっかりと絡めなおした。「ねえ、テリー」「……」ぱちぱち、薪のはじける音がする。名前の横顔が、炎に照らされてぼんやりと光る。名前の横顔が、……名前の声が。
悪い夢を見たんだ、と名前の瞳に映り込む炎を見つめて呟いた。「…本当に、な」心底、悪い夢だった。例え夢だとしても、最高に最悪な夢だった。力を得た今、守れないはずはない。あの時の無力な自分とは違う。……だというのにこうも愛おしいせいで、恐怖が常に付き纏うのだ。―――名前、名前、名前。自分より少し小さくて、自分よりずっと細く華奢なその体を、気が付けば腕に閉じ込めていた。テリー、と小さく呟く声が腕の中から微かに響く。
「テリー、私はどこにも行かないよ」
「……知ってる」
「だからほら、そんなに不安そうな顔しないで」
絡んだ指先はそのまま、名前が俺の背中に手を回す。掴まれた背中の感覚、胸元で感じる吐息をどこにも行かないように、消えないように。「不安はね、テリー。私が一緒に背負ってあげるから半分こにしよう」「……ああ」優しい声が耳元で響いて、ようやく俺は悪い夢を見ていたのだと実感した。大丈夫、名前は消えない。名前は俺の元を離れていかない。――名前は、俺といる。俺の帰りを、ここで待っている。きちんと守られていてくれる。…俺以外に、名前を守らせたりしない。
「テリー、今日は寒いしここで眠る?」
「…風邪引くだろ。ベッドに行くぞ」
「ふふ、冗談だってば」
銀色の夜
(2015/06/15)