もう少しだけこのままで(カルム/水菜様へ)


しゃきしゃき、しゃきん。ぱらぱらぱら。

軽快なハサミの音が響くたび、自分の髪の毛が少量ながらも床に落ちていく。お任せで、といつものように頼むと彼女は嬉しそうに頷いた。その度にどきりと胸が高鳴る。

月に一回の美容室訪問は、もう自分の中では外せないイベントと化していた。最近では早く髪が伸びないかなあ、なんて思うようになった。以前は髪色を変えると名目を立てて通おうとかと思案していたのだが、初めてここに来たときに彼女の口から綺麗な黒髪だと褒められたせいでそれが出来ない。


――手が髪に触れるたび、どきどきと鳴る心臓の音が聞こえやしないか不安になる。


初めての一目惚れ。朝のミアレで、トレーニングのためにゲッコウガと自転車で走っていた時に看板を出していた彼女に目を奪われたのが最初だった。それから偶然入ったように装ってこのサロンに通うようになって……実際はまだそんなに経っていない。でも、彼女――名前は俺のことをきちんと認知してくれている。二度目の来訪で「また来てくださったんですね!」と笑顔を向けられた時。あれは本当に反則だった。完全に落ちた。

多分恐らく年上で、彼女のことなんてほとんど知る事はない。ただ希望を抱いてこうしてミアレに通って、ほんの少しでも大人に近づきたいと思うのは彼女の口から漏れた『彼氏なんていないですよ』という苦笑混じりの言葉を聞いたからだ。最近はまあ…以前に比べるとかなり良い方だと思う。この間バトルをしにセレナのところに行ったらあいつ、『恋でもしちゃったの?』なんて茶化してきたし。……女子ってこういうの、分かるもんなのかなあ。それなら、気がついてくれたり…いや、気がつかれたらそれはそれで、ぎくしゃくしてしまいそうで嫌だ。

でも、少しぐらい気がついてくれてもいいんじゃないかとも思うのは事実だ。…矛盾しているけれど、俺は名前の為に頑張っているのであって…それに少しぐらい気がついてくれないと報われない。言わなきゃわかんないとは言うけれど、少しぐらいなら察してくれて触れてくれても良いんじゃなかろうか。気障な台詞を自分から言い出すなんてまだ、簡単に出来る程お子様じゃないというのに。


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髪に触れる手が、はさみを持つ手が緊張で震えていないか心配になる。カルムくんの目の前の鏡に、私は普段通り映っているのだろうかと不安で不安でしょうがない。

初めて彼が私に髪を触れさせてくれた時は、至って普通の――ポケモントレーナーだった少年は会う度会う度にお洒落になっていった。最初こそ意識していなかったくせに、いざどんどんミアレの空気に染まっていって、でも自分のスタイルを持ち始めた彼になんとなく――自分のカットが相応しくなくなっていくような気がしている。

先輩も最初、見くびっていたのだという。至って普通の男の子だったから、新人の私にカットを任せたのに…と。私の腕の成長より遥に素早く大人になってしまった彼が月に一度、ここを訪ねてくる日が常に待ち遠しかったりする。

彼の黒髪はとても綺麗で柔らかい。褒めたらとても嬉しそうにしてくれて、そのはにかんだような笑顔は今も健在だ。「切るの、いつも勿体ないなあーって思っちゃうんですよ」私はこんなに綺麗な髪じゃないから、と染めてしまった自らの髪をちらりと見やってそう言ったら、名前さんの髪だって綺麗ですよ、と少し強ばった声が返ってきた。嬉しくなって頬が緩む。この時間、この数十分間だけ、私はカルムくんを独占している。

本当はもっと欲張りになってみたい。おすすめの店はありますか、なんて…聞いてみてもいいのだろうか。でも、やっぱりどう足掻いたって今の私はこのサロンの店員で、カルムくんはお客さんなのだ。プライベートに踏み切るにはまだ覚悟が足りない。私が非常に臆病だということを差し引いても…やっぱり気が引けてしまう。

ハサミを置いて、ドライヤーと櫛を手に取った。満足の行くカットが出来たカルムくんの頭をなるべく意識して優しい手つきで乾かしていく。綺麗に梳いた後、手鏡を渡して髪型をカルムくんに確認して貰う。「うん、…結構良い、かも」なんだか前よりも良い感じ、なんて漏らした呟きが聞こえたもんだから飛び上がりそうになった。緩む頬は隠しきれない。


「では、またのご来店、心よりお待ちしております」
「じゃあ、次もよろしくお願いします」


お代はいつもどおりに少しサービスしておきます、と言ったらありがとうございますと素直な笑顔が返ってきた。ここだけ年相応の少年っぽくて釣られて微笑んだ。彼と時間を共有していると常に笑顔でいられる気がした。


もう少しだけこのままで

(2013/12/29)

企画より水菜様へ捧げさせて頂きます。リクエストありがとうございました!

ほのぼのを目指して自分なりにはかなり…ほのぼのになったつもりです。お題を見た時にあっこれ可愛い恋愛だ…!とほのぼのがイメージ出来たので全力でほのぼのさせてみました。反省はほとんど会話が無かったことです。

心の中ではお互い呼び捨てだったりくん付けだったり、フレンドリーなんですけど言葉上ではさん付けなあたり、お互いがお互いで突っ走っているというか…お互いがお互いに相手任せなあたり、くっつくのまだ先そうだなーと思いながら書きました。えっ星乃の趣味じゃないかって?…大当たりですありがとうございます!楽しかったです!

いつも本当にありがとうございます。毎回、頂けるお言葉のひとつひとつに舞い上がっています。ご参加本当にありがとうございました!

(本人様のみお持ち帰りが可能です)