寒くても触れていたい


 それは、いつかの優しい未来の話。


刧刧


 くしゅん、と小さな音が聞こえ、ヴァイツは緩やかにその金の眼を開けた。

 軽く顔を上げ、その音の原因へと視線を向ければ、それはヴァイツの腹辺りで丸くなって眠っていた。その腕には、いつぞやかにヴァイツが調達してきた、真白い毛布を握りしめている。
 ヴァイツが力を入れれば呆気なく壊れるだろう、弱く頼りない背中は、ヴァイツの腹にぴたりと押し当てられていた。

 ヴァイツの体温は、基本的に外界の気温に左右される。
 暖かければ、温かく。寒ければ、冷たい。
 今は冬で、ヴァイツの体温は下がる一方だ。あんまりにも体温が下がってしまうと深い眠りについてしまう可能性があるため、魔法で多少なりとも内部体温を上げてはいるが、それでも他者が触れて暖かいと思えるほどではない。
 腹辺りは鱗が薄く比較的他の部位よりは暖かいかもしれないが、それでもひんやりとした冷気を纏っているはずだ。
 そんな場所に身体を引っ付けていれば身体は冷えるのは当然で、ヴァイツは自分の腹辺りで眠るヒムロを馬鹿な奴だと思った。

 くわ、と大きく口を開けて欠伸をしたとき、またも、くしゅん、と音がする。

 再び眠る気にもならず、ヴァイツはそっと起きあがった。それまでヴァイツの腹を壁にしていたヒムロの身体がくたりと地の羽に沈む。ペットは未だ起きない。
 ヒムロの側に落ちているもう一つの毛布を、ヴァイツは鼻先でヒムロへと押しやった。
 せっかくの毛布だ、身体に巻き付けていれば良いものを抱き込んでしまっては意味がない。
 不格好だがヒムロの上に毛布を被せることに成功したヴァイツは、そのままのしのしと寝床から抜け出した。

 洞窟の入り口から流れる冷たい空気に、鬱々とした気持ちが沸き上がる。もしも、表情を浮かべることができれば、ヴァイツの顔はきっと盛大にしかめられているはずである。

「グゥ……」

 外に出て、ヴァイツは思わず唸る。

 ちらちらと視界に舞う白。鼻先に散ったそれは、ひやりとした冷たさを伝えてくる。
 崖から見下ろした世界は、白銀に染まっていた。

 なるほど、寒いわけである。

 一年の中で一番憂鬱な季節の中、一番嫌な期間が来てしまったとヴァイツは内心で嘆いた。

 雪は嫌いだ。寒いから。

 ぶるりと巨体を奮わせれば、背や頭に乗った雪がぱっと散る。何だかどっと身体が重くなった気がして、ヴァイツは苛立たしげに足下を蹴れば、積もった雪が崖の下へと落ちていった。

 少しずつ、不愉快な眠気が押し寄せていることに気付いたヴァイツが戻ろうとしたとき、背後から足音がした。

「ヴァイツ!!」

 ばたばたと騒々しく走ってきたヒムロが、何をしたいのか何となく分かったヴァイツは、振り返ってその頭をゆっくりと下げた。
 そうして、ヴァイツの首と頭が丁度良い位置になったのと、ヒムロがその首に飛びついたのは同時だった。

 ぎゅう、とヴァイツの首に抱きつき、ヴァイツの頬に頬を寄せるヒムロは、先ほど抱きしめていた毛布も、かけてやった毛布も持ってはいない。冬仕様の厚めの服を着ているとは言え、雪の降る山頂近くにいるには心許ない装備である。
 ヴァイツはそんなヒムロの寒々とした姿に呆れたが、ヒムロはそれどころではないようだ。

「ヴァイツ、ヴァイツ!何でいないんだ!」

 潤む目はヴァイツを責めるように見ていた。
 いつからか、この目で見られると心がざわついているような、不可解な気持ちになるようになった。
 早く乾いて欲しいと思うのに、乾かし方などヴァイツには分からない。
 なぜ、人間の、それもペット如きに途方に暮れねばならないのかと思うが、これまた不可解なことに、以前よりもそれは不愉快ではなくなった。慣れたということなのだろうか。
 そう内心でぼやきつつ、ヴァイツはすり寄るヒムロの好きにさせた。鬱陶しさは特に感じてはいないものの、離した方が良いだろうと思い、そっと頭で押しやった。
 途端にもっと目を潤ませるのだから、ヴァイツはぴたりと動きを止めるしかなかった。

 寒いだろうに、と思う。
 先ほどよりもずっとヴァイツの体温は低い。その上、ヒムロが抱きつくのは堅く冷たい鱗に覆われた首だ。すり寄る顔も冷たいはずだ。
 先ほどくしゃみをしていたのだからヒムロはきっと寒いはずで、こうしてヴァイツにくっついているともっと寒くなるはずだ。
 風邪を引かせるわけにもいかず、さっさとどかしたいのだが、当の本人が嫌がるのであればヴァイツに為す術はない。
 以前は無理矢理にでも引きはがしていたというのに、いったいいつからそうできなくなったのだろう。そして、そうできなくなったことを、厄介だとは思っていても心底不愉快だとは思っていないことが、ヴァイツ自身不思議であった。
 そんなことをぼんやりと思っているヴァイツの傍ら、ヒムロは、ずず、と鼻を鳴らして湿った声で小さく呟いた。

「寒くて、起きたらヴァイツがいなくて……雪、綺麗なのに真っ白だから、ヴァイツも真っ白で、消えてどっか、行っちまう気がして、嫌だ、俺を置いていくな……」

 悪い夢でも見たのだろうか。黒い目は少し虚ろだ。
 これ以上ここにいても身体を冷やすだけだと思い、ヴァイツは抱きつくヒムロの背を尾で優しく撫でてやり、歩けと促した。
 ヒムロは少し躊躇った後、おずおずとヴァイツの太い首に回していた腕を解いた。しかし、すぐさまその手はヴァイツの首に添えられる。
 それ以上離れるつもりはないらしいので、ヴァイツは諦めてそのまま歩き、奥の寝床へと向かった。

 寝床は、外よりは寒くないが先ほどよりもひんやりとしている気がした。おそらく、先ほど外に出たことで体温が下がってしまったからそう感じるのだろう。ヴァイツもそうなのだから、きっとヒムロにとってもそうだった。
 くしゅん、と再びヒムロがくしゃみをする。
 じろりと見下ろしたヴァイツが軽く首を振れば、ヒムロの手は呆気なく離れた。

「……なんで」

 ひどく傷ついた顔をされて、ヴァイツは低く唸った。それは威嚇の声ではない。窘める声だった。
 ふかふかの毛皮の上に落ちている、真白い毛布を軽くくわえてヒムロに押しつけた。それで分かれ、とヴァイツは再び唸った。
 ヒムロは何かに気がついたような顔をして、次に頼りなく眉を下げた。

「確かに、寒い。でも、それでも、俺はヴァイツに触れて寝ていたいんだ」

 冷えた鱗だ。寝にくかろう。それにも関わらず、当の本人はそれで良いと言う。
 自分のペットが存外頑固なことを、ヴァイツは知っていた。
 ならばもう好きにしろと、ヴァイツは小さく鳴いて、寝床の真ん中に巨体をゆったりと沈ませた。
 いつものペットの定位置である腹を晒して。

 途端にヒムロはいそいそとヴァイツの腹辺りにやってきて、ぴたりと寄り添った。
 冷たいだろうに、何故かひどく暖かそうな顔をしていて、奇妙なペットだと呆れた。

 体内の魔力を練り上げてその魔力を呼気に纏わせ、ふう、と上を向いて吐き出せば、じわりじわりとその場の温度が上がる。
 ヴァイツの腹に触れている部分はともかく、他の部分はこれで少しは暖まるだろう。風邪を引かれては困るのだ。人間は弱い生き物だから。

「ヴァイツ」

 ヴァイツの腹に頬を押し当てていたヒムロが、頭上のヴァイツを見上げて名を呼んだ。
 どうしたと目で問えば、小さく笑って「寒いけど、あたたかい」と意味の分からないことを言う。

「ヴァイツ、ヴァイツ……俺の、飼い主。なあ、ペットは飼い主がいないと生きていけない。飼い主がいないと、死んじまうだけだ。だから、いなくならないでくれ。雪みたいに、俺の前からいなくならないで。いなくなるなら、その時は」

 そこで口を閉ざし、ヒムロはその手でヴァイツの腹を撫でた。鱗の薄い腹を滑るその感覚に、ヴァイツは目を細めた。
 それからその先の言葉を言うことなく、ヒムロはそっとヴァイツの腹に頬を寄せ、目を閉じた。

 微睡むヒムロを見下ろして、ヴァイツは小さく鳴いた。
 
 嗚呼、その時は俺が息の根を止めてやろう。

 ドラゴンとペットは、今日も寄り添い、眠る。

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