ドラゴン、昼寝を邪魔される

 ガサガサと草をかき分ける音とともに、血のにおいがふわりと臭ってきて、ヴァイツはその眼をゆったりと開けた。
 その気配には気付いていたが、脆弱な者であると分かっていたから無視をしていた。獲物として何かに追われているのだろうとあたりをつけていて、いずれ捕まるか逃げ切るかするだろう、と気にもとめずにいた。
 助けに行く、などということは微塵も思いつきはしなかった。弱者が強者に蹂躙されるのは世の常だからだ。
 しかし、その追われている何かの気配と血の臭いが段々とこちらへ近づいていたので、ヴァイツは仕方なしに目を開けたのだ。
 下等で脆弱な存在とは言え、気配と臭いというのは、敏感なヴァイツの意識の傍らにどうしても引っかかる。小蠅にたかられるのと同じだ。眠るには些か鬱陶しい。
 それに加えて、それを追っている何かの気配の持ち主が誰なのかも気付いたから、余計にそのまま無視して寝ると言うことができなかった。
 邪悪で巨悪なその気配は、親しみ深いものだが、眠りこけるのはヴァイツの本能が許さなかった。
 丸まり地につけていた顎を持ち上げ、グルル、と低く唸る。ビタン、と尾が地を一度叩いた。軽く叩いたつもりだったが、地面が抉れ砂埃が舞った。

 のし、と、ヴァイツが立ち上がったのと、それが草むらから飛び出してきたのはほぼ同時だった。

 それは小さく脆弱な存在だった。血の臭いを纏っている通り、傷だらけのそれはぼろぼろに汚れていた。
 小さなそれは、目前のヴァイツを見上げその真っ黒い目を大きく見開いた。

「ど、ドラゴン……?」

 それは自分のような個体を表す種族名だった。その言葉の意味を正しく理解できたのは、随分前に言葉を覚えさせられたからだ。
 じろりと見下ろしてやれば、それはぶるりと震え、へなへなと座り込んでしまった。

「は、ははっ……うそ、だろ。なんで、こんな、俺っ」

 ガタガタと震え目から滴をぼろぼろとこぼし始めたそれを、ヴァイツは静観していた。否、目の前のそれをどうすべきか考えていた。
 まず、腹の減り具合を確かめる。数時間前に巨大鳥を食べたので、さして腹は減っていなかった。それを食べる気分ではない。
 見逃してやっても良いのだが、この様子だと自分からここを去れるような状態ではないだろう。
 ヴァイツはこのまま再度眠りたかった。しかし、それがずっとここにいられても眠りの妨げになる。
 ならば、殺してしまおう。ぐるる、と喉を鳴らして口を開けようとして、唐突に周囲に充満した魔力に咄嗟に口を閉じて構えた。
 本能から咆哮を上げれば、びりびりと周囲に振動が走る。

「おーいおいおい、まさかここに逃げ込むとはねぇ。まったく、遊んでないでさっさと始末すりゃ良かった」

 ひょこりと出てきたのは、ヴァイツの目前で座り込み呆然としているそれとよく似た風貌をしていた。
 二本足で立ち、二本の腕を器用に使いこなす、ヴァイツからすればたいそう小さなそれ。しかし、ヴァイツは知っていた。
 座り込むそれと、飄々と現れたそれは、似ているようで全く違う。

 恐怖で震えるそれが、人間、と呼ばれる種族であることを知っていた。
 ヴァイツに動じない、底の見えない魔力を纏うそれが、魔族、と呼ばれる種族であることを知っていた。

 よくよく見れば魔族の耳は長いし、爪も鋭利だ。瞳は血のように赤く、邪悪だった。

 その魔族は、座り込む人間をつまらなそうに見た後、ヴァイツに向かって遠慮無しに歩いてきた。目尻を下げ、頬を緩めて、その魔族は笑った。

「その様子だと、寝ていたみたいだな、ヴァイツ?」

 一つうなり声を上げれば、幼子に謝るような顔をして魔族はヴァイツの白銀の鱗を撫でた。

「ごめん、ごめん。起こすつもりはなかったんだ。本当だって。暇でそれで遊ぼうとしてたんだけどな、わりとすばしっこくてなあ。まあ、余裕で捕まえられる範囲だったけど、どこまでもつか見てみたかったし適当に泳がせてたんだ。まさかここに来るとは思ってなかった」

 そう言って、魔族は座り込む人間を見た。その視線に人間はびくつき、ぼろぼろになった衣服を掻き抱いた。震えるそれは、ヴァイツに抱いている恐怖とはまた別のもののようだった。
 ヴァイツとしては、魔族に人間が何をされたのか……何をされようとしていたのかなど、興味はなかった。ヴァイツにとってそれは全く関係のないことだからだ。
 しかし、その魔族はべらべらと喋り出す。

「それな、人間どもが異世界から召還した奴らの一人でな。たかが人間風情が俺たち魔族を倒すとか調子に乗ってるから、一匹浚ってきたんだよ。しっかし、浚ってみりゃ、そいつは外れの方だったらしい!他の召還者みたいに魔力持ってるわけでもないし、もっと選んで浚ってくれば良かったんだけどな。使い物にもならないし、殺しちまおうと思ったんだが、顔は随分と良いだろ?殺す前に愉しもうかと思って、追いかけっこしてたんだ」

 けらけら笑う魔族を、ヴァイツは不可思議な気持ちで見ていた。
 以前より、ヴァイツは気になっていたのだ。なぜ、魔族や人間という種族は、種を残すための行為を、種を残す目的無く行うのだろうと。
 特に、この魔族は雄で、あの人間も雄だ。雄同士で子供は出来ない。
 首を傾げ、そして改めて人間をしげしげと見つめた。この魔族が番たい、と思う何かがそれにはあるのだろうか。

 のそのそと近づき、口を開けばそのまま飲み込めてしまいそうなくらい近くで見つめれば、その人間は顔を真っ青にして固まった。
 鼻先をそれの胸や腹、頭に近づけにおいを嗅ぐが、血のにおい以外特に臭わない。本能を刺激されるようなにおいもしないし、ますます、これと番おうという気を抱いた魔族が分からなかった。

 しかし、そのヴァイツの行動をどう捉えたのかはヴァイツの預かり知らぬところだが、どうやら魔族の中の何かをいたく刺激したらしい。

「ヴァイツ!!」

 魔族は大声を上げた。そこには、多大なる喜色が込められていた。何事だ、と首で振り返るのと、その魔族がヴァイツの首に抱きついたのは同時だった。

「ヴァイツ!俺の可愛いヴァイツ、おまえがそこまでそれに興味を示すなんて!」

 妖しい瞳がぎらぎらと光る。

「おまえが、食事と睡眠以外に興味を示すなんて無いと思ってた!だから、俺はおまえに何を与えてやれるだろうってずっと考えてた。忌々しいが、兄貴もそうだろうな。でも、今、俺はおまえに初めておまえが興味を持ったものを与えてやれることが出来る!ああ、今日はなんて良い日だろう。ヴァイツ、勇ましく凛々しく愛おしい子。その人間をおまえにプレゼントしよう。生かすも殺すもおまえ次第。今日からそれはおまえのペットだ」

 そう頬摺りしてくる魔族……ミルドレークは、微笑み、ヴァイツの鼻先に軽くキスをした。
 それを些か鬱陶しく思うも振り払わなかったのは、ミルドレークの為、ではなく。ペット、という自分には到底関係ないと思っていた単語に少しばかり興味をそそられたからだった。


prev next


[2]
ドラゴンのペット

Back

2016.10.31〜